揺れる、揺れる。
 不思議な心地よさに包まれながら、彩香は過去の夢を見ていた。
 屋敷の庭に、まだ李の木が植えられていなかった頃。体を悪くした母親はいつも寝台の中にいて、幼い少女は不用意に彼女に近づくことを禁じられていた。
 彩香にその頃の記憶はない。しかしどんなに幼くとも、屋敷の外へ出ることが許されていないのは変わりなかった。母親は彩香一人を産み落とすのが精一杯であったから、後継ぎとなる彼女はいっそ過保護なほどに外界と断絶されて暮らしていたのだ。だから彼女の春の遊び場はいつも屋敷の庭。色とりどりの花々に囲まれ、ときには庭師の老人と一緒に花の苗を植えるのが好きだった。
 少女はいつも、お守りのように薬入れを抱えていた。彼女の両親から与えられたもので、なにやら大切なものであるらしいということだけを、幼いながらに知っていた。それが梅の紋を継承するために必要なものであることを知ったのは、母親が死んでからしばらく経ってからだ。
 夢の中で、走馬灯のように少女は成長する。
 母親を喪った頃にはもう、薬入れは彩香の手元にはなかった。
 娘が薬入れを失くしたと知った母親から、よく似た贋作を渡されたことだけは憶えていた。部屋の抽斗に隠されているのは、だから形ばかりを似せただけの別物だ。本物がどこにあるのか、今の彩香に思い出すことはできないでいる。
 おぼろげに映るのは、自分の姿。花に包まれ、何を案じることもなかった、幸福な頃の夢。
「大丈夫、大丈夫よ」
 幼い自分が笑っている。あれはきっと母親の死のすぐ前だ、と彩香は考えていた。母に借りた李花のかんざしを髪に刺して、自分で上手くまとめきれていない髪はあちこちに跳ねてしまっている。着物の裾が汚れてしまうのも構わずに、地面にしゃがみこんでくり返す。
「大丈夫、あなたはきっと、大丈夫だから」
 いとおしむような声がした。
 ――李の花が、まだ蕾をつけていない頃の話。



 着物はじっとりと濡れていた。水は長襦袢にまでしみ込んでいるらしく、体が揺らされるたびに袂から滴がしたたり落ちる。冷えを感じないのは、胸元に不思議な温もりがあるためだった。
 ゆっくりと目を開くと、視界は揺れていた。音もなく吹きつけた風が、濡れた髪の間から首筋をなでていく。眠っていたはずなのに彩香の体は揺れていて、一度、状況を把握しようとする思考が遅れた。まばたきを繰り返すうちに、自分が背負われているらしいということに気が付く。
 下駄はない。帯は緩くほどけ、着物の裾はくつろげられている。足を抱えられているのはそのせいかと、恥じらいを感じることもできないまま考えた。
 もぞもぞと身を動かす。それに彩香の覚醒を感じ取ってか、揺れがゆるやかなものになった。
「目が覚めたか」
 問いかける声があった。彼の肩の前に無造作にぶら下がっていた腕を、抱きしめるように回すことでそれに答える。ほっと息をついてから、ラウはうなずいた。
「まだ着かない。そのまま寝ていていいぞ」
「……どこへ行くの」
「天虎の里だ」
 彩香は視線だけを動かして周囲を窺う。どちらを見ても、広がる平原ばかりが視界を覆っている。宵闇は彩香の視界をほとんど奪ってしまっているが、金の瞳が見据える行き先に迷いはないようだった。ラウの足取りは人ひとりを背負っているにもかかわらず軽い。広い背中に安心を覚えて、彩香はぼんやりとした意識のままで彼に身を任せていた。
「夢を見ていたの」
 気付けば、ぽつりとそう言っている。うん、と返ってくる声は柔らかかった。
「その中で、私は五歳ぐらいの姿で……誰かに向かって、ずっと、大丈夫って言っているの。心配ないわって。不思議ね、その頃のことなんて、もう全然記憶にないのに」
「……うん」
「もしかしたら、相手は私だったのかもしれない。私が私に、大丈夫だって言っていたのかもしれない。……そう言ってほしかったのかもしれない」
 押しつぶされそうな孤独と、不安。梅の紋の名のもとに壁に囲われることは、幼い少女に疎外感を与えるばかりだった。隔絶された世界から母という陽だまりを失えば、春を運ぶ風も自分を避けて吹き抜けていくかのように感じた。
「私はお父様の娘でありたかったのよ。価値のある子供でいたかった。ほとんど家から出られなくても、友達がいなくてもよかったの。お父様がいつか認めて下さるって思っていたから」
 いくつもの手習いをくり返し、平穏な日々をくり返し、いつからか少女は女性になった。
 外に出られない理由を理解すれば、痛む胸も鈍くなった。受け入れたその日から、彩香は梅の紋の娘になった。それらをふいにしたのは自分だ。
「……駄目ね。もう、駄目にしてしまった。自分から逃げ出しておいて、まだ愛していて欲しいだなんて、酷く傲慢で、身勝手だわ」
 まるで懺悔のようだと思いながら、紡がれる言葉は止まらなかった。思いつくままに吐き出した言葉は、温かな背中に消えていく。
「ねえ、ラウ」肩に回した腕に力を込める。「要らないんですって。……お父様はもう、私なんか、要らないんですって」
 返事はなかった。期待していたわけでもなかった。ただ聞いてほしいと願っていただけだ。
 草を踏みつける足音だけが、心地よく耳を叩いていく。太陽が昇っていれば芽生えたばかりの新緑を目にすることができたのだろうと彩香は思う。遮るもののない空を渡っていく鳥の群れと、草原を波打たせる風は、本の中にしか見たことのないものだった。
 彩香はラウの肩に頭を預ける。その温もりに胸の奥のしこりが融けていくのを感じていた。
「大丈夫だ。……あなたを想う人間は、確かにいる。もう不安がることはない」
 その声が眠気を引き寄せたかのように、彩香の目蓋がとろんと重くなる。彼女がふたたび眠りに着いたころ、ラウは深く長いため息をついた。



 天虎の里に朝が来る。
 山際から朝日が漏れ、藍色の空が薄い青にけぶる。ようようと平原が輪郭をあらわにすると、木々に巣を置く鳥たちは一斉に羽ばたいた。交代で番をしていた青年たちが大きな欠伸をして、新たな番と見張りを変わろうとした頃。彼らの中でも最も目のいい者が、平原の彼方に小さな影をとらえて声を上げた。
 人だ。塊になった影は最初一人に思われたが、よくよく見れば誰かを背負っているのである。それを彼が仲間に伝えたときには、その影は確かに姿を取って青年たちの目に映っていた。
「ラウ、だ」
 呟いたのは誰であったか。仲間のうちにそれを否定する者はない。幻を見ているのかと目をこすった一人が、はっとして平原を駆けていった。彼を追い、見張りの青年たちは槍を投げ捨てて影のもとへと走っていく。ひとりは里の仲間に伝えようと慌てて踵を返した。
 天虎の脚は風のように平原を抜け、獣のように地を蹴る。彼らは瞬く間に平原の旅人のもとへと辿りついた。自らの背に眠る女性をおぶった青年は、金目の瞳に微かな疲れの色を見せていた。
 周囲に馬があるわけもない。となれば身一つで平原を越えてきたのだ。
 ラウ、と名を呼ぶが、青年たちにはそれ以上彼にかける言葉を見つけられなかった。ラウは天虎の里と仲間を目にして安堵するような表情をしたが、それでも依然として背中の女性に触れさせまいとする意志を身の内にたぎらせていたからだ。
 里に踏み入って、やっとラウは一度足を止めた。幾筋もの光が山際から放たれていくのを感慨深く見つめる。
「ラウ、その……彼女は?」
 ひとりが声をかけた。
 それに対して向けられた彼の目は獣のようで、尋ねた青年の肩を震わせる。平原を越える間、長らく開かれなかった唇は、乾燥のために幾筋もの裂け目を作っていた。
「妻にする」
「…………は?」
「彼女を妻に。俺の、生涯の伴侶に」
 それ以上の返答はなかった。再び歩き出したラウが向かったのは自らの家だ。彼の足取りは疲れこそすれ迷いはない。地を踏むそれが裸足であることに、青年たちは遅れて気付いたほどだった。
 残された若き天虎たちが互いに視線を交わし合う。里の中へと遠ざかっていく背を追うことはできず、彼らは呆然と立ち尽くしていた。――二日前に長の証を失った青年が、代わりに女性を連れて帰ってきた意味。本人の口から与えられたはずのそれを、彼らの頭が受け入れるまでにはまだ時間が必要であった。
 天虎の里に太陽が昇る。
 呆けた彼らを馬鹿にするように、朝一番の鶏の声が響いた。