出奔

 春の早朝は気だるい。
 目蓋を溶かすような日差しは頭を揺り起こすには弱々しく、慎ましやかな花の香りがやわく体を包むので、たとえ目を開いたとしても夢と現はいまだ曖昧なままに留まってしまう。
 細く目蓋を上げたまま、彩香は体を起こす。薄衣の上から布団が落ちた。虚ろな心地で障子を眺め、向こう側から届く光の移ろいに見とれる。夢の中にいる心地でゆるりと息を吸った。
 唇から紡ぎだされるのは言葉を伴わない歌声だ。
 呼吸が尽きれば思いだしたように吸い込んで、途切れた唄の続きを口ずさむ。詞の一句すら浮かび上がらせることもできないのに、物悲しげな、それでいて慰めを伴う音律だけが耳に残ったまま消えない唄。
 誰に伝えるともない唄が終わりを迎えると、名残惜しい気持ちで彩香は口をつぐんだ。そのころには彼女もしかと現実に降り立っている。衣の乱れを整えながら寝台から足を下ろしたところで、ゆるやかだった彩香の呼吸は完全に止まった。
 視線をやった向こう、部屋の隅に置かれた檻の中には二対の琥珀が瞬いている。――いつから、などと問うまでもなかった。
「いい声だ」
 称賛の言葉に気が遠くなりそうになる。
 寝ぼけて歌いふけっていた彩香の姿を何も言わずに見つめていたのだ。寝巻きが着崩れるようなことはなかったものの、痴態には違いない。耳の先まで熱くなるように感ぜられて、彩香はつい彼から顔をそらしてしまう。
「起きていたなら教えてくれれば……」
「おはよう、彩香。確かに歌い出したくなるほど心地のいい朝だ」
「かっ、からかわないでちょうだい!」
 つい大声が出た。朝からはしたないことだと口元に手のひらをやる。その上ラウからは何故叱られたのか理解すらしていない顔が返ってくるのだからのれんに腕押しというものだ。躍起になっている自分が馬鹿馬鹿しく思えて、唇をとがらせる。
 彼が眠っていないということはないだろう。彼の目の下に隈のある気配はなく、今も疲れなど知らないという顔で微笑んでいる。せわしなく腕と足を曲げ伸ばししているのは、体がなまることを避けるためなのだろう。彩香は檻のもとまで歩み寄ると、固く取り付けられた錠に触れた。がらんと手から滑り落ちたそれに顔をしかめる。
「せめて寝転がれるだけの大きさがあればいいのに。不便でしょう?」
「いや、慣れればそうでもないさ」
 あっさりと首を振られる。彩香は呆れて息をついた。
「慣れられても困ってしまうのだけど。そうね、お父様に相談して……」
 檻を取りかえることぐらいなら許しが出るだろうと思案していると、ラウがおもむろに扉の方へ顔を向けた。「どうしたの」と問いながら彩香もつられて顔を上げる。
「なに、少しばかり距離を置いた方がいいと思ってな」
 どういうこと、と尋ね返す間もなかった。唐突に彩香の部屋の扉が叩かれたのだ。失礼致しますと威勢よく言って飛び込んできたのは、早朝であっても使用人の服をきっちりと着こなしている桐の姿だった。彼は扉を開くや否や、檻の中の青年と傍らの彩香の姿を見止めて眉を寄せる。
「……お嬢様に何を吹き込んだ?」
 開口一番低い声でそう言って、ラウを睨みつける。ああまただと彩香は嘆きたい気持ちに駆られた。
 言うなれば犬猿の仲。もしくは、ラウが虎だというならば彼は龍だろう。ふつふつと沸き立つような怒りを桐の背後に感じて、彩香はげんなりと肩を落とす。
「桐、私になにか用があったのよね? だからそんなに急いで来たんでしょう」
「も、申し訳ありません」
 はっと顔を上げて、桐が姿勢を正す。剣術や弓術をそつなくこなすよう訓練を重ねているためか、その姿は一本の線が通っているかのように凛と美しかった。
「旦那様が八華連邦の会合に向かわれるとのことです。お嬢様にそれをお伝えするよう承って参りました」
「ああ、今日だったかしら」
 月に一度、八つの紋の主を集めて行われる連邦会議だ。経済や外交、その他近況報告を行うほか、断続的に会合を行うことによって謀反を防ぐ狙いもあるという。会議はその年の議長となった紋の領土において行われ、欠席は紋の存亡に関わるほどの理由がない限りは認められない決まりとなっていた。
 会議の議長は年に一度、連邦の結成時に決められた順にそれぞれの紋の当主に回される。来期の議長に就任するのは桃の紋の楊家であったはずだ、というところまで思い出して、ふと彩香は桐に顔を向けた。
「それじゃあ、すぐにはお帰りにならないのね?」
「え……ええ、もうお発ちになりましたし、お帰りは晩になるとのことです」
 彩香の顔が華やいだ。
 その笑顔から嫌なものを感じ取ったのか、対する桐は不安そうに顔をしかめる。身を引きかけた彼の両手を取って、彩香はいくらか腰を低くした。
「ねえ桐、お願いがあるのだけど」
「……叶え得る限りで、承ります、が」
 逆説は逃げを打つための布石だ。彩香は聞かなかったふりをしてにっこりと笑う。
「少しだけよ。彼を檻の外に出してあげたいの」
「いけません」
 薄々察してはいたのだろう、却下されるのは早かった。無論それで退く彩香ではない。彼の両手を握ったまま、お願い、と頭を下げた。桐が苦々しく顔を歪めるのを視界にとらえながらも、目だけは逸らさないように訴えかける。
「今日だけ、ううん、午前中。ほんの数時間だけでもいいの。屋敷の門からは出ないようにするし、使用人の皆さんの邪魔はしないわ。鍵は必ず元に戻す、帰ったら彼にもまた檻の中に入ってもらう。駄目?」
「ええ駄目です」
「お父様はいないのよ。あなたさえ黙っていてくれれば誰も気付かないから」
「お嬢様、何度も申し上げた通りそれは華の外の者です。今は大人しくしていますが、檻から出したが最後、何をするか分かったものでは……」
「でも、昨日も今日も先に喧嘩を売ったのは桐の方だわ」
「うっ」
 桐が言葉に詰まった。
 人一倍実直であるだけに、彼は犯した失敗を数ヶ月単位で抱えたままひとり反省しているのだ。それらは仕事上では表に出されないが、くすぶったまま残っている。彼には悪いと思いながらも、我儘を通すのにこれほど効果的な弱点もないのだった。
「彼一人なら何にも迷惑はかけないわ、昨日だって檻から出ようともしなかったじゃない。ね、桐」
「……ですが、お嬢様」
「お願い!」
 桐の両手を強く握って、彩香は頭を下げた。
 反対されるならば何度でも食い下がろうと考えていた。しかし頭上から深いため息が降ってくると、彩香はちらりとのぞいた期待に顔を上げる。苦渋の表情を顔面に露わにした桐が、彩香から顔を背けるようにして口を開くところだった。
「……わかりました。旦那様には黙っています」
「桐」
「午前中の三時間だけです。それだけでいいと仰ったのはお嬢様のほうですからね。一分一秒も過ぎるようであれば、旦那様が戻り次第ご報告申し上げて――」
「っ、ありがとう桐!」
 最後まで言いきることは叶わなかった。顔を輝かせた彩香が、勢いよく桐の背中に腕をまわしたからだ。最後に残った恥じらいがなければ、地を蹴って跳びはねてすらいたところだろう。
 空中をはらりと舞った長い黒髪がしどけなく桐の肩にかかると、彼は息を詰まらせた。吐息ひとつ彩香に触れさせぬようにとぎこちなく顔をそらし、言う。
「部屋の外に出られるなら、お着替えをなさってください。お食事をお持ちいたします。……あと、薄着でそのような振舞いをなさるのもお止めください。旦那様が嘆かれます」
 その段になって、自分が薄衣一枚で青年に抱きついていたことに思い至る。彩香は静々と身を離し、ごめんなさいと笑った。
 桐が部屋を横切る紗幕を敷くと、早足でその向こう側に歩いていく。足先まで断絶された空間で寝巻きの腰紐を解きながら、箪笥から選ぶ着物の色は、普段よりいくらか明るめのものにしようと考えていた。