おい、と声をかけられたのは、ラケイユが学院に籍を置いてから五年目の春のことだった。
 吹き抜けになった図書室の二階脇から見下ろしてみれば、つんと澄ました無愛想が眼下にある。鋭い濃青の双眸やまとめあげられた銀髪、首元までをきっちりと留めた法衣を見比べながら、珍しいこともあるものだと考えていた。
「ラケイユ・ブラン。本を探している」
「どのようなものを?」
 梯子を伝って下りていくと、少女はうろたえながら一歩を退いた。けれどもすぐにはっとして、虚勢を張り直す。
「人体の解剖図だ。なるべく新しいものを」
 担当の教師に乞うたほうが用事は早く済むだろうけど。そんな助言は胸中にとどめて、図書室の構造を頭に浮かべる。こちらへ、と先導すれば、少女は黙って従った。
 生物学関連の図書は、一階の奥まった書棚に並べられている。卒業必修科目に含まれていないせいか辺りをうろつく人影もまばらだ。ラケイユは言葉少なに少女を誘導すると、そこから数冊を引き抜いてみせた。
「寄贈されたものの中では、一応オレール・コメットの著書が最も新しいものにあたるかな。ただ、当人は解剖をせずに又聞きでの執筆を行ったそうだから、批評も多く寄せられたと聞いている。信憑性をとるなら従来の図を使うべきだろうね」
「それでいい」
「ならこちらを。解説はそう多くないけど、図の明快さにおいては随一だ」
 布表紙の一冊を差し出した。少女は躊躇しながらそれを受け取って、異言語を眺めるような目でその背表紙をなぞる。
「あ、ありがとう」
「……くっ」
 そうして唇をもごもごとさせながら礼を述べるものだから、噴き出さずにはいられなかった。
 声を押し殺し、けれども堪えきれずに腹を抱えるラケイユを前にして、少女は驚きに目を剥いている。その様子がまた笑いを誘った。やっとのことで息絶え絶えに平静を取り戻すと、ラケイユは深く息をつく。
「いや、うん、よく似ている」
 姉の姿に似せようとした努力は伺えた。法衣には皺ひとつなく、普段の彼女であれば流しているだけの髪も、きっちりと結い上げられいる。意識して作り上げたのであろう無表情や硬い口調には、確かに片割れの持つ空気を感じないこともない。
 しかし彼女は、それを徹底するだけの演技力に欠けていた。今もきょとんとした顔でラケイユを見上げ、途方に暮れてしまっている。
「嘘が下手なところまでそっくりだ。そうだろう、紅玉のお嬢さん」
「こうぎょく」
「きみの姉君は、一昨日にはもう解剖図を抱えていたよ。俺なんかに在り処を訊かずにね」
 少女――エツィラは呆けたまま言葉を受け取り、すぐにあっと飛び跳ねた。何か言い訳をと考える様子こそ見せたものの、結局小さく息をつく。
 髪紐を解けば銀の川が流れる。それを軽く手櫛で梳いてから、彼女はばつが悪そうに目をそらした。
「どうして分かったかなあ。顔も、声も、そっくりでしょう。喋り方だって真似たつもりなのに」
「彼女は人に頼ることを知らないようだし、……そもそも、俺の名前を呼んだりしないよ」
 礼を言えるほど素直でもないだろうし。
 最後に付け加えると、エツィラはきょとんとしたあと、眉を下げて笑った。そうだねと頷かれるので、どうやら片割れに対しても彼女の態度は変わらないらしい。
 苦しげだった襟を緩め、少女はようやく普段の姿を取り戻す。改めてその相貌を眺めやれば、目の開き方から唇の端の所作まで、彼女の片割れとは異なっていることが見て取れた。
 人気のない書棚の影へと誘導されたのは、どうやら自分の方だったのだろう。建前に使われただけの本を預かろうとしたところで、これは本当に必要だからと首を振られた。
「片割れのふりをしてまで、俺に話しかけたのは?」
「一度会ってみたかったの。ハルミヤが図書館に行こうとしない理由に」
 おやと思う。数度、ほんの興味から声をかけたのを、まだ根に持たれているらしい。人嫌いも堂に入ったものだなと感心するほかになかった。ラケイユは取り出した本を元に戻しながら、おどけたふりで肩をすくめる。
「それで、ご感想は」
「ハルミヤが苦手そうだなって。……ごめんなさい、馬鹿にしているわけじゃないんだけど」
「好かれていないことは重々承知しているよ」
「ああ、そう、なんだけど、そういうことじゃなくて」
 なんて言ったらいいのかな、ええと。
 彼女は思考が口から洩れる性質のようだった。ああでもないこうでもないとぶつぶつ呟いてから、ようやく納得のいく答えを見つけ出したらしい。恥ずかしそうにはにかんで、「珍しいんだよ」と告げた。
「ハルミヤが、誰かを名指しで嫌うことなんてなかったの。あの子が受ける差別は、いつだって、知らない誰かからのものだったから」
(……まるで、親のように言う)
 ハルミヤが蔑視されてきたというならば、エツィラもまた同じ境遇に立たされてきたはずだ。しかし彼女の言いように、自分の存在は含まれていない。他人のように、よく知る知人のように、――子供のように、それを語ろうとする。本人はその矛盾に気付いていないのだろう。
「話を聞いても、絡まれた、鬱陶しい、の一点張りなの。……誰かに殴られたって、悪口を言われたって、もう私には何も言ってくれなくなったのに、ブランさんのことだけは何度も口に出すんだよ」
「しかめ面で?」
「そう、しかめ面で。眉の間に、こーんな皺を作って」
 言いながら自分の眉間を押しつぶす。その形相を想像するのは容易だった。エツィラと向かい合って、どちらからともなく笑みをこぼす。
「だから、ね、ブランさん。これは、勝手なお願いなんだけど」
 先に表情を曇らせたのは少女の方だった。やわく唇を噛んで、目を伏せる。
「ハルミヤのこと、見ていてあげてくれませんか。支えてもらうことまでは望まない、でも、せめて……せめて、あの子がここにいること、ここにいたことを、知っていてほしいの」
 淡雪が融けるかのように笑みを崩し、エツィラは深く頭を下げた。
 彼女の後頭部を眺めながら、ラケイユはぼんやりと、含まれた陰りに思いを馳せる。問い詰めたところで、エツィラは首を振るだけのことなのだろう。彼女もまた片割れとは異なる形の頑なさを持ち合わせているのだ。
「きみのことはいいのかい」
 代わりに問うた。
 エツィラは目をまるく見開いて、青色に微かな迷い、続いて諦めを映す。ラケイユがそこに姉と似た色を感じ取った頃、くしゃりと笑って首を振った。
「私のことは、ハルミヤが憶えていてくれればじゅうぶんだから」
 ――呪いのように残された、その言葉をまだ、忘れられないでいる。

 仮眠から目覚めてみれば、そこは自室の中だった。
 天井の蔦模様も他人のもののように感ぜられて、思わずひとつため息を漏らす。どうやら寝台から足だけを投げ出して寝転んでいたらしく、腰には重い疲労感が残っていた。体を起こせば筋肉が悲鳴を上げる。
「殿下、お目覚めですか」
「……ああ、うん」
 開かれたままの扉の脇で、緊張した面持ちのシャルロットが腰を折っている。申し訳ないことをしたなと思いながら目蓋をこすった。
 昨晩、王宮に戻ったラケイユを迎えたのは、国王からの叱責と弟からの皮肉、元老院から寄越された使者からの追求の嵐だった。その対応に追われたせいで、ハルミヤの介抱は彼女に一任してしまっていたのだ。
「彼女は」
「まだお目覚めになりません。傷の手当てやお着替えは済みましたけれど、」
「いや、いい。俺が行く」
 シャルロットは何事か言いたげに顔を上げたが、畏まりましたと一礼するに留めた。
 司祭殺し、異端者、死刑囚。ハルミヤ・ディルカの負わされた肩書きは、彼女のような侍従にも伝わっていることだろう。諾々と介抱に努めたのは、それが王太子の命であるからだと考えていた。しかし少女の表情を見る限り、彼女が抱えているのは怯えではないらしい。
 ハルミヤの眠る部屋に足を踏み入れて、ようやくその理由を悟った。
 匂い立つ薬剤の香りに、シャルロットの顔が確かにこわばる。今にも泣き出しそうなほどに歪められた唇を、彼女は堪えるようにして噛みしめていた。
「……ハルミヤ」
 少女は廊下に背を向けるようにして横たわっている。寝台の上には点々と血の跡が残っていた。
「陛下が王宮から神官の方々を追い出されたので、法術を用いることもできず……お医者様が処置を施して下さいましたが、あとはご自分で治されるしかない、とのことで」
 シャルロットの言葉を聞きながら、思い浮かべるのは王都での逃走劇だった。
 矢傷を瞬く間に治してみせたことはまだ記憶に新しい。だが現在、目の前に眠る少女の指先には、大きさのまばらな傷跡がくっきりと残されていた。
(治癒の力が失われたのか、……それとも、傷を治すことさえ、望んでいないのか)
 護神兵の法術をはるかに上回る力も、傷の治りの早さも、銀龍がもたらしたものだと知れば納得がいく。彼女とて処刑場で隠し事が露呈するとは思いもしなかっただろうが、今の状況は不幸中の幸いだった。
(その不幸も、彼女には重なり過ぎたようだけど)
 剥き出しの腕に散る痣に目をやってから、ゆっくりとハルミヤの背中に視線を滑らせる。薄衣の襟に手をかければ、背後で小さな悲鳴が上がった。
「殿下――!?」
 制止を聞かずに引き下げる。途端、腹を殴られるような心地がして、ラケイユは眉を寄せた。
 露わにされたのは掌大の焼き跡だ。古い文字で異端者を示す烙印は、彼女の薄い背にも分け隔てなく押し付けられたのだろう。ずる剥けた皮膚ごと硬化して、消えぬ傷跡として残されていた。
 凹凸を指でなぞり、皮膚の下の熱に触れる。ハルミヤが小さなうめき声を上げるたび、自分の顔から表情が剥がれ落ちていくのを感じていた。目蓋を閉じ、開いて、音もなく息を吐く。
「殿下、」
「……シャルロット。引き続き彼女の手当てを。身の心配はいらない、目覚めてすぐに襲いかかるようなことはしないだろうから」
「わ、わたくしの心配などしておりません!」
 思ってもみない大声が出たのだろう。シャルロットははっと口を覆ったが、そのままふるふるとかぶりを振った。
「身を尽くして、お手当てを致します。……お任せ下さいませ」
 小さな侍従は、袖の下に指先を握りこんでいた。彼女の拳が小刻みに震えているのを見てしまえば、ラケイユの口からはもう一つの言葉も出てこない。
 シャルロットの姿は、ハルミヤの胸にしこりを残し得るだろうか。彼女を支えた片割れ、いつか共にいたはずの少女が姿を消した今、この少女の在り様は、ハルミヤに怯えをもたらしはしないか――胸の内に問いかけて、ラケイユは棘に刺されるような痛みを覚える。
(握りつぶすことを恐れて、手を伸ばさないなら)
 それではいつまでも、自分を許すことはできないままだろうに、と。