10

 フェリトは部屋に戻ってこなかった。
 クルシエに縄を解く力がない以上、監視の有無は問題にはならない。耳につくのは自分の呼吸と、頭上のライトが発するかすかな雑音ばかりだ。まんじりともせずに過ごす夜間、扉を隔てた先に足音を聞くのもそう珍しいことではなかった。
 しかし談笑を伴う人の気配は、その夜、クルシエを捉えた部屋の前でぴたりとやんだ。
 扉が開かれ、部屋の内側の光が漏れだしていく。クルシエは埃が流れていくのを見送って、その先に立つ男たちに顔を向けた。
「坊やのお人形さんはここか」
 三人連れの男だった。無精ひげの長短、背の高低、違いは多々あれど、それぞれに唇の端をつり上げている点は共通している。ふわりと漂ってくるのは、汗と酒の入り混じった臭いだ。赤ら顔を晒したひとりがくつくつと笑う。
「これがあいつの好みか。ほかにも選びようはあっただろうが」
「そうか? なかなか可愛い顔をしてると思うけど」
「てめえも餓鬼が趣味かよ、笑えねえ。乳もねえってのに」
 品定めをする視線だった。三人の両の目はむき出しの鎖骨、細い足首、あかがね色の中に覗く首筋を滑っていく。無言を貫くクルシエを、置物と同等に見なしているようだった。
 一人は顎を掻いて、首をひねる。
「しかし意外だな、もっと年上を可愛がるかと思ったが。人形もそれぞれだったろ。ちょうどあいつのお袋ぐらいの奴もいたんじゃないか」
「ああ、あの話か? 餓鬼のころに母親に捨てられたとかいう……俺は詳しくないけど」
「今も餓鬼だろ、あれは」
 小突き合い、違いないと笑う。話を切り出した男が目を細めた。
「父親が家を捨てていったとかで、えらく貧乏だったらしいな。そのくせやることはやっていたもんだから、家にはあいつのほかにも三人子供がいた。母子揃って共倒れになる前に口減らしをしなきゃならなかったんだそうだ。軍隊には珍しくもないだろう、そういうのも」
「選ばれたのがあいつだったってわけか」
「一番できが悪かったんじゃねえか。……あんな小賢しい餓鬼、ここでもお払い箱だっての。いい迷惑だぜ」
 ふんと鼻を鳴らす。三人は歳下の同僚のことを快く思っていないようだった。彼らの口ぶりからは、フェリトが調査隊のうちでもその横暴をいかんなく発揮していることが悟られる。
 しかしクルシエの意識は、それとは別のところにあった。
「母親を、」
 口を開いたクルシエに、三人の男が肩を跳ね上げる。
「自身の母親を、嫌悪しているのですか、彼は。……棄てられたがゆえに?」
 彼らは答えなかった。互いに目を見合わせ、クルシエを見やっては、何度となくまばたきをする。
「このお人形さん、喋るのか」
「他の奴らも喋っただろうが、こいつひとりじゃねえよ。……こっちの話に首つっこんでくるのは初めてだが」
 猫の生死を確かめるかのように、男の足先がクルシエの腹をつつく。煩わしさに身を揺らすだけのクルシエを見て、彼らはうなずき合った。彼女の前にかがみ込んだひとりが、服の裾を持ち上げる。腹の炎はほどなく明るみに出された。
「中身は他の人形と一緒か。まあ、俺たちじゃ専門外だが」
「ほっせえ腰だな……」
「いやらしい顔してんじゃねえよ。こいつにゃ隊長が隔離命令を出してるんだ」
 制止する男の声にも覇気はない。後ろ手に扉が閉められ、空気は再び渦を巻く。露わになったままの腰に目を固定したまま、先の男が唇をひくつかせた。
「いや、でもさ、少しぐらいは平気なんじゃないか。とっ捕まえるときだって悲鳴はあげなかっただろ。フェリトはいないし、隊長ももう仮眠を取ってる。ばれやしないって。……体のつくりは人と同じらしいしさ、ほら」
「こういうときだけ弁が立ちやがる。どうなっても知らねえからな」
 三つの視線が、クルシエの股の間に注がれる。顔を上げたクルシエの瞳に、彼らの影は色濃く映った。
「こいつらだって人形なんだ。人の役に立つなら本望だろ、なあ、調査続きでご無沙汰なんだって。秘密にしてくれよ……」
 衣ずれの音が、クルシエの耳殻を掻いていく。空気にさらされたままの腹に、ざらついた指先が忍びよった。あばらの上の薄い皮膚、ゆるい曲線を描く腰を伝わって、腰骨を舐めるようにして撫でる。肉付きの悪い体に潜むものを探り出すかのように、掌はくり返し肌を這った。
 湿った吐息がクルシエの鼓膜を震わせる。――不快だ、と感じた。そう感じる自分に、ささやかな驚きさえも覚えながら。
「こいつ、喘いだりすんのかな」
「やってみろよ」
 くく、と、粘つく笑い声を聞く。耳を伝う舌の粘膜を感じながら、クルシエはよそに思いを馳せていた。
 目と耳を奪われた母に、人形の声は届かないだろう。クルシエに既視感を抱かせたものは、コードを伝って覗き見た母の記憶だった。地上に放たれ、人に弄ばれたきょうだいたちが、冷めた目で自分を見下ろしている光景――。
「……っ」
 爪先が胸の頂を弾く。クルシエが息を詰めた気配も、男には悟られていた。急いた片腕が太ももに向かい、その内側を撫でさする。
 しかしクルシエの指が床に突き立てられたとき、彼らの背後の扉が蹴破られた。ぎょっと振り向いた二人に遅れ、クルシエに覆いかぶさっていた一人は、転がるようにして尻もちをつく。
「なにやってる」
 声は、少年の喉から発せられた。
 億劫そうに壁に手を置き、ひとつため息をついてみせ、フェリトは三人を一瞥する。
「そいつの監視は俺に任されている。勝手な手出しは控えろ」
「ぼくの大事な大事なお人形さんに触らないでください、ってか? お手つきを嫌ってるうちはまだ餓鬼だな」
 フェリトの頭が自身より低い位置にあることに、男たちはいくらか威勢を取り戻したらしかった。しかし嘲りがフェリトの耳を叩くや否や、彼は射殺すような眼差しで男を見すえる。
「餓鬼相手におったててるお前らに言われたくねえよ。隊長がこっちを目指してる、罰則が嫌ならとっとと失せろ」
 痛烈な舌打ちが空気を裂いた。フェリトの顔を殴り飛ばし、男は一人また一人と部屋を出ていく。残された男が慌ててその後を追うのを見送ってから、クルシエはフェリトへと目を向けた。
 少年は壁際まで突き飛ばされ、忌々しげに男たちの背中を睨みつけていた。クルシエの視線に気付いたところで、口元を拭ってひとつ毒づく。めくられたままのクルシエのチュニックを引き下げてから、その背の壁を蹴りつけた。
「頭までガスが詰まってんのか。馬鹿にいいようにされてんじゃねえよ」
「私の手足を縛ったあなたがそれを言うと?」
「なんのための口だ、そうやって人様に文句をつけるためか? 上等な目的なんだな」
「それは機能のひとつであって、目的にはなり得ません。発声は意思疎通の手段であって……何をしているのですか、フェリト」
「黙ってろ」
 クルシエの足首を繋いでいた縄が、ナイフによって断ち切られる。続いて柱に身を繋いでいた縄が解かれた。両手の拘束のみを残して、クルシエの体はあっけなく自由を取り戻す。
 最後の戒めを、フェリトは乱暴に引き上げた。
「ついて来い。声は上げるなよ」
 ――できないんだろうけどな。そう付け加え、鎖を引くかのようにクルシエを立ち上がらせる。五日ぶりに歩行を思い出した足は、ふらりと床の上を踊った。
「なにを望んでいるのかって訊いたな、お前」
 背中越しの確認に、クルシエが記憶を探る間は与えられない。室外を注意深く伺ったあとに、フェリトは暗い瞳をぎらつかせた。
「この都市を手に入れるんだよ。あとから嗅ぎつけたハイエナどもに、汚らしく食い散らかされる前にな」
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