鍵穴に鍵を通し、ためらいなくひねる。いとも簡単に開いた錠を取り払うと、彩香は檻の扉を開いた。探るように外を見つめていたラウが身を縮めて檻を出る。
「手枷と足枷も出してちょうだい」
 素直に手が、それから足が彩香に向けられた。解錠に伴ってふたつの枷が床に落ちると、彼は反芻するように手首をさする。いくらか擦れてはいるものの、どちらも鬱血している様子はない。今に至るまで一度として反抗の意志を見せなかったためだろう。
「三時間です、よろしいですね。私はここで時間を見ていますので」
 桐が懐中時計を持ち出すので彩香は首をかしげた。
「あなたは来ないの?」
「それとは気が合わないようですから」
 毛嫌いとはこのことを言うのだ。着替えているあいだにもひと悶着あったのではないか、と彩香は気が気でない。それとも、彼に自分を任せるだけ気を許したと考えるべきなのだろうか。
 彩香の心配をよそに、桐は枷をふたつ抱え上げ、それから空になった檻の戸を閉める。ふり向きざまにラウを見据えた。
「……さっき言ったことを忘れるなよ。お嬢様に万一のことがあれば、分かっているな」
「かすり傷ひとつ負わせないさ。天虎の男は誓いを守るぞ?」
「どうだか」
 吐き捨てるように言って、桐はいくらか考えた末に鞘ごと腰の短刀を抜いた。紅の地に白梅が描かれた美しい鞘は、朝妻の屋敷に勤める者のみが所有する特注品であるという。それを彩香に差し出して、「お持ちください」と手渡した。
 見かけよりも重いそれを一応両手に握りこんだが、彼の意図が取れない。彩香は説明を求めて桐の顔を見た。
「いざというときにお使いください。大声を出していただければ必ず参ります」
「そんなこと起こらないわ」
 心配性なんだからと頬を膨らませると、桐は困ったように笑った。
「お嬢様に少しでも私の胃を心配してくださる優しさがお有りなら、どうかお持ちになってください」
 形だけでも、ということだ。仕方なしに短刀を帯の間に挟むと、彩香は桐との間にうなずきを交わす。「行きましょう」と言えばラウは親鳥を追うひよこのように後を追ってきた。
 廊下を進み、角を曲がってはまた歩く。掃除に洗濯にと廊下の隅を通う使用人たちが彩香に頭を垂れたが、すぐあとに続く青年にはぎょっとした顔を見せた。
 賓客として屋敷に招かれるにしては身なりが貧相だ。彼が身にまとっているのは天虎独特の民族衣装なのか、梅の紋の領地を歩く姿として適当であるとはお世辞にも言えないのである。もっと人通りの少ない道を選べば良かったと、彩香は今になって後悔する。午後は彼らの口止めに時間を取られそうだ。
 ラウにおどおどとした様子がないのが唯一の救いだった。彩香と共にいるのは当然とばかりに、人目を気にすることなく前を見ている。
 気取られぬようにその様子を窺えば、彼の歩く姿勢のやけにいいのが目についた。決して醜くはない外見も相まって、周囲に威圧的なものをも感じさせるのだ。唖然とする使用人の誰も彩香に声をかけないのはそのせいだろう。
「虎の威を借る狐っていうのかしら」
「なにか?」
「いいえ、なにも。……ああ、あれが屋敷の庭園よ」
 正確には、屋敷内に点在する庭園のうち最も大きなものである。知治の趣味で買い込んだ木々や花々を、屋敷の庭師が見栄え良く植えて世話をしているのだ。
 彩香は靴箱から下駄を持ち出し、縁側を伝って庭に下りる。少し迷ってから客人用の下駄をラウに差し出すと、彼は四苦八苦した後にそれを履き、慣れないのかぱたぱたと足踏みをくり返した。その様子が幼い子供のようで笑ってしまう。
 冬開けを迎えて間もないためか、庭の植物にも花を咲かせているものは少ない。寒椿はその首を落とし始め、その一方で梅は蕾を付け始めたばかりだ。雪解けのころに一斉に花を咲かせていた福寿草もそろそろ盛りを終えてしまうことだろう。
 雪の名残のない小道を歩きながら、彩香は冬枯れの様子を残す庭を眺めやる。下駄の足を地に擦っていたラウが首をかしげた。
「あなたは枯れ木を見るのが趣味なのか?」
「そんなことないわ、ちゃんと咲いている花があるの」
 庭の中央で立ち止まって、彩香が指差した先にそれはある。顔を上げたラウが瞠目した。
 天に向かってそびえるは、ひときわ大きな李の木だ。
 均整のとれた枝を周りへ伸ばし、空の青に黒々とひびを入れる。その枝を覆うように細かな白い花が開き、春風に甘い香りを漂わせていた。ときおり吹きすさぶ突風にも、枝はおろか花弁のひとひらさえ屈しはしない。
 その光景が異様なものであることを彩香は知っていた。
 李の花期にはまだ早すぎる。その上、咲き誇る満開の花々はいつになっても散ることがないのだ。彼女たちが初めて蕾から解き放たれたときのことを彩香は知らなかった。冬、秋、いくら記憶をさかのぼったところで、庭園の中央では時を止めたかのように李の花が待っている。
「この花は散らないの。いつまでも、ここにある」
 花は散らない。だから実はならない。朽ちることも継ぐことも知らず咲き続ける。享楽の生み出した木、永遠の華。それは、叶わなかった願いを慰めるためのものだ。
 父である知治がその李の木を持ち帰ったのが、十年と幾年前のこと。それが彼の蒐集癖の始まりだ。彩香の母が黄泉へと渡った、その数日後のことだった。
「昔はね、綺麗だと思っていたのよ。いつだってこの花だけは空に映えていたから。でも少しずつ怖くなってしまって。最近ではほとんど見に来ることもなかったのだけど」ラウに向かって微苦笑する。「あなたがいるなら、大丈夫かもしれないと思って」
 李花と彩香との行き来した金の瞳が、最後に彩香を映す。不安げに自分の片腕に触れた姿がそこに見て取れて、彩香はうつむいた。
「でも、やっぱり駄目みたい。……わかっているの、きっとここには狂おしいほどの想いがあるんだわ」
「想い?」
 繰り返したラウにうなずいてみせる。そうして風が巻き上げた髪を耳にたぐった。
「お父様から、お母様への。私が小さいころに、お母様は亡くなってしまったから」
 ラウがわずかに目を見開いて、そうか、と呟く。彼が下手に言い繕おうとしないことに、かえって心が慰められた。数歩ばかり木に歩み寄ったその背中を見つめる。
「ただの花だって思えたら随分楽なのだけどね。……ごめんなさい、つまらない話をしたわ。男の人は花なんかより馬を見るほうが好きかしら」
 知治が馬車で出ているとはいえ、まだ厩には馬が残っているだろう。案内すべくラウを呼び止めようとしたところで、腕を引かれた。そこには思ってもみない力がこめられていて、虚をつかれた彩香には咄嗟に振り払えなかった。
「ラウ?」
 木の根元まで彩香を引いていったラウが、その幹に手をかける。ちらと頭上の枝、そして足元を見比べてからぐるりとふり向いた。
「下から見るから恐ろしい」
 え、と訊き返すと、燦然と彼は微笑んだ。
「山も、獣も、皆そうだ。下からしか見ないから、自分が小さく弱いように感じてしまう。相手を知ろうとしても、目に見えない部分があまりにも多すぎるからだ」
 前触れもなくラウの身が近づいた。抱き寄せられるかと彩香は思わず身を固くしたが、腕が回されることはない。跪くようにして彼女の足元に身をかがめたのだ。意図が取れずに目をしばたかせていられたのもほんの少しの間だった。
「ラウ――!?」
 次の瞬間、足が宙に浮いた。腰から担ぎ上げられたのだと気付いたのはそのあとだ。彼が立ちあがったがために視界が揺れて、地面が遠くなる。
「大丈夫だ、落としはしない」
 彼はそっけなく言うけれど、足が付かないだけで不安は煽られる。体を支えている腕や肩が思いのほか力強くとも、だ。困りはてた末、申し訳程度に彼の服の背を握ると、ふと笑う気配があった。
 勢いをつけるためにラウは身をかがめる。次に浮遊感があった。耳元をかすめた風は花の香を乗せている。やがて身に襲いくるであろう落下を見越してきつく目をつぶったが、衝撃の代わりに降ってきたのは、幹を削るような軽い足音だけだった。
 そっと瞳を開ける。先より視点が高い。目の前に一輪の花があるのを見て彩香は息を詰めた。
「…………あ」
 ぐらりと体が揺らいで、彩香の腰が下ろされたのはラウの膝の上だった。木の枝に座ったラウに横抱きにされる形になり、それまで恐怖のあまりに感覚を失っていた体に、彼の胸や腕が触れているのをはっきりと意識する。途端に全身が沸騰したように熱くなった。
「ら、ラウ、あの、これはちょっと」
「ん? ああ、落ちないように支えているから問題はない。少しばかり狭いのは勘弁願いたいが」
 彩香の胸中を知ってか知らずか、ラウが支える腕に力をこめてみせる。平然としたその顔を見ると無性に悔しくなって、彩香は彼から視線を逸らした。恐れと恥じらいが通り過ぎると、やがて不思議な安心が胸を包んでいった。
 頭上でかさりと音がする。ラウが目の前に垂れ下がっていた枝を押し上げたのだ。触れられるほど近くに李の花を見たのは初めてで、彩香は戸惑いながらそれに手を伸ばす。つるりとした肌触りを指に伝えたきり、真白の花弁は彩香の手を逃れていった。
「遠くを見てごらん」
 ラウの手が一方を指した。つられて顔を向けると、その先には家々が軒を重ねる菅流の町が広がっている。路地を分かち縦横に流れていくのは、華の外へと続く大河の支流だ。それらはやがてひとつとなって、華と外とを隔てる壁を潜り抜けてゆくのだろう。
「怖いか」
「え?」
「あなたのいるこの屋敷の外にはあの町があり、町の外には八華の治める土地がある。壁の先には、あなたたちの誰も知らない世界が広がっているだろう。平原が、森が、そして山が。俺の住んでいた場所もまたそこにある」
 壁を超え、平原を越えた先に、虎風山は尾根を連ねている。そこに吹く風を彩香は知らなかった。広いのねと呟くと、そうだなと同意が帰る。いくらか間を置いて、彼はまた口を開いた。
「山のふもとにも李の花が咲く」
「虎風山に?」
「ああ」うなずいて、ラウが李花の花弁をなぞる。「山の李は、このように美しくは咲かない。枝の先にほんの少しの花をつけるだけだ。だが彼らは強いぞ。雨風に枝をへし折られても、花を散らされても、必ず実をつける」
「実を」
 生を継ぎ、死を継ぐ。師のそんな言葉が思い起こされた。
 永遠は人の手に作られるとも、自然は滅びを抱えている。だからこそ命を継いでは移り変わる。いずれまた花咲かす日を迎えるために。
「見せてやりたい。そうすればあなたの恐れるこの木も、きっとちっぽけなものに思えるだろう」
 沈黙を置いて、「そうね」と同意する。それから目を細めた。本当のことを言えば、恐れはとうに消えていたのだった。今となっては胸をうずかせるような好奇心ばかりが心を占めている。
 眼下の菅流の町すら彩香は一人で歩いたことがない。父の付き添いで梅の紋の要人と顔を合わせたのも、指で数えられるほどのことだ。足袋の下にはいた下駄は駆けてゆくには重く、身を守るように自ら着つけた着物では足を開くことなどもってのほかである。
 彩香の世界はいつも、屋敷の門の中に閉じていた。
「きっと、屋敷の外には――」
 言いきることはできなかった。顔を動かしたはずみで、腰元の帯が緩んだのだ。
 結び目が解けるまでには至らなかったが、挟まれていた桐の脇差は支えを失って落下する。掴み取ろうと反射で伸ばした彩香の手が空を切って、その反動で大きく体が傾いだ。
「――彩香!」
 危機迫る声を聞いたのはそれが初めてだった。
 揺らいだ体はすんでのところで抱え直され、そのまま流れるように落下する。地面に着地するや否やラウは膝を折って衝撃を殺し、ふうと息をついた。息を止めていた彩香は、呆れを滲ませたため息を耳に聞く。
「あなたは少しばかり不注意だと思う」
「ご……ごめんなさい。ありがとう」
 高所から落ちるのも、彼に助けられるのも二度目だった。久しぶりの大地を踏んで、彩香は深々と頭を下げる。いたたまれなさに青年の顔を見ることができなかった。しばらく顔を伏せていると、眼前に土ぼこりの払われた紅の短刀が指しだされる。礼を言っておずおずと受け取った。
「命を守る刀のために、命を張ってどうする?」
「以後、気をつけます……」
「そうしてくれ、寿命が縮むかと思った」
 傍仕え殿の気苦労も知れる、とぶつくさ呟く。それからラウは彩香の着物をちらと見て、腰に手をやった。
「その服も、帰るまでに整えておいた方がいい。誤解を生じさせたくなければ」
「そうね、そうするわ」
 襟は胸元近くまでくつろげられ、裾が垂れ下がったせいでおはしょりも乱れてしまっている。桐に見つかれば何かあったのかと形相を変えてラウに詰め寄ることだろう。今度こそ短刀がその役を果たしてしまうかもしれない。
 手早く着物を整えながら、けれど誤解を生むほどのことはされていた、と彩香は唇を引き結んだ。思い返せば頬に熱が戻りそうになるので、すぐに首を振って記憶を追いやる。どうしたと訝しげに問うラウに、何でもないわと答えた声は早口になった。
 誤魔化すように彩香が小道を歩けば、ラウは元通りに彼女の背を追う。
 折れた李の木の枝が一本落ちていたことに、二人のどちらも気付くことはなかった。