風吹く里
開いた目に最初に飛び込んできたのは、鮮やかな色の生糸が用いられた織物だった。華の流行りである花や獣の絵を織り込んだものとは異なり、円や直線を組み合わせた幾何学的な文様が描かれている。その織物が装飾として天井の全面に敷き詰められているのだった。
部屋にランプは存在しない。その代わりに、木造の壁に取り付けられた窓から外の光が入り込んでいる。全体を見渡すにはその明かりだけで十分だった。部屋は布団が二つ敷き詰められればそれだけで足の踏み場もなくなるような小さなもので、彩香はそこに一人で寝かされていたのだ。ゆっくりと上半身を起こしたところで、自分が昨晩と同じ着物をまとっていることに気が付いた。
「お目覚めですか」
鈴の鳴るような声がする。彩香は体をひねってその声の主を探そうとしたが、その弾みでくしゃみが出た。「あら」と言って、引き戸を開いた女性が枕元に寄る。
涼やかな顔立ちをした女性だ。赤と青を基調とした目に明るい服を着ている。対して、花の刺繍が施されたスカートは淡い色彩のものだ。彼女はそれを慣れた手つきでいなして座り込んだ。
「お風邪でしょうか」
「……多分、埃が」
もうひとつくしゃみをする。女性はそそくさと窓を開いてから、元の位置に座り直した。
「まだ片付けの途中で、人ひとりが寝られる部屋がここぐらいしか見つかりませんでしたので。華の方には少し酷でしたね。申し訳ございません、寝苦しくはありませんでしたか」
「いいえ、今までぐっすりと」
空気が入れ替えられて、呼吸が楽になった。清浄なそれは山際ゆえのものだろうかと考えながら、彩香は正座をして彼女に向き直る。
「あなたは?」
「ユフェンと申します。あなたのことはラウから伺っておりますよ。あれを華の屋敷から逃がしてくださったようで。ありがとうございます」
そう疑いもなく頭を下げられるので、口の中に苦いものを感じた。
逃がされたのはむしろ自分の方だ、と思う。ラウひとりならばもっと上手く逃げおおせていた。五体満足で眠っていられたのも、彼の力あってこそだ。彩香の表情が芳しくないのを見て取ったか、ユフェンは一度瞬いたきり話を逸らした。
「お名前を伺っても?」
「彩香です。あの、彼は」
「今は出ております。すぐに戻るとは思いますが、呼んで参りましょうか」
少し考えて、首を振った。二日間とはいえ華の者に連れ去られて里を離れていたのだ、天虎の者たちにも大きな混乱を与えていたことだろう。余所者である自分が我儘で振り回すのは気が引けた。
「ここで待ちます、忙しいでしょうから」
「ふふ、よろしいですのに。ゆくゆくは夫となる男、気にかかるのは当然ですもの」
ユフェンが花のように微笑んだ。そのたおやかさに見とれていた彩香は、危うく彼女の言葉を聞き逃しそうになる。
「……夫?」
この場で発されるには、あまりにもそぐわない単語だ。目をしばたかせた彩香に対し、ユフェンはゆらりと小首をかしげる。
「あなたを妻にと言ってはばからないものですから。とはいえ、婚礼はまだのようですね。少し経ったら執り行いましょうか、この場合は天虎の方式でよろしいのかしら」
「あの、少し待ってください、夫というのは」
「敬語でなくても構いませんよ。私のこれはただの癖のようなものですので」
「はあ……って、あの、そうではなくて」
「衣装は私にお任せください。ラウの奥方となる方ですもの、丹精込めて作らせていただきます」
彩香は頭を抱えたい思いにかられる。話を理解していないのが自分のほうだと分かっているからなおさらだ。ユフェンはラウの言葉を信じて疑わない様子で、終始にこにことしているので否定もしにくい。どうやら本人を問い詰めねばらちが開かないらしい、と彩香が嘆息したところに、助け船は現れた。
「起きたか、彩香。よかった」
開かれたままの引き戸に手を置いて、声をかけたのはラウだ。背丈の高い彼には部屋の天井は低すぎるようで、腰を折って木張りの床を踏むも、早々に胡坐をかいて座りこんだ。
「風邪は引いていないか。服が濡れているから着替えさせようと言ったんだが、こいつが頑として聞かなくてな」
ユフェンをあごで指す。彼女はつんと唇を尖らせた。
「何を仰います、殿方が女性の衣服に手をかけるものではありませんよ。それに、華の方が私たちの服をお気に召さないと困るでしょう」
「そんなことを気にする女性ではないと言った。そうだろう、彩香?」
話を振られるとは思っていなかった。あ、え、ともごもご言ったあとに、「だ、大丈夫」と答える。
むしろ、もう着物を身にまとう理由はなくなってしまったのだった。今までそれを着ていたのも、梅の紋の娘にふさわしい格好をと重く言い聞かせられてきたためだ。
八華連邦の結成以前、梅の紋の領地がまだただの菅流であった頃からその地に伝わっていた伝統衣装は、現在の菅流ではもう着つけの方法を知る者のほうが少ない。次第に周囲の紋の文化に染まっていく梅の紋の中で、彩香の着物は、身分の証以上の何物でもなかった。
「着せてくれるなら、今からでもお言葉に甘えたいわ。……もう着物も乾いてしまったから、着替える理由もなくなってしまったのだけど」
駄目かしら。後を押すつもりで尋ねる。
ユフェンがぽかんと口を開いて、数秒後、声を上げて笑いだした。軽やかな笑い声が響いていくのを彩香はおどおどと見守っていたが、彼女がくり返しうなずくのを見てほっとした。
「見当違いのことを申し上げていたようですね、失礼致しました。なにぶん、華の方は、みな私たちのことを蔑んでいるとばかり思っていたものですから」
「彼女は特別だ」
「ご自慢もほどほどになさいませ」首も向けぬまま棘を刺すのでラウは肩をすくめた。そのまま彼女は彩香に言う。「すぐに着替えを持って参ります。背丈も近いですし、私のもので十分でしょう」
ユフェンは音もなく立ちあがる。着物を着ていれば完璧と称されるであろう所作であった。彼女のようにしとやかな女性が華の外にもいるのだということを、彩香は驚きのもとに認識することになる。残り香のように、スカートがひらりと舞った。
ラウは先ほどまでユフェンの座っていた位置に身をずらすと、大げさに息をついてみせる。
「あれは俺の姉のようなものでな。小言が多くてかなわない」
「お姉様? あなたのほうが年上に見えたけれど」
「ああ、そうだな。だがああも口うるさくては。立場の上下も明らかだろう?」
くすりと笑って「そうね」とうなずいた。仲がいいのだ、とは、思うけれども口には出さない。言わずとも知れたことだろう。代わりに彩香は少しだけ顔をしかめてみせた。
「……ところでラウ。妻ってどういうことかしら」
ラウは意外そうな顔をして、「聞いたのか」と問う。彩香がうなずくと、彼はひとつ息をついた。そうしてあぐらをかいたまま、後ろの床に両手をつく。
「そのままの意味だ。俺はあなたを妻に迎えたいと思う」
当然の成り行きだと言わんばかりの調子で言うのだ。彩香は思考を放棄しようとする頭を必死で引き止める。
「結婚、というのは、そんなにあっさりと決めるものではないと思うのだけど」
「それも道理だ。だが、あなたを天虎に受け入れるにはこの方法が一番だと思ってな」
ひそめられた声にはっとする。
与えられた屋根、布団、介抱。当然のものとして受け入れていたそれらは、天虎の長であったラウの妻となる娘に対するものなのだ。身内の幸福を喜ぶユフェンの笑顔を思い出し、彩香は湧いた罪悪感に胸が蝕まれるのを感じた。表情を曇らせた彼女の頭を、ラウはくしゃりと撫でる。
「というのは、建前だ」
「え?」
「彩香、俺があなたを妻にと願う理由は、まず愛しているからというほかにない。信じられなければ形にしても構わないが、そうしたらあなたは怯えるだろうから」
これで許してくれと頭から手がのけられる。彩香が疑問符を浮かべた瞬間、同じ場所に熱が降った。それが唇だったと認識したのは離れゆく彼の瞳に笑みを見たときだ。
一度真っ白になった頭が、爆発する。
「なっ、なな、あなたっ」
「嘘ではないと分かってもらえればそれでいい。今は」
言い残して腰を上げる。戸口のほうから彼の名を呼ぶ男の声がしていたのだ。呆然とする彩香にラウは金の目を一度細める。それから呼び声に答えて部屋を出ていった。
彼と代わるように入ってきたユフェンは、両腕に大切そうに衣を抱えていた。硬直している彩香を見て首をかしげる。
「いかがなさいました?」
会話は外にまでは届かなかったらしい。彩香は慌てて、なんでもないわと大きく首を振る。火照った頬に指先を添えると、確かに熱を持っていた。
挙動不審な彼女を見て怪訝そうにしたユフェンだが、気を取り直して手早く両手の荷物を下ろす。床に置かれた数々の衣は、ユフェンのものとは打って変わって淡くほのかな色彩のものが選ばれていた。華の好む彩りを慮ってきつい色合いのものを避けたのだろう。その心遣いが嬉しくて、彩香は頬を緩ませる。
「山を歩かれるのであれば、下は裾の分かれたもののほうがよろしいですね。里にいるだけならそうでなくても事足りるでしょう」
ユフェンはひとつひとつ衣装を取り上げ、彩香の前に開いてみせる。股を開いても着崩れする心配のないつくりは、彼女たちの日常に見合ったものなのだろう。家で粛々と男を待つばかりが天虎の女の役割ではないということを思い知らされる。
しげしげと眺めている彩香と衣を見比べて、ユフェンはいくつかの衣装を取り去った。そうして前に押し出されたのは、彩香の纏う着物に色合いの似たものだ。
「お若いですけれど、落ち着いていらっしゃいますから。色はきっと紅や薄紫がお似合いですね」
「若いだなんて……あなたも同じぐらいでしょう?」
「数えで二十二になります」
「私は二十よ。ほら、ほとんど変わらないわ。名前で呼んでちょうだい。私もあなたをユフェンと呼びたいのだけど、いいかしら」
呆気にとられた様子で動きを止めたユフェンを見て、慣れ慣れしかっただろうかと彩香は身を縮ませる。しかしすぐに彼女は相好を崩した。
「ええ、彩香。よろしくお願いしますね」
彩香は目を輝かせ、大きくうなずく。
その後和気あいあいと選び出されたのは、銀糸で刺繍が施された桃色の上衣と、薄黄色と白の二色に分かれた膝丈のスカートだった。それに加えて上下の下着を借りる。早速着替えを済ませると随分と体が軽くなった心地がして、彩香は思わず声を漏らした。長襦袢に着物、帯に羽織。何枚もの布を重ねていたそれまでの衣服は、体だけではなく自分の身分すらも縛り付けていたのだと実感する。
くるりくるりと身を翻し、しまいには軽く跳びはねた。外で着替えを待っていたユフェンが戸を開けたので、気恥ずかしくなって両指を組む。くすくすと笑ったあとに「お似合いですよ」とユフェンは言い、次に彩香を台所へ誘った。
足元のかまど、藁の上に無造作に置かれた根菜が圧迫する床を、彼女は慣れた様子でまたいでいく。壁に吊り下げられた片手なべに目を奪われていた彩香に、小型の包丁を一本差し出した。
「昼餉の用意をします。手をお借りしたいのですが、よろしいでしょうか?」
「でも私、包丁を握ったことは」
「もちろんご教授致します。そうするよう言いつかっていますから」
誰にと問うまでもない。彩香のことを気にかける人間は、ラウ以外にいないのだ。言外に花嫁修業という意味を与えられている気がして苦笑が漏れた。
そうして完成した食事は、その後ああだこうだと議論を交わす対象になる。
それはもっぱら、ひたすらに縮こまる彩香に助言を与えるユフェンと、食べられさえすればそれでいいとするラウの図であった。問題はそこにはないのだという反駁を二人から受けると、彼は残りの食事をかき込んで逃げ出すように外へ出ていった。
片付けを済ませると、今度は縫物と畑仕事を教えられる。手先を使うのも体力を使うのも彩香にとっては初めての体験だった。男は狩りと周辺の民との交流を行い、家の周りのことは女性が済ませるのだという旨のことをユフェンは言って、最後に苦笑する。
「今は男も、里の復興に追われていますけれど」
彩香が心苦しさを覚えながら眺めやれば、立ち並ぶ木造の家々は黒々と焼けた痕跡を晒している。跡が残ればまだ良いほうで、酷いものは炭となった木の柱を残して倒壊するほどの損害を受けていた。
父の命令で行われたものだということは容易に想像できた。ごめんなさいと小さな声で謝った彩香に、ユフェンはいくらか驚いた顔をした。しばらく考えるように沈黙したあとに、両手に握った鍬の柄を離す。
「幸い、怪我人は出ていません。連れ去られたラウも彩香が帰して下さいました。それで十分ですよ」
天虎はおおらかですから。そう朗らかに許しを与えた彼女の言葉が、そっと胸の奥の重圧を取り除いていった。
穏やかな場所だ。風吹く野は生命の鼓動をたたえ、そびえ立つ霊峰は静寂と荒涼に研ぎ澄まされているけれど、その狭間に置かれたここには、春を待つ人々の安らぎがある。天虎の者たちは誰もが家族のような繋がりの中に生き、風のようにしたたかに、けれど温かく暮らしているのだ。
交わりたい。彩香は心のうちにそう思う。身を包んだ衣だけではなく、いつかはその内すらも、同じ風の中に溶かすことができたらいいと。