赤い霧は瞬く間に里を覆い尽くした。
この時期の虎風山の風は、山の傾斜を下って里へ吹き込む。そのため風上にあたる山際に集っていた天虎の男たちが異変に気付くのは早かった。煙の臭いと刺激を伴った空気を感じ取るや否や顔色を変え、まずは火事を心配した者、それから華の者の襲撃を疑った者が現れる。その疑念が現実となるまでには数分もかからなかった。
風に伝わって、視界が赤く覆われたのがほんの数秒後。最初のひとりが苦悶の表情を浮かべ倒れこんだ段階で、はっとしたラウは裂いた服の裾で口と鼻を塞いだ。しかし指先から手首、腕へ向かって、縛られるかのような痺れが体を飲みこんでゆくのを止めることは不可能だった。
ばたばたと倒れていく仲間を見回して、粉塵の中に立ちつくす。体が動かないだけで意識はあるのだろう、彼らは煙の向こう側をきつく睨み据えている。
華の人間か、と曇った視界の中で思う。やり口は変わってもその卑劣さは同じだ。汗のにじんだ左手に短刀を握る、その直後に目の端で刃が閃いた。
きいん、と金属音。咄嗟に短刀で受け止めたものの、痺れた足では踏ん張れずに転がった。十を越える倒れた天虎たちの中心にひとり、ぽつねんと立った人影が鼻を鳴らす。
「お嬢様はどこだ、蛮族ども」
若い声には聞き覚えがあった。
「キ、リ……か?」
体をうつぶせにして顔を上げる。手を突こうとしても力が入らない。
その青年は小ぶりの脇差を手に立っていた。鼻と口は完全に覆われている。無感情な目がラウを映し、そこに嫌悪を灯した。
数歩分の足音の後、目の前にしゃがんだキリによって胸ぐらを掴みあげられた。体重が首元の一点にかかり、ラウは息苦しさに声を漏らす。
「俺は言ったな。お嬢様を危険にさらせば、どこまででも追いかけて貴様を殺すと」
「……連れ戻しに来た、のか、今さら?」
「黙れ」
腹に足蹴を受ける。強制的に腹の中の空気が吐き出され、大きく咳き込んだ。その弾みで口元を覆っていた布が外れ、呼吸をした拍子に霧を吸いこむ。痺れはやがて痛みへと変貌し、指先の感覚が消えていった。
「無駄なことは喋るな。お前が口にしていいのはお嬢様の居場所だけだ」
「彩香は、俺たちの。天虎の、家族、だ」
肋骨を蹴りこまれる、と同時に腕を離されて転がった。治り始めていた右腕の傷が開き、抉られるような痛みが襲う。瞬く間に血の染みだした包帯を感慨もなさげに見やって、キリはその腕に足を押し付けた。
肉が潰れ、骨が軋む。おぞましいほどの苦痛がせり上がり、一瞬、確かに意識が飛びかけた。
「お嬢様が? 家族? ……ふざけるのも大概にしろよ、獣と大差ない蛮族の分際で」
地を這うような声もラウの耳には入らない。右腕を踏みにじった足の下には、黒々とした血だまりが作られる。痺れを生む赤い霧が体の感覚を奪っても、痛みだけはなおも鮮烈にラウの脳を焼いた。
意識を消してしまおうとする頭を気力だけで支える。鳴りやまないラウの苦痛の声に、耐えきれなくなった天虎たちが目を背けた。彼らは這いつくばれども手足を動かすことはできず、キリの気を逸らすことすらかなわない。
もがくラウを見下ろした青年は、忌々しげに眉を寄せた。
「お嬢様のお帰りになる場所は朝妻の屋敷、ご家族は旦那様ただ一人だ。婚約を控えるお嬢様に、それ以外のものは必要ない。それがあの方の安寧を守る道だ」
何の疑念も抱かぬ目をしていた。頭の隅で、ラウは、彼の言葉を彩香が聞いていないことに安堵する。――彼女は李だ。もう庭の花ではない、山に根を張った李の木だ。傷だらけの枝葉を、怯えながらも伸ばしてきたのだ。今になってそれを否定され、刈り取られるような思いをする必要はない。
わき腹を強く蹴られ、ラウは仰向けに返される。赤々と燃えるような空にキリの髪が黒を落とした。鈍色の刀の刃先が喉元に触れる。
「最後だ、答えろ。お嬢様はどこだ」
忠誠が翳れば妄信に変わる。揺るぎない瞳は刃を折られたも同じこと。
檻に飼われていたのは、獣やラウだけではなかった。理解して、睨みつける。
「自由、を、奪うな。……彼女は、人だ」
繋ぎとめて、手元に置けば、それで永遠が自分のものになるなどと、ただの世迷言。
激情を瞳に移した青年が刃を垂直に振り上げる。地面を轟かせたのは足音だ。その荒い息遣いに驚愕が混じり、次の瞬間には彼女だと気付いた。
「ラウ――!」
響く名前。声が出す余裕があれば嘆息していた。
なぜ。
なぜあなたは、ここに来てしまうのか、と。
天虎の男たちが輪を描くように倒れ込んでいる。その中で手傷を負っているのは一人だけだった。水たまりのように波紋を作るものが血であると気付いた瞬間、彩香は目を剥いた。
切り刻まれた痕はない。絞り取られたように血を流し続けるものは、包帯を赤々と染め上げたラウの右腕だった。虎の牙に貫かれた彼の腕が、今もなお形をとどめようとする包帯の中でどうなっているのか。想像しかけたその惨状を頭からふり払い、彩香は両足で地面を踏みしめる。
黒髪の青年が腕を止め、首だけで彩香を仰いだ。その手に携えた脇差に血痕が無いのを確認した彩香は不幸中の幸いを心に得る。
「桐」
「お嬢様、お迎えに上がりました。申し訳ありませんが少々お待ち下さい、朝妻を愚弄した輩を始末しますので」
「桐!」
再び、大声で彼を呼ぶと、胡乱げな瞳が彩香を見る。
「……あなたは、何をしているの」
「何、とは?」
外に倒れていたのは彼らだけではない。畑仕事を行っていた娘や、彩香が華学を教えている子供たちもまた、苦しげな呼吸をしたまま力を失っていたのだ。
「こんな……こんな痺れ薬を使って、彼を痛めつけて。あなたは、何を」
「旦那様のご意思です」
彩香が言葉を切るや否や、間髪入れずに告げる。
「あの方は、お嬢様を朝妻の屋敷にお連れするよう命ぜられました。ですからお嬢様も、もうこのような場所に暮らす必要はございません。私と共に帰りましょう」
淀みなく言いきった彼の足元で青年が体を震わせる。体をうつぶせにし、地に爪を立てて、濁った金の瞳に彩香を映していた。
「や……めろ、行くな。もう、帰らなくて、」
「黙っていろ」
苛立たしげに言った桐が彼の傷口を蹴りつける。掠れた悲鳴が彩香の耳を裂いた。
鋼色の刃が霧の中を走る。その切っ先が彼の首元に届かんとするとき、彩香は桐の背にしがみついた。がたがたと歯を震わせて彼の衣を握りしめる。狙いの逸れた彼の手が止まり、桐は不可思議そうな瞳で彩香を見やった。
「お嬢様?」
「……もうやめて。帰るから……家に帰るから。お願い、お願いよ、桐」
ラウの顔が驚愕に染まる。
剥き出しの鼻と口、そして時間を考えれば、薬が完全に体に回っていることは明らかだった。それでも彼は引きとめようと感覚もないはずの腕を伸ばし、血だまりに滴を落としていく。出血が続けば、取り留めた命も危うい。
――その意志を折らねば、灯火が消えるというのなら。
「すぐに家に帰ります。無駄なことをしないで。お父様も、お待ちでしょう」
「ええ、仰るとおりですが」
桐はラウに一瞥を投げ、進もうとする意志の消えない目を睨みつける。
「追われる危険があります。やはり足の一本は切り落としておいた方が」
「桐!」
叫んで、彩香は両腕に力を込めた。体勢を崩しかけた桐だが、再び立ち直ると無念そうに脇差を治める。空いた手で彩香の腕を取り、一言「失礼致します」と声をかけた。
何を、と考える間もない。腹に重い衝撃を受けて、間もなく目の前が暗くなった。
体が揺れている。ときおり軽く跳び跳ねる感覚には懐かしさがあって、彩香は少しずつ目蓋を開いてえいった。朱塗りの内装、四人乗りの座席、そして窓枠の形を順に眺めて、それが自分の送迎に用いられていた馬車であることを悟る。
ひたすらに続く平原の中を、二頭立ての馬車はゆるやかに進んでいく。同じ道をラウの背に負われていったのがつい昨日のことのように思われた。
「お目覚めですか」
眉を下げて問いかけたのは、彩香のはす向かいに腰かけた桐だ。顔を覆っていた布は外されているが、ふと彩香が視線を下げれば、彼の靴の先には赤黒い染みがこびりついている。赤い霧に覆われた里の光景を頭から追いやるようにして顔を背けた。
「申しわけありません。確実にお嬢様をお連れするようにとのことでしたので」
「逃げるかもしれないと思った? ……信頼は無いのね」
「否定は、できません」
当然だ。一度ラウを檻から逃がし、自身も屋敷から逃げ出した身である。ラウや天虎たちの安全を確かにしてから、彩香が逃亡を図ってもおかしくはない。事実、彼に昏倒させられなければそうしていただろうと彩香は思う。その口で信用しろという方が無茶というものだ。
桐は朝妻の家に仕えている。彩香に情を抱いたとしても、彼が知治を裏切ることはない。例え彩香に手を上げることになろうとも、必ず連れ帰って来いと命ぜられたのだろう。
押し潰されそうな思いに唇を噛んでいると、ふいに湯呑みを差し出された。濃い色の緑茶が水面にさざ波を立て、湯気を昇らせている。もう片方の手に水筒を掴んだ桐が、「薬湯です」と言葉を添えた。
「薬を吸われたご様子はありませんが、一応。旦那様が、先の薬を解毒するものだと」
彩香は湯呑みを両手で受け取ると口もとに寄せた。香りを鼻に入れ、それから舌先に乗せて、睡眠薬でないことを確認する。少しずつ口に含むと、熱と苦味が舌を痺れさせた。
ほっと息をついた桐が、空になった湯呑みを再び手元に戻す。何ごともなかったかのような穏やかな表情は、苑の授業の帰り道のそれと同じだ。
「屋敷では湯と着替えの準備をしております。それから温かい食事を。華の外ではさぞお辛い思いをされたことでしょう、ゆっくりお休みください。今日は疲れを取るようにと旦那様も仰っておられました」
「……桐」
「はい、お嬢様」
素直に言葉を聞く彼は、二か月前と同じように実直なままの青年だった。
彩香は瞳を閉じて思い浮かべる。花のような衣をまとった娘たち、懸命に学び無邪気に遊ぶ子供たちと、朗らかに笑い合う青年たち。山の端から広がった空は刻一刻と色を変え、月や星は手を伸ばせば届きそうなほどに近い。平原をさらった風は世界をめぐり、山を下りて、また平原へ還ってくる。あまりにも鮮やかに蘇る景色に影が差すのは自分のせいだ。
椿の花が、一輪。李に混じってはおかしいように。
平原は越えられなかった。天虎の里で過ごした日々は、二月の長い夢に終わった。
「置いていって、ごめんなさい」
青年が目を瞠る。
その先の表情を見るのが恐ろしくなって、彩香は視線を外へ向けた。