絨毯の臙脂が目を焼いた。
目の前の背を追い一歩を行くごとに、剣の鞘が腿を叩く。履きなれない脚衣はわずらわしく、拘束されているような圧迫感をもたらした。着替えを求めたハルミヤに与えられたのが衛士と同じ意匠の服であったことを鑑みれば、ラケイユの思惑を読み取ることは容易だった。
高窓に切り取られた空には焼けただれた雲が滲んでいる。斜陽に炙られるようで視線を落とせば、整然と広間を取り囲む衛兵が、揃って自分に疑惑の目を向けているのに気付いた。当然だなと胸に呟いて、ハルミヤは感慨もないままに正面へ顔を戻す。
老いた王は、玉座に背をもたれかけていた。眼の下の隈、たるんだ皮膚の間からは、饐えた死の臭いがする。彼は眼前に跪くラケイユとハルミヤとを睥睨して、気怠げに口を開いた。
「ラケイユ」
「は」
「仔細を説明せよ」
ハルミヤの身分――学院の門をくぐり、今に至るまでの生い立ちには、すでに調べがつけられているのだろう。代わりにラケイユが語り聞かせたのは、処刑場で繰り広げられた騒動の幕引きだった。
死刑囚であるところのハルミヤ・ディルカが海に沈んだ途端、銀龍が現れ彼女を救い上げたこと。以降も護神兵らを近づけず、彼女を守るようにして観衆を威嚇したこと。脚色を交えながらの説明を右から左に聞き流しながら、ハルミヤは気取られぬように上座の王を見上げていた。
ディルカメネス現国王、ギュスターヴ三世。今年で齢七十に届くかという長寿の王だ。しかしいざ向かい合ってみれば、その身には色濃い病の気配が纏わりついているように見えた。
(おそらく、長くは保たない)
判断し、すぐ前にある青年の背中に視線を注ぐ。順当に考えれば、第一子であるラケイユがその跡を継ぐことになるだろう。
あるいは、と動かした目は、王座の後ろに控える少年の眼に注がれた。
凛然とした佇まいの少年だ。ジュリアン・ルイ・ブランシャール・ド・ディライ、ラケイユの実の弟である。年の頃はラケイユより五つ六つ下といったところだろう。髪や目の色、顔のつくりまではラケイユと同じものを感じさせたが、ただひとつ瞳に浮かんだ侮蔑だけが、兄とは異なる趣を彼に纏わせていた。
ふいに訪れた静寂に目を細める。ハルミヤが父子を見比べているうちに、ラケイユの説明は終えられたらしい。
「娘」
王に呼ばれ、は、と面を伏せる。
「今の話は真か」
「すべて、殿下が仰った通りに」
ラケイユの言葉を聞いていたわけではなかったが、大人しくしているように、と口を酸っぱくして言い含められたことだけはよく覚えている。ハルミヤがわずかに頷いてみせると、王は喉の奥からくぐもった唸り声をあげた。
「死刑囚の身を預かっている現状にも業腹だが、神官どもの言うとおりにそなたを引き渡すのも不愉快だ。元老院の爺どもも煩わしい、朝から夜まで抗議だなんだと、ご苦労なことよ」
濁った瞳に憎悪がよぎる。それを視界の端に捉えながら、ハルミヤは胸に確かな納得を得ていた。
――けれど代々の我らが国王陛下は、いつだって神殿からの権力奪還を目論んでいる。
――届かない星に手を伸ばす……まるで夢追い人のように。
からかうようにそう告げたラケイユの眼差しが思い浮かぶようだった。王を神の傀儡と言いやったハルミヤに憤る様子を見せなかったのは、彼がその激情までは受け継がなかったためだろう。野心ごとそれを引き受けたのは、むしろ彼の弟のほうだ。
「そなたはなんとする、ジュリアン」
王が彼に意見を求める。それまで唇を引き結んでいた少年が、尊大な態度で床を踏んだ。
「私は反対です。それは死刑囚、しかも、新学院の学徒でありながら司祭を殺害した異端者だ。こうしてかくまってやったところで、いつ手を噛まれるとも知れない」
少年の清々しいほどの嘲りの視線を、ハルミヤは意にも介さず受け流す。ラケイユも同様の表情をしているのだろう、ジュリアンは苛立ちに眉をひそめていた。
脚も、腰つきも、細く頼りない。兄に輪をかけて、ともなれば相当だ。アルヘナがラケイユを指して牙なき獅子と称したことを思い出し、ならばジュリアンは牙ばかりの育った兎だろうかと頭の端で考えた。声はいまだ甲高く、顔つきも幼いとあっては、そこに威厳が宿るはずもない。
道理だな、と相槌を打ってから、王は瞳に険を宿しラケイユを見る。
「ラケイユ、そなたは」
「傾いだ天秤を揺らす、またとない機会かと」
彼の返答は一言だった。王の眼差しがはっきりと曇る。
巧みな弁舌に任せれば、丸めこむことは容易なのだろう。しかし彼が求めるものは王自らの決断だった。国王がその判断をもって、神殿に敵対する意志を示したという建前――それがなければ、ハルミヤの立場はあやふやなものに留められるためだ。
「……気に食わん」
王が漏らしたのは、しばらくの無言の後だった。
「まこと気に食わん。王座を厭いここを逃げ出したと思えば、龍の力を得た途端に舞い戻ってくるなどと。そなたの臆病、ゆえに持ち合わせる強かさが、私は心から気に食わん。気に食わんが」肘掛けの上、皺に包まれた手が握られる。「それに賭けねば、王家の威信は戻らぬ」
「っ、陛下!」
「控えておれ、ジュリアン」
怒りの矛先を失い、ジュリアンは唇の端をつり下げる。しばらく忌々しげにラケイユを睨みつけていたが、効き目がないと悟ってかついと目をそらした。
「ハルミヤ・ディルカ。そなたには王太子の傍付きを命ずる。……ラケイユ、そなたが持ち込んだ種だ。せいぜい王家のために咲かせよ」
「仰せのままに」
喜ぶ様子ひとつ見せない息子を一瞥し、王はふんと鼻を鳴らした。
「話は終わりだ。下がれ」
肩先に髪が跳ね、煩わしく感じて払いのける。黒の名残を強く露わにしているのはその毛先ぐらいのもので、長い牢屋暮らしのために、染め粉の色はほとんど褪せてしまっていた。つい先ほどシャルロットの手にかかって執拗に洗い上げられた髪は、今やあらかた元の銀色を取り戻している。
人の手に清められた体、見繕われた仕着せで、ひと月前ならば訪れようとも思わなかった場所に立っている。石造りの床さえ今は不安定なように思われて、ハルミヤは渋い顔でラケイユの後を追っていた。
「よく我慢していた」
足元を睨みつけていると、存外に軽い声がかかる。
「いつ噛みつくかと思っていたけど」
言葉の主がラケイユであることを二度確認して、ハルミヤは「犬じゃない」と返した。くつくつと笑声が浴びせられるのを、苦い心地で受け取る。振り払うように鋭く息を吐きだした。
「蔑まれていたのはお前も同じだろう。逃げただの何だのと」
「すべて事実だ、腹を立てる理由がない」
あくまでも飄々とした態度を崩さずに、ラケイユは歩を進めていく。行き過ぎる使用人が立ち止まっては一礼するのを、ハルミヤは横目で眺めていた。
立ち居振る舞いこそ学院での彼と変わりないものの、足取り、口振り、表情の端々に、頑ななものが見え隠れする。その一方で吹っ切れたような気持ちよさを伺わせるのも不可思議なことだった。しかし下手に藪をつつけば意趣返しをされることも考えられて、ハルミヤの唇は自然と閉ざされる。
そうして長く続いた足音の合間に、ラケイユはふと虚空を眺めた。
「嫌で、仕方がなくてね」
余所にやるような声だった。耳を傾けねば消えてしまいそうなそれに、ハルミヤは思わず意識を研ぎ澄ます。
「誰が王になったところで、神殿の優位が揺らぐわけではないだろう。叶わないと知りながら権威を求めることが、無意味にしか思えなかったものだから」
言葉を切り、ラケイユは首を振った。
「学院の中は気が楽だった。神殿の匂いが鼻に堪えることを抜きにすれば、あそこは、知と自由に満ちた場所だ。……そんな中にいたものだから、不自由そうなきみの姿は否応なく目についた」
「愚かしいか」
「けなげだ」
力任せに背中を殴りつける。ははは、と朗らかに笑われるのも癪だった。
ひたむきに神官を目指すハルミヤの姿は、さぞかし滑稽に見えたことだろう。ハルミヤのみではない、王位を背に持つ彼から見れば、学院の生徒たちは皆、倍率の高い賭けごとに身を投じる命知らずに違いない。
その一方で、王家が神官たちによって頭を押さえつけられているのもまた事実だ。笑声がかすれて消えた頃、ラケイユは唐突に足を止めた。
「ここは窮屈だ。でも、気休めにはなる」
青年が振り向き、手を伸ばした。しかしその指先が伸び切っても、距離を置いたハルミヤには届かない。ラケイユはその結果を初めから悟っていたように目を眇め、腕を引いた。
――ハルミヤ。
吐き出された名に、胸を突かれる。
「きみは好きなように走ってゆけばいい。天へも、大地の果てまでも。それでもきみが足を止めるときは、俺の傍であったらと思う。……そのために、椅子を用意して待っている」
脳裏が空白に埋められる。叩きつける言葉が見当たらない。指の一本も届かない距離、それを境界として、ラケイユは変わらずに笑っている。
早く黙らせなければいけない、と、頭では理解していた。しかし焦燥と呆然との板挟みになった体は微動だにしない。足の先までが凍りついたように、動くことを拒んでいる。
少女の怯えを、焦りを。何もかもわかっているというように、ラケイユは眉を上下させる。
そして一歩を詰め寄った。
「……ハルミヤ、きみが好きだ」
鼓膜に甘い痺れを感じる。
唇を引き結んだまま、この男に初めて名を呼ばれたのはいつだっただろう、と、栓のないことを考えていた。