ばば様のところへ行こうとラウが切り出したのはその日の夕食時だった。
 彩香は手を付けていた汁物の椀を一度床に下ろす。ばば様、とくり返して説明を求めると、彼はひとつうなずいた。
「虎風山の巫女だ。山の精霊に仕え、祭事を執り行うのを役目としている」
「指名によって受け継がれる役目で、今代の巫女は私の祖母が担っています。天虎の中では最も年を召しているので、皆、ばば様と」
 ユフェンが杓子を置いて付け加える。
 おそらくは住職や神官のようなものだろう。推測して、相槌を打った。
 八華連邦では信教の自由が保障されているため、梅の紋にもあちらこちらに異なる宗教の寺院が建てられていた。一つの宗教に傾倒することのない知治は彼らの祭りに気まぐれに参加していたが、それらは華の者たちとの交流を図ることだけを目的とするものであった。その証拠に、朝妻の屋敷には神棚や札といった道具は置かれていない。
「……それにしても、お会いするなら明日の昼どきでもよろしいでしょうに」
「ことの次第を報告したら、早く彩香を連れて来いとうるさくてな。放っておけばここまで乗りこんできそうな勢いだったから、仕方なく、今夜連れて行くと言ったんだ」
 ラウがため息をつくと、ユフェンも呆れた様子で眉を下げた。
「あの方もお元気でいらっしゃいますから……申し訳ありません、彩香。行って差し上げてください」
「ええ、もちろん伺わせていただくわ。どんな方なの?」
「お元気な方ですよ」
「……ユフェン、さっきも同じ言葉を聞いたのだけど」
 どうやら癖のある人物であるらしい。にっこりと笑う表情を崩さないユフェンの態度に、彩香はそこはかとなく不安を覚える。
 しかしラウが一足先に食事を終えて立ちあがったため、いつまでもそうして憂慮しているわけにはいかなかった。手早く椀の料理を口に運ぶと「ごちそうさまでした」と手を合わせる。玄関へ向かう彼をそそくさと追った。
 青白い月が煌々と夜道を照らしている。弧を描いた細身のその月は、華に浮かぶ満月と同じほどの明るさを宿していた。何故かと考えて、街灯の一本も立っていないためだと結論付けた。窓や戸のすき間から漏れる家々の明かりも闇を照らすには頼りなく、中空の月光を妨げるものにはなり得ないのだ。
 華の中から見る月よりも大きく間近に見えるのは、山の際に居るためだろう。呆けた顔で空を眺め続ける。
「転ぶぞ」
 口の中に笑いを滲ませながらラウが言うので、彩香は彼の顔へと目を下ろした。
 金の双眸が宵闇に映える。瞬く星々よりもさやかに、月光よりもやわらかく、しかし太陽の行き過ぎた眩しさを持ち合わせるでもない瞳がそこにあった。言葉を飲みこんで長らく見入ってしまってから、その視線を受ける相手が人であることに思い至ってはっとする。気恥ずかしくなって顔を背けた。
 幸か不幸か、その素振りは不審には思われなかったらしかった。ラウは小石を踏みながら歩を進めていく。やがて里の奥に位置する家屋の前に立ち止まると、彼は「ここだ」と戸に手を置いた。
 他の家より幾分かと幅の広い家の戸口の前には、多色の糸で織られた旗が立てられている。ユフェンの家に吊り下げられていたものと同じ幾何学模様の織物だ。雨風に風化した様子からは、それが数年にわたって巫女の家の前ではためき続けてきたことが見て取れる。
 ラウが屋内に一声呼びかけると、「入っておいで」としゃがれた声が答えた。開かれた引き戸の向こう側から、酸味を含んだ甘い香りが漂った。早春の花の香が焚かれているのだ。
「つっ立っておらんでお上がり。茶も酒も出さんがのう」
 土間から一段高い廊下には、老婆が立っていた。
 枯れ草色の衣を黒の帯で留めただけの質素な出で立ちをしている。彼女の立ち姿の一本通った美しさに彩香は目を瞠った。顔つき、声は老婆に似つかわしいものであるにもかかわらず、その佇まいはむしろ若者のそれであった。
 思わず躊躇した彩香を尻目に、ラウは下足を土間に脱ぎ捨て、慣れた様子で廊下に上がり込む。
「構わない、別段喉が渇いている訳でもないしな」
「お前には言っとらんわ。……おや、娘さん、どうしたね。はようお上がり。それとも靴の脱ぎ方から教える必要があるかね」
「い、いいえ、お邪魔致します」
 慌てて底の厚い布靴を脱ぐ。老婆の先導に従って廊下を進むと、突き当たりに絨毯の敷かれた大部屋が広がっていた。その奥に彼女は胡坐をかいて座る。ラウが向かいに座ったのに倣って、彩香も正座で腰を下ろした。
 老婆は足元から膝かけを引き寄せ、彩香を眺めて満足そうに目を細める。
「私はミンヌだ。天虎で巫女なんぞというものを務めておる。山の精霊に捧げものをしたり、祭礼の証人をしたり、若いもんに口出しをしたり、とな。毎日そんなことをやっとる。皆ばば様と呼ぶで、この名を名乗るのも久しいわ。……さて、お前さんは、彩香、と言ったかね」
「はい、朝妻彩香です」いくらか間を置いて、「もう名字は、あって無いようなものですけれど」と付け足した。
 ふうむ、と老婆が声を漏らす。
「ラウを華から助け出したと聞いたが、それは本当かね」
「……本当です。でも」
「でも?」
「もともと、彼を華に連れ去ったのは父でした。この里を焼いて、長の証だという髪までも切り落として。獣と同じように扱い、そして獣と同じように殺そうとしました。本来間違ったことをしていたのはこちらのほうです。恨み言を吐かれるならまだしも、感謝の言葉を向けられるような身分ではありません」
「だから、それはあなたのせいではないと――」
 腰を浮かせたラウに、老婆の放った膝かけが直撃した。顔面に布切れを浴びた彼は憤懣も露わに口をつぐむ。
「話をしておるのは私と彩香だ。お前は黙っておるがよいわ」
 一喝され、ふてくされた様子は子供のようだった。彼は膝かけを手元で遊ばせていたが、やがてそれを床の上に畳む。絨毯の目を睨みつけるようにしながら立ちあがった。
「……俺は外に出ている。どうやら口を出さずにはいられそうにない」
「そうせい」
 ひらひらと手を振られ、彼は部屋から姿を消した。廊下を踏む足音が遠くなった頃に老婆は彩香へと向き直る。ラウの去った方向を目で追っていた彼女へと、朗らかに笑ってみせた。
「あれは引き際だけは弁えておるでな。そう心配せんでも、しょぼくれてはおらんよ。私と二人きりで不安だというなら呼び戻すがね」
 茶化すように老婆が言うので、彩香は大きく首を振った。
 彼に気を使われている自覚はあった。それが彼の本心からくるものであったとしても、父が行った所業の責任の一端も背負わされないのではいたたまれない。華の一員であった者、朝妻の娘であった者だという意識は、今でも彼女の中に染みついている。
 その自負を読み取ったか、老婆は平易な慰めを口にしなかった。一言「そうさなあ」と呟く。
「彩香、お前さんには役割が要るんだろう。そうして生きてきたものだから、それ無しではいられないように見える」
「役割……」
「これまでは華の人間であることがお前さんを支えていた。生きるにはそれだけで十分だったんだろう。だが今はそれも通じない。お前さんは、どうやらそのことを苦痛に感じているようだ。役割など無くとも暮らしていける、などと言うのは簡単だが、言われた方からすればたまったものではないことも私はようく理解しておるでな」
 難儀だのうと老婆は言うが、さほど苦悩する様子はない。長く続いた沈黙に彩香が足を組み替えた頃、老婆は閉じていた目蓋をゆるやかに持ち上げる。
「なあに、心配することはない。お前さんの不安もなにも、あの坊主が拭ってくれるだろうよ」
「……ラウの、ことでしょうか。でも」
「嫁にすると言ったのだろう? 聞いておるさ。いかにもあれの考えそうなことだ」
 彩香を天虎に迎え入れるためだとラウは言った。それが真に建前であったのか、数日前に顔を合わせたばかりの彩香には判断がつかない。しかし彼の振る舞いや言動は優しすぎるがために、受け取る側には余計な不安が募る。頭に触れた唇に動揺したのも、その触れ合いを親愛の証には用いない環境に育っただけのことかもしれないとさえ考えてしまうのだ。
 一方で、老婆に対して今朝の経緯を洗いざらい話すのも躊躇われる。もごもごと口を動かした彩香を見やって、彼女は笑った。
「私はあれがちんちくりんのころから世話をしてきた。だから誓って言うが、あれはわかりやすい子供だよ。嘘もつかん。嫁にと望むのであれば、ほんにお前さんを嫁にしようと思ったんだろう。ならば私たちはラウを言祝ぎ、お前さんを家族として里に迎える。ほれ、どこにもおかしいことはなかろう?」
「……ミンヌさん」
「婆とお呼び。天虎はお前さんを歓迎するよ」
 彩香は目をぱちくりとさせる。それから破顔した。老いた彼女の声は低く、穏やかに彩香の体を包んでゆく。――胸の奥に降り積もるその温もりの名を知っていた。
「ありがとう、お婆ちゃん」
 それは安心。
 あらゆるものが揃えられる朝妻に産まれてなお、彩香の周囲には存在しなかったものだった。