天目指す花々は、鉄の靴に花弁を散らされていた。
風はない。鬱屈はうず高く降り積もり、暗雲と化して日の光を遮っていた。壁に、天井に、八方を塞がれるかのような窮屈さが、ハルミヤの呼吸を妨げようとする。廃墟と化した修道院と共に、埋もれてしまえと囁くかのように。
その中で、慎重に息をつく。心臓こそ絶えず脈を刻めども、全身からは急激に熱が奪われていくかのようだった。
「よくぞ戻られました、神子の姉たる娘よ。お懐かしゅうございます」
「クレマン、司祭……」
荒れ果てた地区に集った人々の影を眺め、ハルミヤはようやく悟った。――騙されたのだ。群衆の向こう側、こちらを硝子玉のような瞳でふり返る少女の姿を目にした途端、やり場のない憤りを覚える。
「……クロエに、何をした」
「その名が彼女のものならば、このように。元気でおりますよ」
老いた神官が笑う。散り散りに立つ護神兵たちが、つられて口の端を吊りあげたのが見えた。
「違う」
唸るように否定する。クレマンは目を細め、ほうとこぼした。
「何をもって違うと仰います。あなたのご友人でございましょう」
「違う」
「ならば妹代わり、もしくは家族でしたか。何にせよ、あなたにとってはかけがえのない人間のひとりであったのでは?」
「……違う」
「しかし、ああ、いかに下賤なる輩といえども、人である限り神の導きには抗えなかった! 神に仇なす背信者を引き立てよと、下された宣託には! いかがですかな、神子の姉君、堕ちた娘よ、心を懸けた相手に裏切られる気分は」
「黙れ!」
クレマンや護神兵たちの口をつぐませた怒声にも、クロエの眼差しは微動だにしなかった。まるでよく似た人形を設えたかのように、呼吸をするだけの屍がそこにひとつ。与えられた役割はハルミヤをこの場に導くことのみだ。使命を遂げた今、彼女は思考することさえも許されていない。
肩をわなつかせる。クレマンの瞳には憎悪を向けた。
よく覚えている。彼に与えられた首飾りが呼んだ刺客、その刃、苦痛。平和主義を謳う老人がもたらした災禍を。吐息に怒気を滲ませながら、ハルミヤは両の手を握りこんだ。
「クロエを、唆したのは、誰だ。誰が命じた。誰がクロエを」
一歩、また一歩とクレマンににじり寄れば、護神兵たちは次々に得物を構え始める。その緊張が限界をまたぐ寸前で歩みを止めた。
「何故、巻き込まれなければならなかった。そいつはただの……ただの村娘だ。親兄弟を亡くしただけの子供だ。私とお前たちとの間に、神殿の思惑などに、引きずり込まれるような人間じゃなかった!」
叫びながら悟る。触れずにいたのは、自分だった。
何も伝えず、捕まえておくこともしないままで捨て置いた。全てが終われば、終わった後ならと目を逸らし続けるばかりで、一度として彼女の言葉に耳を貸そうともしなかったのだ。
教えて、と願う声も。
分け合わせて、と祈る声も。
無視したままで背を向け続けた。真実を求めるのは、彼女とて同じことであったというのに。
「もう十分だろう!? クロエを放せ、そいつは被害者だ! 私とは関係ない!」
「無関係と仰るなら」
ふいに、クレマンが声を低くする。暗い視線はよそへと向けられた。その先を追ってハルミヤは首を回し、距離を置いた場所に一人の弓兵を認める。
すでに木製の弓は極限までしなり、弦は張り詰めて悲鳴を上げているる。指のかけられた矢尻が微かに震えた。狙いを惑わす風は止み、行く先を遮るものはない。あるとすれば、それは。
「やめ、」
矢は一直線に放たれた。
クロエの胸に、一本。続き首の裏に、腹に、腰に、四方から矢の雨が降る。苦悶の声も漏らさぬまま、少女の体はぐらりと傾いだ。
受け止める手はない。支える腕もまた。体重に押された矢はより深く胸をえぐり、しかし圧に耐えきれずに根元から折れ曲がった。腰元の花弁は瞬く間に染め上げられ、その場に広がった血だまりは、やがて、乾いた土へと沈んでいく。
はっ、とクレマンが息をつく。それを笑声だと受け取るのに時間がかかった。
「無関係だと仰るなら、無用に過ぎないと仰るのなら、単に切り捨てればよかったのです。あなたが今までそうしてきたように。身に降りかかる襲撃を、その刃もて引き裂いてきたように! その娘は邪魔であったのでしょう? あなたに害なす者の元へと、信ずるあなたを導いてしまうような者であったのでしょう? ならばあなたは他人を伴うべきではなかった。その愚かさに足元を掬われるまで――」
言葉は続かない。
鮮血が散る。続き、切り裂かれた一本の腕が宙を飛んだ。
「あ、あああああっ!?」
クレマンの絶叫がこだまし、周囲の男どもに緊張が走った。彼らをよそにぼとりと草地に落下した片腕は、一度指を曲げて以降はぴくりともしない。それに目を向けることもせず、ハルミヤはゆるりと顔を上げ、クレマンを眼差した。
「……黙れよ」
「あ、あぐ、う、あ……」
軽くなった肩を抑え、クレマンが転げ回ってあえぐ。その泣き声さえも今は耳障りだった。
足を引きずり進む。体勢は不安定に揺らぎ、今にも転びそうだった。弓兵たちが矢をつがえるのを視認しながら、術を紡ぐこともしない。――たん、と。肩に軽い衝撃を受けた直後、稲妻に似た痛みが駆け抜けた。
射手に顔を向ければ、ひ、と悲鳴が上がる。怯えを表情に宿したまま、彼らは首を裂かれてこときれた。
「こ、この、異端者が……っ!」
おぼつかない足取りで駆けだした剣兵の存在を、ハルミヤは歯牙にもかけなかった。勝機に笑んだ男の足も、背後から放たれた飛礫にくじかれる。視界の端ではアルヘナが呆れたように首を振っていた。
「お前の命は私のものだ。棄てるな」
続く護神兵のうめき声に、その声は紛れて消えていった。
頬が濡れる。藍の衣は色を濃くし、黒髪の上をどろりとした液体が伝った。ひたり、首筋に雫が滴ったところで、ハルミヤはそれを拭おうともしなかった。
意識を向けるだけで、風は飛ぶ。首が落ちる。薄い掌に感触を残すこともなく。がなりたてる騒音の中、ハルミヤは確かに答えを見つけだしていた。
(……この、力は)
人を殺すためにあるのだ、と。
腕に力を込めねばならなかったとしたら、この意識もあるいは外へと向いていたのかもしれなかった。しかし手元を離れた龍の力は、いとも簡単に首を折り、腹を裂いて、奥に佇む命を刈り取る。響く断末魔さえ、ハルミヤの耳には届かない。
「ひ、やめ……やめてくれ、いやだっ」
クレマンの傍らに膝をつき、震える彼を見下ろす。青く染まった唇に対し、左肩の断面は歪に赤い。ぼろぼろと涙をこぼす瞳だけが、かろうじて淡い色を留めていた。
(こんな男に)
壊された。全てを。何もかも。
柔和な面差しが神託を告げ、温かな掌が首飾りを託した。色濃い闇を覆い隠して、神の徒として笑んだ彼に。
ハルミヤは彼の首筋に指を滑らせる。喉笛、衣を伝い、胸の上に手を置いた。厚手の布ごしに脈を刻む心臓に思いを馳せる。クレマンが小さく首を振った。
「た、助けて、くれ、死にたくない」
「……痛いか?」
自分で発した問いかけに、ハルミヤは微かに戸惑っていた。クレマンはぽかんと口を開き、それから何度も頷く。上下する首は玩具のようだった。
そうか、と答えて、ほうと息をつく。
「あいにくだが、わたしには法術が使えない」
「な……ほ、法術では、ない? なぜ」
第二の龍の存在を、ディルカメネスの誰もが考えようともしなかった。ハルミヤとてそれは同じだ。その背後で護神兵の法術の気配に反応し、いち早く打ち払ってみせている女が龍であると言って、一体誰が信じることだろう。ハルミヤは眼差しを伏せてかぶりを振る。
「知らなくていい」
あなたが何も教えてくれなかったように。
私が何も、教えてはこなかったように。
彼方から轟く足音に、援軍の到着を悟る。クレマンは希望を露わにしたが、その口が言葉を発する前に、ハルミヤの風は彼の胸を切り裂いた。喜色を浮かべたまま凍りついた表情から目を逸らし、ハルミヤは傍らに転がる少女の元へと這い寄る。
「……クロエ」
とうに心臓は動きを止めているというのに、流れ出す血は止まらない。
けれどもう、命の有無も、突き立った矢にも興味はないのだった。はしばみ色の上に目蓋を下ろし、軽い体を抱き寄せる。麦色の髪には血がこびりついていた。
「ごめん」
届かない。分かっていて、囁いた。
「……ごめん、クロエ」
もしも。例えば。考えることすら愚かしい想像が、頭の中を支配する。過去に立ち返ることができたとして、違う道を見出すことなどできはしないのに。彼女の手を繋ぎ留めておくことも、突き放すことも選べないままだだというのに。
ゆえ、何度も違え、失敗し、同じ末路にたどり着く。
失い続ける。
やがては、別の人間さえも。
「ハルミヤ――!」
誰かの声が耳朶を叩いた気がした。その直後、背に鉛の刃が付き立てられる。骨に達した瞬間に引き抜かれた剣は、燃え上がるような痛みをもたらした。
反射でふり返り、術を組み立てる。しかし手中の風はその半ばで四散した。
「…………ハル、ミヤ、だって?」
掠れた声。男が目を瞠る。瞳の薄青にはハルミヤの姿が揺れていた。
「……バルク」
呟きが声を伴ったかどうかも定かではない。ゆえに、呼んだ、と感じたのは単なる思い違いであったのかもしれなかった。見据えた先でバルクは呼吸を止め、手から剣を取り落とす。金属の振動は、やけにゆるやかに鼓膜を震わせた。
(あ、あ)
力が入らない。指先ひとつ、風ひとつも動かせない。怒号が鳴り渡り、動かぬ体は他人の手に引き上げられる。粗雑な扱いを受けながら、ハルミヤの意識は徐々に融けて消えようとしていた。
(ま、だ、眠りたく、ない)
意志とは裏腹に、思考がふるい落とされる。しかい背中の傷はいつまでも苦痛を叫び続ける。
動くな。この娘の命が惜しくば。抵抗は認めない。異端者め。化け物め。罪は。連れて行け。神殿に。異端者に罰を。厳罰を。罰を。
意味を為さぬ声が拡散される。突き落とされて沈んでいく。
無音の中、ハルミヤは黙って目蓋を閉じた。