03

 扉に手をかけたとき、物音がしないことを不審に感じたのは確かだった。
 歩き回る気配も、室内を探る気配も、きれいさっぱり消えている。自室を出た際には同じ反応に安堵していたはずのクルシエだが、その段になって違和感を覚えることになった。
 急いて部屋を改める。中はもぬけの殻だ。黒髪の少年の、影も形もない。
「フェリト」
 返事は戻らなかった。冷えきった空気が、クルシエの肌を撫ぜていく。
 ――監視の目をゆるめないように。
 同僚の言葉が蘇った。クルシエは臍を噛む。警戒していたつもりが、甘かった。こうもあっさりと脱走が行われるとは思っていなかったのだ。大人しかった彼の態度に騙されていたのだと気付く。
 クルシエは食糧を寝台に放り出し、廊下を駆けた。地下部の内部構造も把握していないのだろう彼のことだ、何処と決めて行き先を選ぶようなことはできないだろう。
 そんな少年が足を止めるであろう地点ともなれば、数は限られてくる。まずは母の住む中枢区、空調その他の設備を担う機関室。両室の警備に少年の所在を確かめたが、彼女たちは揃って首を振った。
 続いてクルシエが足先を向けたのは、ブロムディオン関連の情報が収集された資料室だった。地下部にいくつも点在するそれらは、炎人形の居住区から遠ざかるごとに情報の機密度を増していく。クルシエが食料保管庫へ向かい、帰ってくるまでのあいだに、フェリトが辿りつけるであろう一室――開放された第一資料室に、クルシエは迷いなく飛び込んだ。
 日々の清掃のおかげで、資料室に埃の気配はない。整然と並ぶ書棚に詰められているのは、保存紙の上に印刷され、さらにぴったりと保護膜の張られた書物の数々だ。保存加工の行われた書物は劣化しないまま、百年単位での保管を可能としている。個人で買い求めるともなれば高値のつく代物だった。
 部屋の隅で立ちつくす炎人形が、クルシエの推測に確信を与えた。クルシエは書棚の合間をすり抜けて、ようやく求め人の姿を見つけ出す。
「フェリト」
 少年は片手に書物を開き、もう片方の手で器用に三冊を抱えていた。悪びれもせずにクルシエを一瞥する。
「ああ、お前か」
 本から興味が逸れたのは一瞬だけだ。すぐに手元に目を落とし、文字列と添付の写真とを見比べ始めた。しかしクルシエが沈黙を保つと、彼は鬱陶しそうに目を眇める。本をぱたりと閉じて、再びクルシエを見下ろした。
「いくつか理解した。地下部の構造に炎人形の生態。どうやらこの部屋には程度の低い情報しか残されていないらしいが……まあ、他の資料の場所は分かったから、これはこれで立派な成果だ。あとは」
「その行為をやめなさい」
 ぴしゃりと跳ね除ける。フェリトが一時、唇をこわばらせた。
「なんでだよ」
「それは人間が地下に残した資料です。私たちが手を出すものではありません」
「手を出すな? じゃあなんのための資料だ。俺が自分で調べれば、お前もさっきみたいに説明しないで済むだろうが」
「それとこれとは別の問題です。私があなたに与えた知識は、炎人形が生まれながらに知りえていたもの……母が許し、私たちに与えたものに他なりません」
 少年は目の前に虫の死骸を見せつけられたような顔をする。次いでクルシエに向けられたのは、理解しがたいものを見る目つきだった。クルシエは変わらない表情をもってそれを唾棄する。
「炎人形は母の手足、人の道具です。余計な情報を身につける必要はありません。生まれ持ったもののみを抱え、そのまま死んでいくだけのこと。過多な知識は反乱因子を作り出すきっかけになります」
「反乱因子? 逆らう勇気もないくせに?」
 フェリトの資料が書棚に戻される。ごとり、と低い音が響いた。
「二十年と生きもしない命が、ご立派な志を語るじゃねえか。人間の子供なら知識欲に取りつかれる歳だ。同じ顔をしておきながら、炎人形にはそれもないんだな」
「口を慎みなさい。自己否定は母への愚弄と取りますよ」
「母、母、母! またそれだ。よくもまあ母親なんかを信じていられるもんだな!」
「フェリト」
 再度、銃弾のような声で名を呼ぶ。フェリトはふんと鼻を鳴らした。書物の背を指の節で小突き、知りたくないのか、と彼は言う。
「どうして炎人形が作られた。お前らが地下部に詰め込まれているのはなぜだ。昼夜こんな薄暗いところで働かされて、固い寝台に眠って。外に出たいとも思わないのか」
「返答を拒否します」
 即答する。彼の問いかけは愚問だった。
「私たちがそれを疑問に思うことはありません。母が間違いを犯すことがなく、炎人形が彼女から生まれた存在である以上。私もあなたも役割を与えられ、望まれて産まれた存在です。他のものを求める必要はない」
 注がれる命を、まま使いきるだけの生だ。クルシエたちはそれ以上を望まない。フェリトは低い声で吐き捨てた。
「……餓鬼みたいなことを言いやがる」
 しかしその一言は、諸刃の剣でもあったようだった。彼の舌先は鈍り、ついには一言も言葉を吐かなくなる。
 やがて、波紋のような沈黙がわだかまった。資料室のライトが明滅し、光と闇とを散乱させる。クルシエは視界を白黒に染めながら、ああ交換の時期が近いのだな、ととりとめのないことを考えていた。
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