彩香が幕の裏側に身を隠すのを目で追ってから、ラウは思わせぶりに息をついた。傍仕えの青年の一瞥が自分に向けられ、また瞳が逸らされる。そのまま数秒待つと、やや声を抑えて言った。
「……正直に、自分が耐えられないから離れて欲しいと言えばいいものを」
 ひきつったように息を吸う音が聞こえ、続いてキリが大げさに咳き込んだ。
 見たところ彩香より年下であるこの青年には、彼女の押しには弱い所があるらしい、とラウは感じ取っていた。そのくせに頭が固く排他的だ。自分や仕える相手への侮蔑に過剰といえるほどの反応を示すのはその性格ゆえだろう。
 分かってしまえば対処は楽だ。伊達に癖者ぞろいの天虎を取りまとめてきたわけではない。
「あの歳の女人からは花の香りがするからな。たいそう堪えたことだろう」
「俺は傍仕えだ。お前などと一緒にするな」
「そうだな、俺なら抱きつかれれば素直にうれしい」
 キリが苛立たしげに床を踏む。すぐに食ってかからなくなっただけ成長したものだ、とラウは他人事のように思う。ここで言い争いになったところで止める主はいないのだから、賢明といえば賢明なことだ。怒らせるつもりのからかいに反応がないのは、少しばかりつまらないことではあるが。
 ぼんやりと手持無沙汰に檻の格子を眺めて、思い浮かんだことがあった。キリのほうに顔を向けないままで口を開く。
「彼女は見合いでもするのか?」
 単なる勘、というわけでもなかった。昨日、彩香の父親である朝妻知治が、誰かと会話をするようにひとりごとを言う声を聞いたのだ。
 薄い幕は檻の外の視界を奪ってはいたが、隠すつもりもないらしい彼の声は確かにラウの耳に届いていた。その最後に小気味のいい金属音を聞いたとき、彼が相手にしていたものが八華で使われるという機械のひとつであろう、ということにも思い至った。おそらくは遠方の何者かと言葉を交わしていたのだ。
「どこでそれを、……いや」問うても栓のないことだと気付いたのか、ややあってキリは首を振った。「正確には婚約だ。梅の紋の豪族のご子息とな。お前はそれを訊いてどうする? 何も関係のないことだろう」
「例え俺にはなくとも、お前にはあるんじゃないのか」
 そう、百歩譲って、自分になかったとしても。胸の内で呟いて、ラウは青年の反応を待つ。会話を立ち切るか、今度こそいきりたって檻を蹴り倒すか。どちらにせよ彼が抑えこんだ若さの一端が見えるのであれば単純に面白いだろうと考えてのことだった。
 ゆえに、ややあって静かなため息が彼から漏れたとき、少なからずラウは驚いていた。
「分かっていないな。俺が今仕えているのは確かにお嬢様だが、膝を折る相手はいつまでも旦那様だ」
 続く言葉はない。それで充分だと言いたいのだろう。ラウは納得し、目を眇める。思っていた以上に頑固な男だ。忠誠のためであれば、自らの心をいとも簡単に折ってみせる。
 ならば、と趣向を変えることにした。
「お前は本当に、それが彼女のためだと思うのか」
 恋を知らない子供だということは彼女を見ていれば分かった。無邪気に喜び、笑い、けれどそれらを慎みのうちに隠し込むことを覚えてしまった子供。伸びる方向を他者に定められることに慣れた、哀れな李枝のような娘だ。
「彼女が望まぬままに生き、朽ち、死んでゆくのを、傍でただ見ているつもりなのか。……決して幸せにはならない彼女を見つめ続けるというなら、お前は望まれぬ枝を刈るだけの庭師と変わりはしないな」
「……よく喋る犬だ」
「せめて猫と言って欲しいところだな」
 その方がまだ虎に近いだろうから。軽口を叩くと、キリは鼻を鳴らした。
「幸せであろうと、なかろうと、安全の約束された結婚だ。俺が傍仕えをしていられる間は多少の我儘も許す。それがお前にとって、幸せ、と呼べるようなものでないとしてもな」
 もとより話題にする必要のないことだと言わんばかりに、彼の声は無感情で早口だった。ラウがそれ以上の会話を諦めて檻に背を預けようとしたところで、唐突に頭上の格子を掴まれる。見上げれば、冷えきった眼差しをした青年が自分を睨み据えていた。
「ほんの少しでもお嬢様に危害を加えてみろ。地の果てまでも追いかけて、貴様を殺す」
 張り詰めた空気は、ただ中にいる者たちに弾けるような痛みの幻覚すらも感じさせる。
 ラウとキリのどちらも自分からは視線を外そうとしなかった。短くも長くもあるようなその時間を断ち切ったのは、着替えを終えた彩香の声だ。
「桐、ラウ、どうしたの?」
 寝巻を両手に抱えた彼女は、つい先ほどまでそれにくるまれていた寝起きの娘ではなかった。
 薄紫の地に葵の花が散らされた着物を身にまとい、暗い紅色の帯を締める。その上から桃色の羽織を重ねているためか、遠目に見ても目に明るく華やかな出で立ちだった。先日は下ろしていた長い黒髪も団子状に結われ、背中へとしだれかかるように毛先が流されている。彼女が大事そうに左手に携えているのは、その髪に刺すための玉のかんざしだろう。
 先日の暗色の着物は、誰か身上の者に会うための訪問着であったのだ。ラウはそう結論付けて、思わずほうと息を漏らす。若々しい色に包まれた彼女は、年相応の美しい娘に見えた。
 キリが彼の視線を咎めるように軽く檻を叩く。背筋を伸ばして首を横に振った。
「いいえ、何でもありません」
「言い争いはしていないでしょうね?」
 目元や口元には、目立たない程度に紅を引いている。彼女の顔が自分に向けられて初めて、ラウはそのことに気が付いた。
「ああ、もちろん。この傍仕え殿は辛抱強い人らしいから、からかってもさっぱりだ。つまらない」
「……できれば、からかわないようにして欲しいのだけどね」
 苦笑してから、彩香は桐に向かってうなずいた。着替えが済んだとの合図だ。寝巻きを預かり、桐が部屋を出ていく。
 ほどなくして運ばれてきた朝食の一部を彩香がラウに分け与えようとするたびに、桐は渋面をした。口を挟まなくなったのは先ほどの会話が尾を引いているためか、それとも外出を許した以上はと自棄になっているためか。自分に運ばれてきた薄味のパンを器用に口へと運びながら、ラウは青年の心中に頭をめぐらせていた。