「あの、困ります、おひとりで出歩かれては……!」
「これは私の横暴だ、お前に迷惑はかけない。それよりあの男はどこにいる」
「で、ですからあ」
 幅の広い廊下を、ハルミヤはほとんど走るも同然の速度で抜けていく。そうすれば背の低い少女――シャルロットの早足では追いつけないと知ってのことだ。彼女は息を乱し、肩を上下させながら、それでもハルミヤを懸命に追いかける。
「今はお体を大切になさってください、殿下は数日もすればいらっしゃいますから、……ディルカ様!」
「やめろ」
 床を踏み、一息にふり返る。睨みつけてやればシャルロットは小さく声を上げた。
「ここでまで名字を呼ばれたくない。……ああ、もういい、居所を教えるつもりがないならついてくるな。自分で探す」
「そ、そういうわけには参りません! あなた様のお世話を申しつかっている以上は、」
「見張りの間違いだろう。私を一歩も外に出さなければ、見習い卒業でも許されるのか」
「ちがっ……」
 シャルロットが勢いよく顔を上げる。言い返してくるかと身構えたが、彼女は顔を歪めるだけだった。耐えるように唇を噛んでうつむいてしまう。
 ハルミヤはその姿を見ながら、生まれは貴族か商人かだろう、と考えていた。所作の端々には育ちの良さが窺え、女中見習いにしては言葉に迷う様子もない。逆に罪人崩れのハルミヤを見下すこともなく、令嬢にこぞってついて回るはずの高い矜持の影もちらつかせないのだ。
 おそらくは子爵家の娘あたりだろう。ハルミヤが見当をつけていると、二人の間に割って入る影があった。
「女中を困らせるのも、そのあたりにしてやってくださいませんか」
 そこには背筋を伸ばした老人が、微苦笑をたたえて佇んでいる。ハルミヤはまじまじと彼の顔を見つめてから一歩を引いた。
「……ルクレール殿。やはりあなたも」
「ええ、その節はお世話になりました。素性を伏せたことについては何とぞご容赦を」
 深い礼が続き、ハルミヤに苦言を呑みこませる。やりきれない思いでシャルロットを窺えば、彼女はハルミヤの背に控えるようにして頭を下げていた。
 神官という肩書きが偽りのものであったとて、貴人であることに違いはないのだろう。痩身を覆う暗色のガウンを始めとして、身に付けた礼服も良質なもので揃えられている。ハルミヤは呼吸を整えて彼に向き直った。
「先日事情は伺いました。王太子が関わっていたともなれば、身分を明かせないのは当然のことでしょう。頭を下げられるようなことではありません」
「ご厚情に感謝致します。して、ハルミヤ殿。貴殿は何をなさっておいでなのですかな」
 シャルロットが縋るような視線をルクレールに向ける。それを横目で受け止め、彼は小首を傾げた。「どうやら少々、ご無理を通しておられるようですが」
 深い瞳にのぞきこまれれば、胸中すらも見透かされるようだった。彼が相手では分が悪い――そう悟ってか、歯切れは自然と悪くなる。
「当の、王太子を探して」
「それは今日でなくてはなりませんか」
「……急ぎではありません、が」
 ルクレールはふうむと顎を撫でる。シャルロットとハルミヤとを見比べて、心得たとばかりに頷いた。
「ならば私がご案内いたしましょう」
「ルクレール様!」
 悲鳴じみた少女の声に、彼はすまなそうに目礼を返す。シャルロットは何事か言いたげに両肩を上げたが、老貴人の眼差しには何を言う力も起こらなかったのか、しおれた様子で眉を伏せた。
「困ります、勝手をなされては」
「何も出歩きそのものを禁じられたわけではないのでしょう? お若い方の一日に、部屋の一室は窮屈だ」
「ですが」
「なに、私が付いておれば誰にも文句は言われますまい。あなたは部屋にお戻りなさい、もし問題が起きるようであれば、私に一任してくださってよろしい」
「…………かしこまり、ました」
 シャルロットは暗い表情で頭を下げるも、途中でふいにハルミヤを見上げた。食い入るように顔を見つめてから、「どうかご無理はなさらないでくださいませ!」と力強く言いつける。今度こそ一礼を遂げると、元来た道を戻っていった。
 憤懣のにじむ足取りに、ハルミヤは重い息をつく。歳下の少女に無理をたしなめられるのは何度目になったか分からなかった。
(エツィラ、クロエ)
 恐れを抱えていない、と言えば嘘になる。手元に寄せれば巻き込むだろう。掴まなければ見失う。だが、遠ざける勇気までは持てないままだ。
「どうなさいました」
 呼びかけられ、はっと息を呑んだ。早口に謝罪を述べればいたわりの目が向けられる。それが煩わしくて顔を背けた。
「案内をお願いします、ルクレール殿。お時間が無ければ、場所を教えて下さるだけでも十分ですので」
「あちらを」
 おもむろに差し伸ばされた手が、渡り廊下の横に連なる長窓の外を指し示す。眼下には白花をつけた木々が整然と並んでいた。石の遊歩道はその間を縫うように伸び、彼方まで続いていく。
 よぎった既視感はルクレールの顔を見た途端に形を取った。いつか王都に帰りついた日、護神兵に追われて逃げ込んだ庭園だ。遊歩道沿いにはルクレールの小屋が佇んでいるのだろう。
 過去に一度、自分はここを訪れていたのだ。人が悪い、と非難の目を向けたところで、彼は柔和な表情を崩さなかった。
「私も殿下に用事があるのです。ご一緒にいかがですかな、ハルミヤ殿」

 木々の梢、敷き詰められた芝生を視界に捉えるたびに、同じ場所を横切った記憶が蘇る。
 幹から切り倒したはずの木はまるごと植え替えられ、素知らぬふりで風に両腕を揺らしていた。一方で抜け道として用いた壁穴は未だひっそりと佇んでおり、付近の芝生は踏み荒らされた痕跡を確かに残している。ルクレールと共にその横を通り過ぎながら、ハルミヤは密かにため息をついた。
 エツィラに近付くための手段を求めて王都に戻ってきた、あの日。しかしそれから数ヶ月たった今、彼女の手がかりを得ることは叶わないままだ。
(何のために生きている)
 そうして、何のためにここにいるのか。漏れる声はくぐもるばかりで、自らの耳にさえ届かない。
「ハルミヤ殿」
 かつて逃げ込んだ小屋はルクレールの仮住まいであったのだろう。導かれ、促されるままに、その扉を叩く。軽い足音に続き、意外そうな表情を浮かべて、青年が顔を覗かせた。視線だけでルクレールの姿を認めると納得したように頷く。
「ああ、なるほど、先生の。……ともあれどうぞ。先生も、お待ちしていました」
 呼吸を浅くして、部屋の端に居場所を求める。そのまま唇を引き結べば、「猫みたいだな」とラケイユが笑った。
「そう気を張らなくていいよ、ここは王宮ほど恐ろしいところではないから」
 そうでしょう先生。問いかけに、ルクレールが眉を下げる。
「陛下の庇護下にありながら、その制約に縛られぬ場所です。少々窮屈ではありますが、どうぞおくつろぎください。茶と菓子が必要ですかな」
「……いえ、お気遣いなく」
 扉を閉じれば空気がこもる。わずかに温みを帯びた室内で、ハルミヤはようやく肩の力を抜いた。
 中の様相は以前逃げ込んだときのままだ。最小限にとどめられた家具と、本。目の前を塵が流れていったとしても、主が几帳面なのだろう、埃がたまっている様子は無い。唯一変わった点を上げるとすれば、吊り下げられた乾物の種類と配置ぐらいのものだった。
 時を止めたかのような空間。老いながらも鋭さを秘めるルクレールには似合いの場所だ。彼は戸締りを確認したうえで、古びた椅子の上に腰を落ちつける。
「ラケイユ殿。先ほど陛下がお見えになりました」
「……決断を、と?」
「ええ。非難の文書もひっきりなしに送られてくるようで」
 二対の目が揃って向けられる。用というのはそのことか、とハルミヤはルクレールに一瞥を返した。彼らに限らず、王家につく全ての人間が、ハルミヤとアルヘナの動向に息を詰めているのだ。再び神殿の徒、彼らにとっての敵となるか、あるいは王の手元に置かれた駒となるかを、その目で見定めるべく。
 張り詰めた空気に無言が漂う。それをごまかすように、ラケイユはわずかに口元をゆるめた。
「それで、きみの用件は?」
「たった今解決した」
 あるいは、これから解決するのだ。ラケイユ、と確かめるように口にして、腹に力を込めた。
「お前が、お前たちが、私をどう扱うのか。このまま客人として留め置くつもりでいるのかを確かめたかった。あの女中に聞いても知らぬ存ぜぬを貫くからな」
「……当然だろう、きみに休養をと言いつけてあるんだ」
「必要ない」
 きっぱりと言い捨てる――そう、必要ないのだ。たとえ足が使い物にならなくなっていたとしても、たとえ喀血が止まらなかったとしても、それに情けをかけられるいわれはない。挑むようにラケイユを睨みつけると、さしもの彼も鼻白む様子を見せた。そうして見せつけるように溜息をつく。
「聞き分けのないことを言わないでくれ。ここに運ばれてきたときどれだけ消耗していたか、自分では分かっていないんだろう。体の痣を一度でも数えてみたことがあるのか、裂傷の数は? どうぞ病を起こせと言わんばかりの劣悪な環境にいて、食事もろくに取らされていなかったんだ。処刑場どころか、獄中で死んでいてもおかしくなかった」
「それでも死ねなかった」
 早口に継いで、首を振る。心臓に冷水を注がれたような心地がした。両手の指の先までが冷えていくのを感じながら、ハルミヤは薄く笑う。
「腹を刺されても、殴られても、蹴られても、犯されても、海に沈められても死ねなかった。私は生きているんじゃない、生かされているだけだ。この身が龍の力に耐えきれなくなるまで、死ぬことは許されない……限られた永遠、朽ちない体、それが私だ、それがハルミヤ・ディルカだ」
 傷つけど、失えども、この命ばかりは奪われない。望んで龍の力を得た以上、もはや身のうちを廻るのは赤い血潮ではなくなったのだ。
「その命をどう使おうと私の自由だ。私は私の目的を果たすために生きる、お前にどうこう言われる筋合いは――」
 そこで口ごもったのは、注がれる眼差しに氷柱のような冷淡を感じたためだった。
 水を打ったような沈黙に、青年の嘆息がはっきりと響く。まばたきの後、再び視線を向けられたところで、ハルミヤに続きを口にする胆力は残っていなかった。言葉が漏れないと知るや、ラケイユはいつからか机を叩いていたらしい指の動きをようやく止める。
「ああ、よく分かった」
 続く声は、冬枯れの野原のように暗く平坦だった。ラケイユはぞんざいに前髪を掻く。固められていたはずの髪がほつれ、無造作に額を覆った。影の落ちた目の中、蜜色の瞳は確かに苛立ちを浮かべていた。
「そうだな、俺が間違っていたんだ。放っておけばきみはすぐに危地へ飛び込む、ああ分かっていた、最初から分かっていて何も言わなかったのは俺だ。全面的に俺が悪い」
「……な、なにが言いたい」
 からかっているようには見えない。むしろ露わにされているのは呆れと憤慨だ。うろたえるハルミヤの傍ら、ルクレールは無言で席を立ち、そそくさと寝室へと身を隠す。逃げたのだと悟ったのは、ラケイユが両腕を組んだときだった。
「きみがどう行動し、何を思おうが、見届けるつもりでいた。……けどね。その結果があれで、なおも生き延びたきみがこの有様なら、もう黙って見ているつもりはない」
 ふいに延ばされた手が、ハルミヤの胸倉をぐいと掴んだ。身構える間もなく引き寄せられる。抵抗は許されないも同然だった。鋭い双眸と剣呑な表情とが目前に晒される。
「ハルミヤ。ハルミヤ・ディルカ。――きみの命を、俺にくれ」
 聞き違えたか、と思った。
 しかしラケイユの瞳は神妙なままでそこにある。身動きを取ること、その意志さえもへし折られては、ハルミヤにはどうすることもできなかった。呼吸も忘れ、呆然と口を開く。ラケイユは畳みかけるように続けた。
「その限られた永遠とやらを、きみに残された命を、全て俺が貰い受ける。否やとは言わせない、一度捨てようとしたのはきみのほうだ」
「勝手なことを」
「勝手? さんざん勝手を働いたのは誰だと思ってる」
 急に襟首を解放され、ハルミヤは勢い余って椅子に尻もちをつく。唇をわなつかせても、反論の一つも出てこなかった。よろよろと顔を上げれば、元の通りに髪を上げ終えたラケイユがさっぱりとした表情で待ち受けている。
「……何が、望みだ」
「その答えなら何度も告げた。俺はきみにはなにも望まないし、見返りを求めることもしない。ただ死の瞬間までを共に、それだけだ」
 吸いこもうとした息に、悲鳴に似た声が混じる。座っていなければ膝から崩れ落ちていただろう。ラケイユの睫毛が揺れ、ゆるやかに伏せられるまでを、ハルミヤは瞬きもせずに眺めていた。
「決断もなにもあったものじゃなかったな」
 億劫そうに立ち上がり、ラケイユは奥の師に一瞥を投げる。これで失礼しますと目礼すると、ルクレールはゆるやかに笑んで頷いた。
「ハルミヤ、ほら、きみも来るんだ」
「どこへ」
「決まっているだろう」
 ラケイユが首をかしげる。緋色の石が、その耳元で輝いた。
「所信表明だよ。……俺から逃げも隠れもしないと、公の場で誓ってもらおうか」