友、いかなるものか 3
 ふらりと数歩を下がったとき、肘が扉のひとつにぶつかる。それが娘の目指していた一室であったことに思い至ったのは、向こう側から「堺さんかしら」「お越しになったのね」と言い交わす声を聞いたからだった。
 遠慮がちに開かれた扉から、詩織が顔を覗かせる。彼女は真っ先に私を目でとらえ、わずかに身をこわばらせた。
「千春……それに、堺さんも」
「お招きくださってありがとう、蘇芳さん。みなさんはもう中に?」
 一度は燃え上がった激情をひた隠しにして、娘が笑う。ええ、と一歩を下がった詩織に向けて、けれど彼女は否やを示した。彼女の横顔には靄めいた影がかかっていて、私は魅入られるようにしてそれを見つめていた。
「私はここで結構。近江さんにお口添えいただいたから足を運びこそしたけれど、ごめんなさいね、もとからあまりご一緒するつもりはなかったの。だってあんまりにも……都合がよろしいじゃない、ねえ?」
「堺さん」
 部屋の中から小さく諫める声がかかる。娘は皮肉げに唇の端を持ち上げると、真っ向から詩織に視線を投げた。
「蘇芳さんもお優しいのね。この期に及んでご友人を」そこで堪えられなかったかのように一笑し、「お邸に迎え入れるだなんて。例の一件について、後悔はなさらなかったのかしら」
 詩織の指先が袴の裾に食い込むのを、私はじっと見つめていた。「なにを仰っているの」ととぼけてみせ、強いて平静を装った表情も、娘の前には窮鼠のそれと同じにしか映らない。
 憂さ晴らしだ、と確信した。娘がふうんと打った相槌の、その舌なめずりをするかのような響きを聞いたためだ。彼女の背に顔があったなら、両目は共に私を凝視していたに違いなかった。私とその飼い主とを共に苛むのに、もっとも効率の良いやり方を見つけたとでもいうふうに。
「もうお忘れでいらっしゃるのね、私はまだよく憶えているのに。みなさんだってそうでしょう」
 部屋の中の娘たちが、一斉に顔を背けていく。まるで蜘蛛の子だった。黒目がちな詩織の目がすうと細められ、こっくりとした深みを帯びた。
「もう結構です、堺さん」
「残念だけれど、蘇芳さんがよろしくても、私のほうはそうはいかないのよ。ここの飼い犬に、さんざに噛みつかれたばかりなのだもの」
「言いがかりだわ、この邸には犬なんて」
「そこの“血種”のことよ。とんだお笑い種ね、あなたは結局、ちっとも昔と変わりやしないんだわ。言いつけ通りにお友達ごっこをしてくれる相手ばかりを傍に置いて」
 詩織の頬にかっと朱が差す。勢いよく顔を跳ね上げた彼女の瞳を、娘は臆することなく受け止めた。
「使用人で駄目だったから、今度は“血種”。呆れたこと、そうでもしないと誰にも愛してもらえないのだと、大声で言いふらしているようなものだわ。家名の上に胡坐をかいて……そんなだから手痛い裏切りを受けるのではないの」
「堺さん、やめてちょうだい」
「“それ”だって同じでしょう。いつあなたの手を噛むときが来るかしら。なんなら私の元へ来てもいいのよ、ねえ」
 無造作に、娘が私のシャツの袖を引く。煩わしいばかりの手つきを、私はしかし寸秒耐えて詩織を見やった。なにを期待したわけでもない、言うなれば怖いもの見たさに他ならない。しかし詩織のまなこの中にありありと浮かび上がっていた執着、羨望にも似てどろりとしたそれが、私の呼吸を奪って離さなかった。
 心臓がどくりと蠢く。――どこに向けられたものだ、と勘繰るのをやめられなかった。無用だと、火傷をするからと、とうの昔に放り捨てたはずの好奇心が、今になってうずき出す。教えてほしい、ともう一度、心臓が。しかし、それを彼女の口から聞き出すことには、やはり踏み潰したはずの矜持が待ったをかけるのだった。
「……結構だよ」
 痺れた舌を動かして、私ははっきりとこうべを振る。
「そう」
 抵抗もなく、娘のてのひらはするりと離れていった。気はすでに晴れていたのだろう。あるいは詩織を詰ることに、そのときにはすっかり飽いてしまっていたのかもしれなかった。
「私はその子ほど狭量じゃないわ。ご主人様に愛想を尽かしたら、いつでも家にいらっしゃい。存分に可愛がってあげる」
 娘が踵を返すのに従うようにして、客人たちは苦笑を交わしながら席を立つ。それでは蘇芳さん、わたしたちもそろそろ、お招きくださってありがとう、と紋切り型の挨拶を告げながら足早に去っていった。
 あとには凪いだような沈黙があった。机に取り残された茶器の中で、とうに冷めてしまっただろう茶の水面が揺れている。半ばまで手の付けられた茶菓子、半端に引かれたままの椅子、先までの談笑の名残を留めたなにもかもがくたびれて見えた。
「…………どうして?」
 詩織の目は、中空を見つめていた。
「ちゃんとやったわ。非礼なんかひとつも働かなかった。私」
 まばたきに追いやられた滴が、頬を伝っていく。それが薄く敷かれた白粉に弾かれ、そのまま着物の裾にこぼれるのを、私は黙って見つめていた。慰めを囁いたりはしないように。
「私は、なにも……っ」
 詩織の肩が震える。小さなしゃっくりをきっかけに、両手で目を覆って、引き攣れたような嗚咽を漏らし始めた。滴り落ちた涙が絨毯を濡らし、朱の色をより濃く染める。行き場を求めてさまよった指先は、偶然に私の腕を突いた。ためらいの後に肩をなぞる。首の後ろに手を遣る。そうしてしなだれかかってきた彼女の体を受け止めて、私は無音の中に息を吐いた。
 ぴんと張られた鋼の糸を、踏み越えてくるのを待っていたのだと思った。問いかけと答えが、境目を溶かしてくれるとは考えられなかったからだ。私と彼女のあいだにあった頑ななものを和らげていくのは、幾多の問答によってもたらされる理解や共感などではない。こうして縋り付かれることでようやく与えられるような、熱とまなざし以外にはありえなかったから。
 肩先がぬるく湿っていくのを感じ取りながら、私は彼女の首のうしろに指を届ける。簪を抜き払えば、素直な髪の束がほどけて散った。ゆるく編まれた髪筋は、手櫛で梳いてやるだけで、またすべらかな手触りを取り戻す。
「このままのほうがいい。結うよりもずっと」
 髪を撫ぜて、呟いていた。
 いつか他人のものになる娘だ。知っている。――けれどもかつて、他人のものであったと知らされることに、無心でいられるだけの用意がなかった。
 カーテンの隙間からは陽が漏れていた。白んだ庭の景色の中に黒々と、ひとつ、蝉の死骸が転がっている。生の主張に疲れた骸が。幾十もの蟻に群がられ、干からびた躰が運ばれるに至って、私はかれへの興味を失くした。