04

 フェリトの態度は、表向きには従順だった。
 資料室に向かうときはクルシエの許可を取り、監視のもとでのみ資料の閲覧を許可する。本の貸し出しにおいては必ず保管庫の炎人形に申し出て指示に従う――クルシエとの間で交わされた決めごとに、フェリトはよく従っていた。本来ならば外出ごと禁止してしまいたいのがクルシエの本音ではあったが、あれもこれもと自由な行動を狭めていけば、彼は再び目を盗んで部屋を抜けだすに違いないのだった。
 クルシエが中枢部の点検を行うときは、フェリトを家に残して役目をこなす。それ以外の時間は彼につきあい、幾度となく資料室へと足を運ぶ。苦肉の策が功を奏したのか、数日中のフェリトの挙動は静かなものだった。
 もう騒ぎが起きることもないだろう、というクルシエの安心は油断を生む。
 裏を返せば、彼が静かにしていられたのも、ほんの数日の間だけだったのだ。


 ――やられた、と思った。
 クルシエがフェリトを監視下に置いて四日。部屋の中は再び空になっている。
 読みさしの書物が机の上に放られたままになっているのは、クルシエが部屋を出ていったときと同じ光景だ。走り書きのメモ用紙は所狭しと散らばり、彼の整理能力が地を擦るようなものであることを如実に示す。クルシエは苦々しい思いでそれを見下ろした。
「……彼が地下部の構造を理解したのは四日前。中枢部やエンジン室に向かう様子もなかった。資料室に向かうなら私を撒く必要はない。ならば」
 フェリトは資料室の書物から、目ぼしいものをあらかた調べ終えたのだ。次に求めるとすればより高次の資料に違いない。
 彼はもう、それがどこにあるのかを知っている。
 弾かれたように部屋を飛び出して、クルシエは地を蹴った。今度は部屋の扉に鍵をつけるように要請しようと心に決める。彼の横暴を止めるためであれば、少々の特権は許されてしかるべきだ。
 頭に熱が上っているのを感じながら、クルシエはようやく第二資料室の前にたどりつく。そこにはあかがね色の波ができていた。
 ときおり響いてくる大声から、炎人形たちの人だかりの中心にフェリトがいることを確信する。口論の相手は、資料室を警備する炎人形であるらしかった。
「第二資料室への炎人形の立ち入りは禁じられています。クルシエのところへお戻りなさい」
 無機質な声に、クルシエは騒ぎの原因を悟る。人の群れから一歩引いたところで、彼らの言い争いを聞いていた。
 そうしてしばらく、炎人形たちは揃って一歩を退いた。まばらになった隙間から、クルシエはフェリトの姿を確かめる。彼の手元にはぎらりと光る刃があった。
「融通の利かねえ奴らだな……!」
 相手は炎人形が二人、どちらも少女体をしている。御せる、と考えたのであろうことは明白だった。
 止めようかと考えたクルシエだったが、必要はないと判断した。その逡巡も、炎人形の安否を案じるものではない。――彼は少し、痛い目を見るべきなのだ。
 ごっ、と鈍い衝突音がした。
 すぐ後に、クルシエの足元にまでナイフが弾かれる。クルシエはそれを仕方なく拾い上げてから、地に転がっている少年を横目に見た。みぞおちのあたりを抑え、呼吸も満足にできないままで、苦しげに噎せ続けている。
 腹部を的確に、しかし軽々と蹴り抜かれたのだ。警備の人形はフェリトの横腹を再び蹴りつける。もう一人の警備は、群衆を解散させるべく手を振っていた。
「仕事にお戻りなさい。手助けは必要ありません」
 彼女は微動だにしないクルシエをちらりと見るも、何を告げることもしなかった。くり返される体罰に加勢し、少年の胸倉を掴み上げる。
「今すぐに炎を消し、母のもとへ帰ることを薦めます。あなたがクルシエの監視下にある以上、私たちがそれを代行することまではしませんが」
「母はあなたを受け入れて、新たな体へ作り変えるでしょう。その上で再びあなたが生まれるというのであれば、私たちもそれを母のご意思と信ずるだけのこと」
「……る、せえ……」
 フェリトの声は耳障りな雑音を伴った。鉄の床の上には、まだ乾かない血の滴と共に、欠けた歯が一本転がっている。呼吸をするたびに身じろぎをするので、あばらにも衝撃が入っているのだろう、とクルシエは頭の端で推測する。
 少年が動かなくなって初めて、警備の炎人形たちはそれぞれの持ち場に戻っていく。クルシエはようやく一歩を踏み出した。
「理解しましたか」
 閉じかけていたフェリトのまぶたが、寸前でゆっくりと開かれる。おまえか、と唇が動くのを、クルシエは高くから見下ろしていた。
「母は私たちの役割にに必要なものを、必要なだけお与えになる。相手が女性の姿なら無理を通せると考えたのでしょうが。浅慮でしたね」
「……だまれ」
 低い声に、軽い咳をひとつ。仰向けに転がるフェリトには立ち上がる力もないらしかった。手足の骨こそ折れている様子はないが、皮膚は内出血を起こし、すでにまばらな青あざが浮き始めている。いたずらに絵の具を叩きつけられたカンバスのようなありさまだった。
「身動きが取れないままでいてくれたほうが、私にとってはよほど有益です。ずっとこのままなら願ったりかなったりなのですが」
 ちり、と、クルシエの腹で炎が火花を立てる。そのひりつくような感覚に心当たりはなかった。構わずフェリトの傍に膝をつき、ナイフを元あった場所に収める。血と涎、涙にまみれた顔を見定めるようにして眺め、ひとこと、

「いい気味ですね」

 と、囁いた。
 フェリトが瞠目する。クルシエの肩から、あかがね色の髪がこぼれ落ちた。
「身勝手がいつまでも看過されるわけではありません。これで思い知ったでしょう。あなたの言う知識欲がなにを招くものなのか」
 胸がざらついている。ないはずの心臓とこすれあって、微かな、しかし確かな快感を生み出すようだった。耳殻や指先には、痺れにも似た甘美な痛みが伝わっていく。
「あなたのような燃えかすにはふさわしい罰でしょう。本来廃棄されるところを免れたのですから、これからは母の慈愛に感謝して――」
 クルシエの言葉は続かなかった。
 指一本も動かそうとはしなかったはずのフェリトが、急に彼女の髪を掴んで引き倒したのだ。そのまま少女の腹に乗り上げて、フェリトはぎらついた目でクルシエを睨みつけた。
 鎖骨には両の指が突き立てられる。肉と骨とを掴まれる痛みに、クルシエは歯を食いしばった。
「うるせえよ、人形……っ!」
 獣のような形相で、フェリトは一声、吠えた。
「お前たちが、人形ごときが……命令に従うことしかできない奴らが、俺を見下した? 蔑んだのか? 笑わせるなよ、ただの機械の分際で!」
 ぎち、と、音がした。それが自分の胸元から発された音であったのか、フェリトが奥歯を噛みしめたためのものであったのか、クルシエには判断がつかなかった。ただひとつ確かなことは、少年の黒い瞳に、自分たちとは異なる炎が燃えていることのみ。
 怒り。あるいは、憎悪と呼ばれるもの。それは炎人形が抱えるはずのない感情であり、抱えることを抑圧されてきた感情だった。
 しかしフェリトは、容易にそれを露わにする。むしろ肩をいからせ、唇をわなつかせている姿こそが、彼の性であったとでもいうかのように。
 ――殺される。
 確信じみた推測が、クルシエの頭に降った。次いでわき起こったのは、逃れなければ、という思いだった。
 守らねばならない。母から与えられた炎を抱えたまま死ぬわけにはいかない。炎人形が死ぬ場所は、母の胎の中でなければならないのだ。そうでなければ、新たな命として産まれ来ることさえできなくなるのだから。
 身をよじっても、フェリトの体はびくともしなかった。警備には軽くあしらわれたとはいえ、彼もまた外見相応の筋肉を持っているのだろう。中枢点検の知識以外の技能を知らないクルシエの歯が立つ相手ではない。
 は、と少年が笑う。喉笛を切り裂くような声だった。
「無様じゃねえか、さっきの余裕はどうした」
 フェリトの言葉を処理することも諦めていた。
 大声を出せばあるいは、とも考えたが、彼が腰元に手を伸ばすほうが早い。相手を油断させたまま、抜けだす方法を探らねばならなかった。しかしフェリトは拘束の仕方をわきまえているようで、膝と足を用いてクルシエの身を固定してしまっている。
 なにか。なにか方法を。逃げなければ。フェリトの声を意識の外に聞きながら、クルシエは考える。なにか、なにか、どうにかして。
 ――たあん、と。
 ブロムディオンの地下に響き渡った銃声が、クルシエの思考を貫いていった。
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