友、いかなるものか 4
 秋津。
 かれの名前を聞くことになったのは、詩織が泣いて部屋に引きこもってから一月が過ぎたころだった。
 詩織が外に顔を出さなくなったところで、私の日々は変わらない。眠り、起きて、また眠る――彼女の父母との間に沈黙を挟んで食事を摂ることになったとて、やはりへつらいはないままで。自然持て余すこととなる時間は帝都での散歩か三越との会話に費やされる。そうした時間が、わずか増えたばかりのことだった。
 三越はその夜、初めて私を部屋に通した。かれは住み込みの使用人であったから、公私の区別はその部屋の扉によって付けられていたのだった。私をそこに招くというのは、すなわち庭師の身にははばかりのあるものごとを口にするために違いない。
 老人ひとりが暮らす一室は、最低限の家具のみを抱え込んで質素だ。寝具の柱を見ればその年季が悟られた。窓や絨毯はなく、空気もまた小ぢんまりと区切られている。邸にこしらえられた他の部屋に比べれば、その一室は、私に卑近な落ち着きをもたらしてくれるものだった。
 三越は手拭いを首から剥ぎ取り、重く息をつく。
「秋津、と申します」
 開口一番に告げられたそれが、忌み名であることは悟られた。
「お嬢様が幼かったころ、邸に勤めていた若人でした。働き始めた折、歳は二十か二十五か……なににせよ蘇芳の使用人では歳若く、私どもも、あれの青さを可愛がっていたものでした。歳の割に聡明そうな目をした、事実よく機転の利く男だった」
 私を部屋にひとつの椅子に座らせ、自らは寝台に身を落ち着けながら、三越は訥々と語った。月の細い夜のことである。白熱電球の光も部屋の隅までは届かず、ひっそりとした暗がりの中に埃が積もっていた。
「歳の近い使用人でしたゆえ、お嬢様もよくあれに懐かれました。幼い娘御の好奇心を満たすには、やはり私たちでは老いぼれすぎていたのでしょうな」そう言って、三越は寂しさの混じった微笑を浮かべる。「お嬢様はまだ学校に入ったばかり、手習いの数も少ないころのことです。旦那さまもお嬢様をよそ行きに連れ出すようなことはなさっていませんでした。おかげで時間を持て余していらっしゃったのでしょう、下働きの秋津のあとをついて回っては、相手をするようにせがんでいたものです。他の使用人もそれが分かっておりましたゆえ、あれの仕事が遅くとも、持ち場を離れるようなことがあっても、さほど気にはかけはしませんでした」
 ――それがよくなかった。
 そう語り得たのも、あとに立たない後悔を経たからに違いなかった。
「旦那様が“血種”所持認定のお役目を担われていることはご存知でしょう。個人情報を取り扱う業務です、書類の扱いには日ごろから気を配っていらっしゃる。……しかし、忘れもしません、十一年前の秋の晩のことだ、厳重に隠匿されていたはずの情報の流出が確かに認められた。出所を探った結果、どうやら邸から漏れ出したものであるらしい」
「邸の人間が盗み出したってこと。その秋津が」
 ええ、と答え、三越はきつく目をつむる。痛みを堪えるような、どこぞからの悲鳴から目を背けようとでもするような、険しい表情で口を開いた。
「使用人ひとりひとりを調べ上げて、ようやく、あれの経歴が明るみに出たのです。ここに身を寄せる前に、秋津はとある邸に勤めていたらしい。蘇芳も長く続く家柄、恨みや妬みも少なからず買っております。密偵を差し向けられたのだと悟り、旦那様は秋津を警察に差し出すより先、ご自分の部屋に呼びだし手厳しく責め立てられました」
 常は温厚な老紳士が、声を荒げる様子を思い浮かべる。あるいは氷のように冷え固まった声色を。想像は容易だった。なにせ私はそれを確かに聞いている。蘇芳の邸に引き取られるきっかけとなったその日に。
「それを、お嬢様は聞いていらっしゃった。怒声の響く部屋の外、廊下に膝を抱えて」
 悄然とした有様であったという。じっと地面を見据え、廊下の隅にうずくまって微動だにしなかった。黙りこくったままの彼女の頭から、降りかかるようにして叱責の声が響いている。それを向けられているのは自分ではないのだと、分かってはいようが――分かっていようからこそ。
「それから数日もせず、秋津は邸を出ていきました。お嬢様に別れを告げたのかと、私たちは問うこともしなかった。そうするいとまがなかったのです。蘇芳の失態の噂はとうに広く知れ渡っており、使用人は続々と辞めていきました。残った者どもにできたのは、以前よりまして仕事に忙殺されるようになった旦那様を支えること、そればかりで」
「詩織は」
「お嬢様は……」
 手を伸ばすように呟いたきり、三越はしばし口をつぐんだ。代わりに漏れ出したのは細い溜息で、それはそのまま彼の自責だった。
 ぶうんと空を切った羽虫が、電球にぶつかって音を立てる。灼熱に焼かれてなお執拗に光を目指し、何も得られぬままで天井に張り付いた。
「…………あまりに、酷なことではありませんか」
 掠れた問いを耳にしたとき、吐き出しきれぬ未練を思った。彼に家族のないことはすでに聞いている。主人はもちろん、新たに邸に勤めるようになった使用人にも、告げられずにいた無念だ。
「幼い子供が、なぜ失望などというものを知らねばならなかったのか。芯から人を信じることに、怯えを覚えねばならなかったのか。私には分からぬのです。一度――」く、と三越の喉が引き攣れる。「一度きり、あの男に信を置いただけだというのに」
 夜風に吹かれ、庭木が気だるげに揺れていた。背の高い影は夜に溶け込んで、輪郭までも失っている。三越の残した無言を、私も破ることはしなかった。
 手痛い裏切りを受けたのちの、娘の立場に頭を遣る。詩織の学友たちが見せた態度と、堺の令嬢が浴びせかけた嘲笑とを順繰りに思い出し、胸は自然、重く沈むこととなる。無邪気につける薬には苦みの過ぎる記憶だ。――それを訊き出した私に対しても。
 廊下に頼りなさげな足音が立つ。束の間の緊張の後、部屋の扉が叩かれた。息を吸う気配、吐く気配、ふんぎりをつけるだけの間があって、
「千春」
 詩織の声が呼んだ。
 私は三越と視線を交わす。そうしている間に、詩織はか細い声で続けた。
「爺と一緒にいるのを見かけたから……邪魔をしてごめんなさい。いいの、時間を取る用件ではないから、そのままで聞いて」
「……なに」
「明日、買い物に出ようと思っているの。お着物だとか、お化粧品だとか、身の回りのものを新しくしなければならないでしょう。だから、それに付き合ってほしくて」
「私じゃ助けにはならないと思うけど」
「いいの」
 私は唇を湿らせて、わかった、と返してやる。詩織は深く息をついて、ありがとう、と礼を言った。おそるおそるといったふうに離れていく足音が聞こえなくなるまで耳をそばだてて、私は三越をふり返る。
 保たれたままの沈黙に滲んだ、先よりはずっと雄弁な意図を察していた。
「爺は、私に穴埋めをしろっていうんだ」
 代わりに皮と骨でつくられた身へと、切っ先を押し込むようにして問う。それは問いとは名ばかりの、苛みであったとも知れなかった。
 三越は老爺だ。綺麗ごとに目をつむることが、時に最大の成果を生むことを知っている。若人にそれを押しつけることにつき、生じる自責の念も。それを看過されたとて、黙り込みさえすれば逃げおおせることもまた。
 卑怯なのは誰も同じことだとわかっていた。わかっていたはずだというのに、沁み出した哀しみのやり場はどうしても見つからなかった。
「……爺はやさしい」
 しかしそのやさしさは、けして平等には与えられないのだ。人は人をたったひとりしか選べない。ゆえに誰もが見知った皆を比較して、後ろ手に順位をつけていく。爺にとって、私のそれは詩織のそれより低かった。当然のことだ。
 ならば、私と件の“彼”とでは――。
 奥歯を噛んで押し黙る。火のない部屋に暖はなく、扉の隙間から早秋の気配が潜りこんでくるのが感ぜられた。夏の盛りは過ぎたから、あとは夜冷えをするようになるばかりだろう。
「千春殿。夜も更けます。そろそろ部屋に戻られるのがよろしい。お嬢様とのお約束に、差しさわりがあってはいけない」
 三越に従って部屋を後にする。廊下にぽつぽつと灯った電球が、侘しいようすで夜を払っていた。その下を無心でそぞろ歩きながら、私は、もう嗅ぎ取れもしないはずの男の残り香に顔をしかめていた。