その晩、屋敷の使用人たちが不穏な表情をしているのに気付いて、彩香は足を止めた。週に三日の手習いを終えて書院から戻って来たときのことだ。彩香の姿を視界に入れた途端、彼らはそそくさと小走りで立ち去ってしまう。
 嫌な予感がした。彩香は通りがかった小間使いの少女を呼び止めて探りを入れる。視線を左右させた彼女は始めこそ戸惑いの声を上げたが、やがてやむなしと口を開いた。
「お、お庭の李の枝が折れていたそうなんです。花も散らされていて、誰かが荒らしたんじゃないかって、庭師のお爺さんが仰っていて」
 思わず眉を寄せる。両の指をこね合わせる少女が、上目遣いのままで続けた。
「そうしたら、あの、お嬢様と、誰か男の方が庭に入るのを見た人がいたらしくて。旦那様の耳に入ったら大変だって、みんな言っているんです」
「お父様の……」
「ごっ、ごめんなさいごめんなさい! 私はお嬢様を疑ってなんかいません、今の話だってみんなが言っていただけで……!」
 怯える少女の肩に手を置いて、「大丈夫よ、ありがとう」と声をかけた。彼女は依然として体を震わせていたが、大きく頭を下げて一目散に走り去っていく。
 あの様子では事の次第が知治の耳に伝わるのも時間の問題だろう。彼の乗った馬車が屋敷に戻れば、頑固で有名な庭師の老人は、真っ先に主人へ報告に走るはずだ。疲れを滲ませた父親の顔が瞬く間に曇るのを思い浮かべて、彩香は浅く唇を噛む。
 庭に入ったのが彩香だけならばまだよかった。けれどその相伴が見知らぬ男の姿をしていた以上、最初に疑われるのは檻の中のラウだ。集められた珍品のうち最も主人の寵愛を受ける李の木。それが踏み荒らされたと知れれば、不徳者が断罪されるのは想像に難くない。
 ――旦那様は、拾い物には寛容な方です。それが、ご自分に、牙を剥かない限りは。
 桐の言葉を思い出して、心に浮かんだのは焦燥だった。部屋に戻ろうとしていた彩香は踵を返す。
 父の部屋へと忍びこむと、午前中に返されたばかりの檻の鍵を再び拝借する。震えそうになる手で枷の鍵を握り込んだところで車輪の音が耳に入った。屋敷の主人が帰宅したのだ。
 彩香は自室に戻るや否や檻の鍵を開き、ラウの手枷を外してからその手を取った。
「逃げて、ラウ」
「……どうした?」
「朝に李の木に登ったとき、いいえ、きっと私が落ちそうになったときだわ、そのときに木の枝を折ったみたいなの。それが騒ぎになっているから、もうすぐお父様の耳にも届いてしまうわ。あなたが外に出ていたこともきっと知られてしまう」
 早口に説明して足枷を外す。見上げた金の瞳は困惑に揺れていた。しかし長々と言葉を交わしている状況でないことを悟ったのだろう、ラウは檻を出て立ちあがる。眉にしわを寄せて言った。
「俺を逃がして、あなたはどうなる」
「私はここの娘だから。結婚させるだけの価値がある以上は手荒なこともされないわ、でもあなたは違う」
 縋れるだけの価値があるならまだいい。しかし知治の気まぐれで連れて来られた彼にはそれがないのだ。
 以前不用意に主人に噛みついた大蛇は、一日と経たずに葬られた。ラウが人として見なされない以上、知治は彼にも同じことをするだろう。遠くに言い争うような声を聞きながら、彩香はラウの手を引いて自分の部屋の障子を開け放った。そこには屋敷の外に繋がる窓がある。
「屋敷の崖を下りて、川を伝っていけば華の外に出られると思う。あなたならきっと虎風山に帰れるわ」
 逃げて。
 言った途端に、背後に足音を聞いた。「お嬢様!」と叫んだのは桐だろう。彩香はふり返りもせずに、開いた窓からラウを押し出した。躊躇する気配のあとに、彼は裸足で庭を駆けていく。その足音が遠くなってから、窓を閉めて傍仕えの青年を仰いだ。
 傷つけられたような顔をしていた。彩香の胸をつまらせるものは、その表情以外になかった。
「お嬢様、なぜ」
「天虎も人だわ。彼は故郷に戻るべきよ」
 後ろ手に障子を閉じる。きつく握った手は小刻みに震えていた。
 何か言いたげに口を開閉させていた桐が、横から伸びた手に押しのけられる。了承を取ることもなく彩香の自室に踏み入ったのは、会合用の着物をまとったままの知治だ。彼の目が自分を苛むように思われて、彩香は唇を引き結ぶ。
「お前が逃がしたのか」
「……はい、お父様」
 言い逃れはすまいと決めていた。厳しい目に耐えて父を身返せば、彼は黙したあとに口を開く。
「自分のしたことはわかっているな」
「天虎の彼を、檻の外に出したこと。お父様の李の木の枝を折ったこと。そして、彼を、逃がしたこと」
 ゆっくりと答える。知治は順に顔を険しくし、しまいには深いため息をついた。重い沈黙が部屋に降りて、彩香は息苦しさをこらえようと両指を組む。
「お前に世話を任せたのは失敗だったな、よく分かった」
「お父様」
「ついて来なさい、彩香」
 そのまま父親の自室に連れて行かれ、叱責を受けるのだろうと考えていた。ゆえに彼が屋敷の玄関を出たとき、彩香は胸に湧いた動揺を隠せずにいた。屋敷の壁に沿って進んだ先には先日渡ったばかりの橋と崖がある。その淵から怒声が上がるのを聞いて、身の凍るような思いがした。
 槍を構えた衛兵が、半円状に崖の一点を取り囲んでいる。彼らが距離を置いて穂先を向けるのは、彩香の部屋から逃げ出したばかりの青年だ。短い髪を風に任せ、徒手空拳のままで立っている。金の瞳は月明かりの下で猫のように光っていた。そうして油断なく視線を走らせる様子が周囲を威圧するのか、誰ひとりとして距離を詰めようとする者はいなかった。
 彼らの周りには昏倒している衛兵が数人。顔面から鼻血を出している者、腹を抱えたまま気を失っている者がいる。槍を持った彼らを相手に、青年は素手で大立ち回りを演じたのだ。
「ほう、天虎の名は本物か」
 知治が一人ごちるのを聞いて、彩香はラウの身軽さを思い出す。彼には女性一人を抱えて李の木の上に飛び上がるほどの身のこなしが備わっているのだ。衛兵たちが容易に捕縛することもできないのはそのためだろう。
 崖の端に立ち往生していたラウは、知治と彩香の姿を目に止めて表情を険しくする。知治が兵の輪に歩み寄った。
「馬鹿な虎だ。一匹で逃げおおせればいいものを、こんなところで捕まるとはな」
 ラウは答えない。彼の背で目を見開いている彩香を一瞥し、それから知治をねめつけた。その視線の移動に気付いてか、知治は「なるほど」とせせら笑う。
「桐、短刀を」
 主人の短い命に桐は呆けた顔をしたが、すぐに腰の短刀を抜き払った。刀身が鋭い光を照り返す。持ち手である桐に緊張はなく、刃先も一度としてぶれはしない。それを満足そうに眺めていた知治は、彩香にあごをしゃくってみせた。
「それに渡せ」
「……え? だ、旦那様、なんと」
「彩香に渡せと言ったんだ」
 声に苛立ちが表れる。桐は戸惑いながらも、短刀の柄を彩香に向けた。
 震える手でそれを握った途端、彩香は腕が鉛のように重くなるのを感じた。心臓が鼓動を刻み、これ以上ないほどの不安と恐怖がこみ上げる。刀身に映り込んだ月は彩香の手元で揺れていた。
「お父、さま……」
「彩香、動物の躾は飼い主がするものだ。命を負う責任を持った以上はな」
 低い声が示すことはひとつ。
「お前が始末しなさい。そうすれば粗相も不問とする」
「……っ!」
 知治はまごついた彼女の背に手を置いて、衛兵の輪の中に押し出した。揃って二歩を後ずさった彼らの槍の穂先の中で、彩香はラウと対峙する。
 短刀を握った両手に力が入らない。腕はそれを受け取ったときのまま折り曲げられ、凍りついたように動かなかった。いっそのこと地に落としてしまえれば楽だとさえ思えたが、父親は彼女の失態を許さないだろう。こわばった彩香の顔をちらりと見やり、刃先を向けられたラウは静かに息をつく。
「一息に頼む。生殺しは勘弁してほしい」
「……ラウ」
「いい月だ。どうせなら最期に酒でも飲めればよかったが、そうもいかない。残念だな」
 肩をすくめて首を振る。そうして一歩を踏み出そうとするが、衛兵が一斉に槍を突きだした。掲げた足を元の位置に戻して、ラウはやれやれと呟いた。
 彼を見つめ、短刀を握ったまま、彩香は知治の言葉を反芻していた。そして自分を見たラウの瞳をまぶたの裏に思い描く。一人なら屋敷から脱出することもできた彼がそうしなかった理由など、もう胸の奥が締め付けられるほどに理解していた。
 ――あなたはどうなる、と彼は言った。
 彼は待っていたのだ。屋敷に閉ざされた、たったひとりの娘を。
「ラウ」
 刃を掲げた手に汗が滲む。
 うん? と言って細められた瞳は、空に浮かんだ弦月のように優しかった。
「……たすけて」
 ラウが目を瞠る。彩香、と口の中で呟いた声が、霧のように消えていった。
 聞かせることの許されない声だった。誰であろうと、何にであろうと、漏らしてはいけない声だった。彩香の歯が震え、力を失った手のひらはついに短刀を取り落とす。動けなくなった彩香の耳元には落胆のため息が届いた。
「もういい、要らん」
 その声が合図だった。槍を握り直した衛兵が、その穂先を彩香に向ける。
 磨かれた金属が閃く。彩香はふり向かなかった。
 要らない、という言葉は、一体誰に向けられたものであったのか。理解して吐息が漏れた。自らに牙を剥く者を、彼は娘とて許さない。それを知ったのが捨てられてからだったなどと、皮肉もいい所だと考えていた。
 助けを求める声を、父は認めない。けれどただ一人、聞き届けた彼は、金の瞳の虎の子は。
「来い、彩香!」
 一喝。恐れを捨て去った燕のように、手を伸ばす。
 頭より先に動いた体が、槍の穂をくぐってラウの手を取った。思わぬ力で引き寄せられる。その勢いは殺されぬままにふたりの体を宙へ投げ出した。落下の始まる瞬間、ラウは崖の縁を蹴りつける。垂直に落ちる彩香の体が抱き寄せられた。
「お嬢様――!」
 誰かの声を聞く。空に浮かんだ弦月の船が遠ざかり、凍りつくような風に打たれながら彩香は目を閉じた。暗闇に覆われた視界を皮切りに、急速に意識が失われる。
 飛沫を上げた水音も、彼女にはもう聞こえていなかった。