金の瞳に焦がれ
朦朧とした意識で、ラウは夢の中をさまよっていた。
ひとたび目を覚ませば、そこにあるのは思い通りに動かない体だけだ。自然眠りに逃げる形になって、寝苦しいにもかかわらずよく夢を見た。
その日現れたのは一人の子供。息せき切って走る姿が眼前に浮かび、それが自分の幼少期であることに気付いて追いかけた。
――あの頃。何を見ても、何に対しても、怯えているような子供だった。
自分を見る大人の顔のぶしつけなこと、自分に声をかける子供の目の忌々しげなこと。びくびくと周囲を伺っていた自分を弱々しいと叱り追いまわした同居人の少女でさえ、彼にとってはもはや恐怖の対象にしかならなかった。
金色の瞳を恐れる者や敬う者はいなかったが、好奇の視線はそれだけで彼に刺すような痛みをもたらす。珍しいということはすなわち、どうあっても溶け込めないということで、獣のなかでさえ異形であった自分を思い起こさせたためだ。
言葉を覚えていくにつれて、それまで意味を為していなかった暴言は形を取って彼を傷つけ始めた。
恐れ、逃げて、飛び込んだ先で、ラウを拾った老婆は言う。
「人がお前を恐れるのは、お前が人を恐れるからだ、ラウ」
暗闇が視界を覆っていくような心地がした。――受け入れてくれる者は、もとからどこにもいなかったのだ。そう悟ってラウは里を飛び出した。どこまでも続く平原をがむしゃらに走って、精魂尽き果てた頃に華やかな町を見た。
均整の取れた岩や木、規則正しく作り上げられた人々の営み。初めこそ活気立つ人の群れに目を奪われたが、彼らから受ける目は、里の天虎が自分を見る目とは比べ物にならないほど冷たかった。
汚らしい。物乞い。まるで獣だ。罵る言葉が執拗に耳を裂く。
「……それにあの目。気味が悪い」
どこまでも付きまとって来るようなそれを振り切って、いつしか彼が辿りついたのは花園だった。
天に姿を誇らんとするような花々や、その周りを飛び交う蝶に幼い目が奪われる。垣根に隠れ、傷だらけの膝を抱えていると、自分の場違いさに気付いて頭がくらついた。――どこにもいられない。どこにも行けない。そんな薄汚れた子供が、ひとりきり。
縋りつこうと手繰り寄せたのは唄だった。命を落とした者を山へと届ける送り唄は、ラウが老婆から与えられたもののひとつだ。自分を常世にくくりつけるように、うろ覚えのそれを何度も何度も口ずさんだ。
ざっ、と土を踏む音にその唄は途切れる。驚きのままに顔を上げると、垣根の裏を覗きこんだ人影が小さく悲鳴を上げた。
――ここでも忌まれるのだ。行き場を失くしたラウは、ついに声の主をきつく睨みつけた。
よくよく見れば、それは鮮やかな紅の着物をまとった少女であった。癖のない長い髪を結いあげ、大人びた李花のかんざしを差している。身に付けるものに反して背丈はユフェンより小さい。危ういほどの幼さに不安を覚えながらも、ラウは彼女を近づかせないように鋭い視線を投げかけ続けていた。
けれども彼女の目に宿ったのは恐怖でも好奇でもなかった。人里に迷い込んだ野うさぎを見つけたとばかりに、小さな体を揺らして近寄ってくる。咄嗟に身を離すと、少女はびくりと足を止めた。困ったように眉根を下げて、ラウの膝を指さす。
「でも、怪我」
ぽつりと呟いて「そうだわ」と着物の袂をまさぐる。
やがて目の前に差し出されたのは、少女の小さな手には不似合いな薬入れだった。表に梅の紋が描かれたそれを開き、彼女は包まれた粉薬をつまみあげる。
妙案だと言わんばかりに近づいてくるので、いよいよもって恐ろしくなった。ラウは身を引こうとするが、それよりも早く彼女はラウの傷口に薬を撒く。痺れるような痛みに彼は飛びのいた。
「な……なに、今の」
「お薬。お母様が持たせてくださったの」
自分の功績を誇るように胸を張る。しかし傷は治るどころかじんわりと痛みをぶり返すばかりだ。ラウが顔をしかめていると、少女は不思議そうに首を傾げた。
「効かないの?」
「痛い」
「ほんとう? 大事なものだから、よく効くはずなのに」
ううんと頭を抱えて考えこむ。それからぱっと顔を輝かせた。
「きっと飲むお薬なんだわ。ほら」
また粉薬をつまみあげると、今度はラウの口元へ運ぼうとする。大きく首を振って拒否した。
「の、飲まない!」
「だめよ、それじゃあ治らないわ」
たおやかな見かけとは裏腹に強情なのであった。ラウが払いのけるそばから、ぐいぐいと指先を押し付けてくる。
この少女は万能薬の存在しないことを知らないのだ、と思った。とはいえラウも、薬が毒にもなり得ることすら知らなかった。少女の顔つきを見る限り害意はないらしいと判断して、仕方なしに口を開く。塩を撒くように放りこまれた得体の知れない粉末は、舌の上で強烈な苦みを生んだ。
「治った?」
「……わからない」
でも、痛くない。ぼそりと付け足すと少女は嬉しそうに笑う。痛みに向いていた意識が舌に向けられたためだと判断するには、まだラウは幼かったのだった。
少女はラウの前にしゃがみ込み、しげしげと傷口を眺める。
「あなた、転んだの?」
「ぶつけたし、切った。虎風山で」
「こふ……」
「……山。あっち」
指さすけれども、広がっているのは途方もない空ばかりだ。誰よりも遠くを見渡す目を持つと自負していたラウは衝撃を受けて、ぴんと張っていた指先を力なく下ろす。少女は疑うことを知らないのか、その説明にもふんふんとうなずいた。
「お山があるのね」
「や、山もあるし、里がある。俺はそこに住んでる。……住んでた」
「それじゃあどうしてお屋敷に来たの?」
目をぱちくりとさせる、その無邪気さが胸を刺した。
きっと彼女は何も知らないのだ。汚れのない服を着て、傷のない指先で薬をつまみ、曇りのない瞳で自分を見つめる少女は、排斥されることの苦しさなど味わったこともないのだろう。
「どこにも行けないから」
気が付いたときにはそうこぼしている。少女が真剣な表情でうなずいたのがきっかけになった。
「俺は獣じゃない。でも人間じゃない、から、どこへ行っても嫌われる」
言葉を十分に使えない。道具の扱いも知らない。天虎に育つ子供なら五つほどの子供でも出来ることが、十を越えたラウには未だにこなせなかった。それを彼らは嘲る。拾い子だからと分かったような顔をして、影では同じように笑っている。
「認めてもらえない。誰にも」
ラウは自覚のないまま奥歯を噛みしめていた。
だから弱いと老婆は言うのだ。耐えきれなくなり逃げ出して、偶然出会っただけの少女に恨み言を吐き出すような子供であるから。しかし一度口を突いた鬱屈は留まることを知らず、流れるだけ流れて胸の奥を嫌悪に染めていく。
――一言でよかった。
「大丈夫よ」
その、たった一言が欲しかったのだ。
花の香りが漂う。それが着物から薫るものだと気付いたのと、目の前が暗くなったのが同時だった。ラウの頭をいとおしむように撫でた少女は、恐れるものなど何もないかのような表情で柔らかく微笑んだ。
「大丈夫。あなたはきっと、大丈夫だから」
何も知らないくせに。湧きかけた反感も、彼女の声色に崩れていった。
確証のないはずの言葉は、彼女の口を介した瞬間に、過去から続く約束ごとのような響きを纏った。それを無防備な耳に受け取るたびに、ラウの中でぱっくりと開いた傷口が癒えていく。うつむいていなければ涙がこぼれそうだった。
「お守りをあげる」
戸惑うラウの手に握らされたのは、大事なものだと彼女自身が言ったはずの薬入れ。押し返そうとしたラウを、少女は大きく首を振って留める。庭園の端から呼び声が届いたのはそのときだ。
「お嬢様、彩香お嬢様!」
少女がラウの手を引いて立ち上がり、申し訳なさそうに首を傾けた。
「呼んでる」
「……あやか」
「私の名前。行かなきゃ怒られてしまうわ。……あなたも、お父様に見つからないようにね」
またね、と手を振り去っていく。
残されたものは薬入れと、花の香り。そして名前。結ぶ縁は無いに等しかった。
「彩香」
その名に意味を添えて呼べるようになったのは数年後。華の文字を覚えてからのことだった。
日は高くに昇っているらしい。
布団の中の生活を始めて一週間と少し。何よりも深刻だった腕の怪我も、里の医師の手当てによって出血は完全に止められている。長引く痛みは残ったが、無体をしなければやがて治るだろうと聞かされていた。
「ユフェン」
蚊の鳴くような声に反応し、姉代わりの娘はすぐに顔を上げた。手持無沙汰にしている彼女の姿にいたたまれなさが募る。彼女が未だに家を出ていけないのは、自由に体を動かせないラウの存在を気にしたためだ。
二度目の襲撃で、里は再び大きな損害を被った。里の男の大半が寝たきりの生活を余儀なくされ、残された者たちも看病や食料の確保に奔走している。被害を逃れたイェンロンの指示が迅速に回されたのは不幸中の幸いだった。動ける者を集め、他の里から人手を借りてきたのである。
数ヶ月もすれば完治する、とユフェンは彩香の言葉を皆に伝えた。その頃には以前どおりの生活が戻ってくるだろう。彩香が里を訪れる前、ラウが里にいたころの生活が。
――冗談ではない。
やっと見つけだしたのだ。もう元の通りには戻れない。妻にすると、望んだのは自分だ。
「調べて欲しい。抽斗の中に、小物入れがあるだろう」
「ええ、確かに」
「中に薬がある。少量湯に溶かしてくれ」
ユフェンが目を丸くして、小走りで棚の方へと足を向ける。中の薬入れをラウに見せ、これですねと確認を取ると、慎重に蓋を開いた。中に詰められているのは片手に乗せきれるほどの量の白い粉末だ。
「湯……ですか、まさか、飲むつもりで?」
「ああ」
「十年以上前のものでしょう。むしろ毒になるのでは」
彼女の憂慮ももっともなことだ。そもそもその薬品が何を目的として用いられるものなのかを、幼い彩香もラウも理解していなかった。傷薬ではなく、また健康な子供の身で服用しても何の効果も生まないことは確かであるが、体の弱った大の男が口にして無事に済むようなものなのかまでは定かではない。
大事なもの。お母様の預けて下さったもの。彼女はそう言った。
「夢は示唆だと、昔ばば様が言ったな」
山の精霊が運んだ夢は、彼らが見せるべきと判断したものだ、と。
ユフェンが渋い顔でうなずいた。その言いつけは、代々巫女となる娘に伝えられるものでもあったからだ。
「それを夢に見た。初めて彩香に会った時の夢だ。その薬がなければ治らない、と言われた」
「彩香? なぜそこで彩香が」
十五年も前のことを、ラウは誰にも話していなかった。問い返そうとしたユフェンが息を飲む。ようやく納得がいったのか、呆れたように大きく息をついた。
「嫁取りを拒んだのは、そのせいですか。そのために十五年?」
「そのせいでも、そのためでもない。……それがあったから、だ」
幼く無垢な一言が、いったいどれだけの安堵を金目の子供にもたらしたかを、彼女は知らないだろう。事実、本人が忘れてしまう程度のことだ。華と壁の外の人間との隔たりを理解すれば、再び会おうとまでは思わなくなった。ユフェンが何を言おうと妻を迎えないまま、一人で死んでいこうとさえ考えていたのだ。山の精霊となって華へと飛んで行けるなら、それでもいいと。
再会した彼女は、その根を朝妻に埋めていた。望みを叶えることを知らない目をしていた。願いを持たず、夢を持たず、与えられた言いつけと知識だけを受け取り溜めこんでいくだけの娘になっていた。だからその目が自由のために輝くならば、教えてやりたい、と思った。
「十五年、抱え続けてきた想いだ。募らない方がおかしい」
「……あなたは」
ぴんと額を弾かれる。小さな衝撃に顔をしかめて見上げると、ユフェンが呆れきった表情で立ちあがるところだった。
「馬鹿に付ける薬は無いと言いますが、たった今よくよく理解しました。万が一痺れが取れても、その頭だけはどうにもならないのでしょうね」
枕元を離れた彼女が向かった先は台所だ。ぐちぐちと文句を垂れながらも頼みは聞いてくれるらしい。やがて湯の沸く音が聞こえてくると、ラウは自力で体を起こした。関節は凝り固まったように渋り、体は重い。自在に動かせるようになるには時間がかかるだろう。だが、ただ待っているだけでは遅いのだ。
薬を飲むことを、賭けだとは思わなかった。
ただ信じるだけのことだ。目に見えぬ山の存在を信じた、幼い彼女のように。