体の痺れは、一ヶ月も経たないうちに完全に引いた。
 現在も動くことのままならない天虎たちと比べれば薬の効き目は明らかだ。思い通りに体を動かせると判断し次第、彼が赴いたのはイェンロンのもとだった。被害を免れた天虎たちが集まるその家にラウが顔を見せると、彼らは一様に息を飲んだ。
「人がいるならちょうどいい。見てくれ」
 言って、彼らの前に薬を差し出す。
 別の器に入れ替えられた白い粉末に注目が集まるのを待ち、古い薬であること、それでも効果があったことを、自分を例に説明する。疑う理由も信じる理由も半々だ。最後まで聞いたイェンロンは深く考え込んでからうなずいた。
「飲むも飲まないも本人に任せる、その上で薬を使わせてもらう。それでいいか」
「ああ、いつまでも他の里に人手を借りている訳にもいかないはずだ」
 人里の繋がりを重要視し、頻繁に重役が挨拶回りに向かうのは、今回のような有事を見越してのことだった。快く手助けを容認されたことは幸いだったが、それに頼りきっていては今後の天虎の里は立ち行かなくなるだろう。
 ラウから薬を受け取ったイェンロンは、それを控えていた青年に預けた。
 さて、と話題が切られる。
「用事はこれで終わりか?」
「いや」
 即座に首を振る。だろうな、とイェンロンは言って、ラウの膝元に目を下ろした。
 そこには子供の背丈ほどの棒が置かれている。天虎の人間が武術の稽古に使うためのものだ。使い古されているために馴染みはよく、持ち上げれば手にずっしりと重みを返す。練習用の棒であるとはいえ、ありったけの力で脳天に打ち下ろされれば気絶は免れないだろう。
 ラウは指先でそれに触れたまま、ひとつ深い呼吸をした。
「里の馬を借りたい」
「用途は」
「華へ、彩香を連れ戻しに行く。そのために平原を越える」
 誰もが予想していた答えだった。イェンロンがため息を漏らす。
 天虎の馬は里全体の所有物として共同の管理のもとに置かれている。ゆえに平原での狩りや他の里への使いに用いられる際には長の許しを得るよう定められていた。しかし先の痺れ薬の一件があり、無事に走れる馬は今や少数しか残されていない。イェンロンは渋い顔をして問うた。
「ラウ、お前ひとりか」
「ああ」
「ひとりで何ができる? 右手もまだ治っていないだろう」
「左手があれば十分だ。足りない分は棒で補う。……そもそも戦いに行く訳じゃない」
「里にこれだけの被害を与えてまで先生を連れ去った輩が、はいそうですかと彼女を返してくれると思うのか」
 無謀を諌めていることは察せられた。それを当然だとも思う。
 彩香を屋敷から連れ出した際にも朝妻の私兵に取り囲まれたラウだ。一対一ならば片手でも十分だとはいえ、徒党を組まれればすぐに立場は逆転するだろう。
 そんなことは端から理解している。それでも、里に留まっていることなど選べなかったのだ。
「はいそうですかと受け入れられないのは俺も同じだ。馬が使えないないなら歩いてでも華へ行く。あれは俺が妻にすると決めた娘だ」
「……考え直せ、ラウ。もともと先生は華の人間なんだ、本来あるべきところに行きついただけだろう」
「彩香が去り際にどんな顔をしたか分かるか」
 ふいに飛び出した問いかけにイェンロンは口をつぐむ。彼がやがて首を振ると、ラウは眉を寄せた。
「諦めていた。全て飲みこんで、歯を食いしばって。……イェンロン、彼女は何故あんな顔をしなければならない? 天虎の里が、この里が、彩香の望む場所だったからじゃないのか」
 助けて、と言えなくなったのは、傷つく者が出たからだ。
 それは倒れていた天虎たちのみではない。あのとき、里に住むすべての人間が彩香にとっての人質だった。女子供の別もなく振りまかれた赤い霧がどれだけ彼女の胸を痛めたか、伺い知ることもラウにはできない。
 それでも確かに、彼女はここにいたいと言った。家族でありたいと言っていた。二十年もの間自由を許されなかった娘の我儘を、何故彼女は自分で飲みこまなければならないというのだ。
「俺はひとりでも行く。それも叶わないなら、天虎を抜ける」
「ラウ!?」
 見守っていた者が声を上げたのを皮切りに、ざわりと動揺が伝播する。その中で無言を保つのは中央に座る二人のみであった。心臓を握りしめるような緊張の後に、イェンロンは深く息をつく。
「お前の言いたいことはよくわかった」
「なら、」
「だが許すかどうかはまた別の話だ。俺は長として、ラウ、お前をひとりで行かせることも、天虎から抜けさせることも認められない」
 吐き出すことのできない怒りが、ラウの纏う空気に満ちる。その飛び火を恐れた天虎たちは思わず息を詰めた。彼の視線を一身に受け止めたイェンロンがふいに立ちあがると、全員の目が彼のしかつめらしい顔に注がれる。
「それでも従えないなら、分かっているな」
 ラウは束の間言葉を失い、その意図に思い当たって左手に棒を取った。
 部屋の中に引きしまった空気が流れる。イェンロンの手が自分の髪に触れた。強者が長となり、里の意向を定める――武器を取って長の前に向かうのは、互いの優劣を明らかにせんとすることと等しい。無言で家を出た二人を、残された天虎たちは慌てて追いかけた。彼らが足を向けたのは里の外に広がる平原だ。
「ここでいい」
 呟き、イェンロンはラウから距離を取って立つ。急ぎ用意された棒が彼に手渡されると、誰もがごくりと唾を飲んだ。ややあって、そのうちのひとりが彼らの前に立ち、双方を見据えてから片膝を地につく。
「山と俺たちが見届ける。いいな」
 互いにうなずき、二人は数歩ほどの距離を挟んで対峙する。
 沈黙が二人を煽るたび、ラウの体の奥に眠る血が煮えたぎる。突き、殴りつけ、蹂躙し、征服せよと、牙も爪も持たぬ身の獣が吠えたてる。すぐにでも食らいつき、跪かせんと唸り声を上げる。獰猛な虎が身のうちに棲むことはとうに理解していた。彼の意志に身をゆだねれば己がそれになれるのだということも。
 その獣を黙らせるつもりはない。だが身を任せるつもりもまた、なかった。
 二人の棒が同時に地を突く。それが始まりとなった。
 大地を蹴った彼らは互いの急所を狙って棒を振るう。頭を、喉を、腹を、鳩尾を。そこに容赦の存在する余地はない。叩き落としては払い上げ、風を切る一閃に隙を探る。棒の辿る軌跡は風の中に一払いの残像を描き、瞬きの後には相手の体躯を目指す。
 は、と吐き出した息は短い。止めると同時に棒を振るった。そこに生きる誰にも平常の呼吸は許されない。荒く乱すか、制しきるか、もしくはそれも忘れて見守るのみ。ぶつかりあった木片の猛りは途方もない平原に遠く響いていく。
 片手で棒を振るうラウに、打ち合いを長引かせるつもりはなかった。疲れが重くのしかかるのは自分の方だ。しかし勝負を急げば制されることもよく知っていた。手堅く軽い突きと一閃をくり返すイェンロンはその焦りを待っている。
 ふと笑みが漏れたのは、緊張に頭を狂わせたためではなかった。
 長引けば勝てない。急いでも負ける。――ならば迷う理由はないのだ。
 体をひねり、棒を大きく打ち払う。力のこもったそれをいなし反撃を狙うイェンロンに対し、ラウは受け身のために棒を用いることはしなかった。無防備のまま晒された右腕が強打される衝撃と激痛を頭から追いやり、残された棒を握り返す刀で打ちつける。
 かあん、と鳴り渡ったのは、二対の棒が打ち合う音だ。
「くっ」
 ラウの一撃をすんでのところで受け止めたイェンロンは驚愕に目を見開く。その一打はあまりにも軽かった。――振るうべき得物を投げつけたのだ。それを理解した直後、イェンロンの体はラウに押し倒される。
 膝で両脇を固め、左腕で首を掴む。荒い息の合間には金色の目が爛々と燃えていた。
「……勝負、あり」
 ぽつりとつぶやいた声が誰のものであったのか、発した本人でさえも気付かないほどであった。その言葉に従って腕だけを戻したラウを眩しそうに見上げ、寝転んだままのイェンロンは深く嘆息した。
「……少しぐらいは、右腕を大事にしろ」
 たらりと落ちた滴に目を止めて、ラウは右腕をかざした。どうやらまた治りは遅くなりそうだ。医者やユフェンが口を酸っぱくするのが容易に想像できた。肩をすくめて、笑ってみせる。
「怪我人が敵う相手じゃない」
「今それを言うなら嫌味にしかならん。それと得物を投げるな、俺ひとりが相手だからいいようなものの」
「お前ひとりが相手だっただろう?」
 よろめきながら立ち上がると顔をしかめられる。頭上から浴びることになった土を払い落して、イェンロンもまた体を起こした。
「まったく口の減らない奴だ、昔から変わらん。……ん、あれは」
 ぶつくさと呟いた彼の目が、里の方角を見て眇められる。六頭もの馬が彼らを目指して駆けてくるのだ。やがて視界にはっきりと映ったのは、二頭の馬に乗って残りの馬を引き連れた少年たちの姿だった。ラウの前に馬を止めると彼らはその背から軽やかに飛び降りる。
「双子……お前たち」
「双子じゃないって言ってるだろ」
 渋面のイェンロンをひと睨みして、エンはついとラウを見上げる。
「先生、助けに行くって」
「ああ」
 彼の口からその呼称が飛びだしたことに内心で驚きながら、ラウは神妙な顔でうなずく。するとエンはぼそぼそと続けた。
「そのために、長に、なったんだろ」
「……そうだ」
「馬!」と耳を叩くような声で叫び、エンはちらと後ろを見やる。そこには馬をなだめるユンと、ラウを一心に見つめている天虎たちの姿があった。
「連れてきた。六匹で、足りる」
 ぶしつけなそれは問いかけだった。答えを待つエンから目を離し、ラウはそこに残っていた男衆を眺めやった。
 居てもたってもいられないと身を震わせる彼らは、やはり天虎の民なのだ。最後に呆れた様子で腰に手をやったイェンロンと視線を交わし、ラウは二度三度とうなずく。乱暴にエンの頭を撫でるとぴしゃりと跳ねのけられた。
「一緒に来てくれる奴はついて来い。俺の……俺たちの家族を、返してもらいに行こう」
 おおと歓声を上げた男たちが、早速五人の選出に言い争いを始める。里の復興、看病や狩りに次々と駆り出されていた彼らにも、よほどの鬱憤が溜まっていたのだろう。騒がしさを増した彼らの諍いを背に、ラウはイェンロンを見下ろした。
「行ってくる。後は頼む」
「どれだけ里を預かっていたと思ってる」
 任せておけと小さく笑って、イェンロンはひらひらと手を振った。ラウもまた唇の端をつり上げる。
「里だけじゃない。ユフェンもだ」
「……は?」
「守ってやってくれ。口うるさくとも、俺の姉代わりだ」
 はあ!? とふり向いた男たちと、ぎこちなく目を逸らした少年たちがいた。優に十数秒はあんぐりと口を開いていたイェンロンが、徐々に顔をしかめていく。
「ああ、くそ」
 毒づいて、悔しそうに、かつての里長であった男は、しかし、くしゃりと破顔した。
「お前は本当に嫌なガキだよ、……昔からな!」