友、いかなるものか 2
 思えば“皇”という存在を人の男として認識したことなど、今まで一度としてなかったのだった。かれはまさしく空であり、イカルガの冠そのものであったためだ。嫁を取るのだ、ということにさえ、思い至ったのはあの露払い――深守と名乗る女に、詩織の輿入れを仄めかされたときが初めてだった。
 それを言うなら、婚前の娘として詩織を見られなかったのも仕方のないことだったと思える。無邪気さを装う詩織を見、神に嫁いでいく身として認識することなどは、私にはやはり難しかったのだった。
 それでも深守、詩織の周囲に警戒を巡らしたがる彼女の考えは、私にも理解が追い付いた。裏切りや叛逆の火種は早々に斬り捨ててしまいたいのが当然だ。だが彼女らが危険視する相手は、見てそれとわかる輩ばかりではない。
 たとえば華族。“皇”に嫁ぐ娘に取り入って、蜜をすすろうとする者たち。表には無害な顔をしているからこそ、一層性質が悪いもの。
「お友達だってさ」
 すっかり首を落とした椿の垣根の陰、花壇代わりの石段に、私は腰を下ろしていた。
 避暑の叶う場所を求めてさまよい歩いていたものの、やかましい蝉時雨から逃れられる場所はもはや邸の内外のどこにもない。結局は三越の仕事風景を眺めているほかに、もてあました時間を潰す手立てはないのだった。
「今の今まで、邸に来たりなんかしなかったんでしょう。あんまり露骨じゃない」
 もっともらしい言葉で自らを着飾って、その腹になにを抱えているものか。鼻を鳴らす私に、三越は軽く笑ってみせた。
「心配ならお傍でご覧になっていればよろしい」
「お嬢様たちのあいだに入ってなにをしろっていうのさ」
 私はただの“血種”なのだから、と、口癖めいたそれをまた口にする。
 邸の窓にはカーテンがかかっている。うっすらと映り込んだ影が、詩織の学友のものであることは見て取れた。開け放たれたままの窓から、囁くような笑い声が響いてくる。先生のご趣味が、学校の花が――他愛もない会話の断片に、後ろ暗いものを探ろうとする自分に気付けばどうしようもない。
 膝を抱える私を、三越は庭木越しに伺っていた。
「お嬢様もよくそうしていらっしゃったものでした。特に旦那様が留守にされている休日などは、一日じゅう庭に座り込んで」
「子供のころ?」
「ええ。あの頃は学校には通っていらっしゃいませんでしたし、家庭教師もみな年嵩の者ばかりでしたから」
 幼い娘に悪影響が出ないように、ということだ。あの厳粛な父親ならば考えそうなことだった。
「入学を果たされてからも……千春殿やお嬢様の求めるようなお友達は、なるほど、少なかったでしょうな。蘇芳という名前が付きまとっている以上」
「使用人は……」
 口にしかけて、本人がそれを拒んでいたことを思い出す。蝉の声が喧しさを増した。
 お友達、の定義など、問う前に人の手を取ってしまえばよいものを、詩織にはそれができないのだった。彼女は自分の背負った名前をよくよく理解してしまっている。だからこそ自分を、自分自身を、認めてもらわずには笑えない。付加価値のない詩織という娘自身を。
 すべてまやかしだ、と思う。そんなことは私がよく知っている。
 “皇”によって血の価値を根こそぎ奪い取られた“血種”たちに、もはや居場所は与えられない。ましてや存在そのものの価値などあろうはずもなかった。失われない価値、揺らがない存在価値は幻――それを探そうとするのは、見えもしない幸運を茶柱に求めるようなことに過ぎない。
「どこへ行かれます」
 おもむろに立ち上がった私に、三越が問いかける。
「散歩。やっぱり暑いよ、庭は。このあたりだとほとんど風も入ってこないし」
「それはご辛抱頂くほかにありませんな」
 私はこめかみを拭う。大粒の汗が伝っていた。凉を求めても甲斐がないとはいえ、やはり外気に晒されていてはうだるばかりだ。立ち去ろうとして、「そうだ」と三越を呼ぶ。
 そのとき一際強い風が吹いて、庭木を大きく揺らしていった。薔薇の実が引きちぎられて、ひとつ、足元に落ちる。まだ青いそれが、野次馬の口を縫い留めるようにつやめいている。
 三越が怪訝そうに振り返るので、私は首を振っていた。
「……いや、なんでもない。今度にする」
 そうして踵を返す。踏み込むことを恐れる足ゆえに。
 尋ねずとも察せられていたのだ。詩織の珠の簪が、何者かからの贈り物であることは。詩織が手元に置くのは琥珀の色をした髪飾りばかりであり、赤、特に暗い紅色などは、まずもって身につけることをしてこなかった。
 だが今朝の簪は、まるで、熟れきった林檎のような――。
「だからなんだっていうんだか」
 思考に歯止めをかけるのは、決まって自分の姿を思い出すときだ。貧相な体と赤く色づいた髪を見るとき。
 邸から距離を置くようにして、私は門へと向かっていた。頭を冷やそうと考えてのことだ。
 しかし「あなた」と声をかけられて、目論見は泡と消える。声の主は挑みかかるようにして行く手を塞ぎ、爛々と光る眼で私をまなざしていた。
 彼女――萌黄の上衣に袴を重ねた娘は、詩織と同じ年頃であるように見える。大方友人のひとりだろう。肩口で切りそろえた髪が、微風を受けて揺れていた。澄ました顔に嫌悪を滲ませて、「“血種”ね」と私に問いかける。
「そうだけど、なにか」
「蘇芳の子が“血種”を飼っているという話は耳にしていたけれど、こんなふうに野放しにしているとは思わなかったわ。躾もなっていないのね、客に頭も下げられないの?」
 面倒な手合いだ。私はこれ見よがしに溜息をつく。
「私のご主人様はあんたじゃないもの」
「高慢なことね。あなたお幾ら」
「なんだって」
「幾らでここに買われたのかと訊いているのよ」
 弁えていないのは彼女の方ではないのか、とも考えたが、そもそも“血種”に払われるような礼節などないのだ。「知らないよ」と答えた私に、娘は鼻白む様子を見せた。
「まあいいわ。ご令嬢のもとに案内なさいな」
 跳ね除けたところでろくなことにならない。先に立って歩いてやれば、満足げな吐息が背に聞こえた。庭の石畳を取って返し、日差しから逃れるようにして邸の中へと入っていく。
 娘は節操なく調度に目をやるような真似こそしなかったものの、自身の放言に配慮をすることは知らないらしかった。「それにしても」と呟くのを皮切りに、軽やかなせせら笑いが私の耳をくすぐる。
「人づきあいもこれだけわかりやすいと助かるものね。あの子が“皇”陛下に輿入れすることになった途端、みなが掌を返すのだから。おかしいこと」
 姦しい娘だ。私は背後を一瞥、続けて吐き捨てる。
「偉そうに言うけど、あんただって同じでしょう。この暑い中、わざわざ人の家まで媚びを売りに来たんだ」
「私が? 冗談ね。蘇芳にへつらうような家系ではないもの。学のない“血種”がどうかは知らないけれど、このイカルガの人間に、堺と聞いて判らぬ者はいないわよ」
「でも、皇居に呼ばれたのはあんたじゃなかったんでしょう」
 足音が止む。
 漂った沈黙を受けて、やけにせいせいしたのを自覚した。けれどもそれが、胸に巣食っていた鬱屈の断片を、引きちぎって他人に押し付けただけなのだということもまた理解していたのだ。
 空いた場所を埋めるのは後悔だった。罪悪感などという殊勝なものでは決してない。
「……そう、あなた、知らないのね」
 のっぺりとした声で、そうひとりごちたのが聞こえた。
 無意識にふり返った途端、私の目に映ったものは、あかあかと燃え盛った彼女の瞳だった。勢いを増した風が、廊下のカーテンを巻き上げる。――あ、と思う間もなく、白い手が私の頬を打った。
 焼けつくような痛みに息を詰める。その感覚を、長く、忘れていたようにも思えた。