クレマン司祭が殺害された。その報せは、神殿や学院を瞬く間に駆け廻った。
 彼の名を知らぬ者であっても、ことの重大性には気付いていたことだろう。司祭を手にかけたのが学院の生徒、それも行方不明であったはずのハルミヤ・ディルカであったというのだから、学院の生徒が不安をちらつかせるのも当然だった。
「どうして今になって」
「王都にはいないんじゃなかったのか」
 憶測が憶測を呼び、下世話な噂が広まる。その大半を占めていたのが、妹が神子の座についたことを妬んだ娘の蛮行、という見立てだった。
(間違ってはいない、が)
 山積みにされた書物を普段通りに検分しては、一冊一冊棚に戻していく。慣れた返却作業をこなしながら、ラケイユは深く息をついた。
(正しくもないな)
 嫉妬などといった感情で動ける人間ではない。彼女を突き動かしていたのは、より単純な恐怖だった。
 彼女は恐れていたのだ。何も知らないこと、知らされずにいることを。たとえ真実がその身を焼いたところで、自ら炎の中へと飛び込んでいくような少女だった。
「……、と」
 棚の隙間を広げようとして、誤って一冊を取り落とす。床を見下ろして思わず苦笑が漏れた。
 今日一日で、本を落としたのは三度目だ。注意が散漫になっているのは明らかだった。そそくさと拾い上げて、とうとう作業の手を止める。
(ハルミヤ)
 その名が口と耳を伝わる傍ら、ひとりの生徒が姿を消していたことに、いったい何人の生徒が気付いていただろう。
 何ともなしに思い返して、あっけなかったな、と呟く。
 イシュティア・ディルカが学院にいたのはおよそ二ヶ月と数日。ハルミヤとして取得し終えた単位と合計すれば、確かに卒業は可能だった。最後の最後で神殿に捕まりさえしなければ、年度末には神官の法衣を纏って学院を出ていく少女の姿が見られたのだろう。
 ラケイユは所在なく棚に触れ、木目に指を這わせる。我が身に立ち返った途端、漫然とした焦燥に襲われた。
(……俺は、いつまでここにいるんだ)
 自分の素性について、口さがない噂が囁かれているのを知っている。卒業を認められねば除籍されるだけの神学院に留まり続ける男子生徒、誰とも触れ合いながら誰にも歩み寄らない青年の噂。正面からの問いかけには返答を避けてきたが、ひやりとさせられる瞬間がなかったとは言い切れなかった。
 いつまでも、は通じない。いつかは出ていかねばならなくなる。学院生としての立場はあくまでも猶予であって、決して逃げ場にはなり得ないのだから。
「ブラン殿」
 学院の教師としての体裁を繕ったルクレールが、神妙な表情で歩み寄って来るところだった。好ましい話ではないな、と判断し、おどけて肩をすくめてみせる。
「まだ整理は終わっていませんが?」
「図書館についての話ではありません。……父君のことで」
 ラケイユは唇を結ぶ。その内心を慮ってか、ルクレールがわずかに声を低くした。
「あなたをお呼びでいらっしゃいます。至急戻られるようにと」
 彼の声を打ち消すように、鐘楼が終業を告げる。学舎はおろか、宿房にも届くのであろうその音色に、ラケイユは無言で耳を澄ましていた。
「……学生ごっこも終わり、か」
 鐘の音を聞くのも最後になるということだ。ぽつりと呟けば、ルクレールは眉を寄せる。
「司祭殺害の件はご存知かと。学院に潜まれるのも、今や危険であるとの仰せで」
「俺の身ではなくて、当人の威信の問題でしょう。神殿にとっても、彼女の捕縛はいい契機――胸を張って学院を捜査するだけの建前になった。俺の存在を晒し上げられれば、いい難癖の種になるから」
「ブラン殿」
「そんな顔をなさらないでください、先生。仰る通りに帰ります。俺だって足を引っ張りたいわけじゃない」
 積んでいた本を受付に戻すと、ラケイユは大きく伸びをした。藍色の法衣が揺れ、窓からの風にひらりとなびく。長らく身に付けていたその法衣にも、もう袖を通すことはないのだと思うと感慨深かった。幼い頃、晴れて学院の門をくぐった時分には、指の先までもが布に覆い隠されていたものだ。
(居つきすぎたな。名残惜しい)
 日が中天に昇りきった頃、もしくは斜陽が室内に潜り込む頃に、不愛想な顔で訪れる影を夢想する。
 協力を申し出なければ、あの少女は最後まで、ひとりで卒業ばかりを目指していたのだろう。差し出した手を取ることもしない彼女のことだ、助力を求めることなどできはしまい。他者を呼ぶ声すら、はなから持ち合わせてはいないのだから。
「所用ができたので、あとはお願いします。……本はあちらに」
「あ、はい、お疲れさまでした。お気をつけて」
 図書室の管理を当番の生徒に任せ、廊下に出る。通りすがりの男子生徒が、物珍しそうにラケイユとルクレールを一瞥していった。
「父はご健勝でいらっしゃいますか。ジュリアンは?」
「ご両人ともお変わりなく」
 ならば今も変わらず、居場所は与えられていないということだ。父親はラケイユを疎んでいる。不要な勉学ばかりにうつつを抜かしているのだから当然だろう。弟ジュリアンもまた、兄を目の上のたんこぶと見做している節があった。
 黙りこんで歩を進める。廊下は無限に続くかのように思われた。
「今朝方、神殿より書状が届けられました」
 足音の合間に、ルクレールが重々しく告げる。案ずるかのような気色に、ラケイユは足を止めた。
「司祭を手にかけた学徒の処刑に参列せよと。神に仇なす大罪人に、大衆の目の前にて裁きを下すとの旨がそこに」
「……そうですか」
 音もなく、表情が抜け落ちるのを感じていた。
 体のいい都合をつけたところで、所詮は見せしめだ。たとえ護神兵を薙ぎ、司祭一人を殺害することができたとしても、待つのは死のみである――そう知らしめるための公開処刑。信奉者は畏敬を持ってそれを迎え、背信者は戦慄に目を背けるだろう。
 鋭く息を吐きだす。嘲笑を形作ることは叶わなかった。
「それが神殿の命なら従いましょう。彼女に価値が見出されない以上は、父が戯れに手を出すこともありえないだろうし」
「よろしいのですか」
 おかしなことを言う。ラケイユは目を眇めた。
 受け入れるか、受け入れられないか。論点はそこには存在しないのだ。虚ろな心地でルクレールに向き直り、強いて唇の端を持ち上げる。
 喉を震わせたのは、他人のもののような声だった。
「……星が、落ちる。それだけのことです」

     *

 肩甲骨の狭間に痛みがある。その一部だけをわしづかみにされ、爪を立てられているかのような、断続的な痛みだった。鏡や窓のない状況では背の様子を知ることも敵わないが、おそらくそこには、一度焼けただれ、今は黒ずんで硬化した皮膚が残っているはずだ。
 掌ほどの大きさの焼き痕。異端者の烙印の痕。それは神殿の下層に引きたてられたハルミヤが、始めに受けた罰であった。
 焼きごての熱に気を失うことができたのは、むしろ幸運であったのだろう。気付けばハルミヤは懲罰房に投げ込まれ、石を敷き詰めただけの床に転がされていた。その後数日は失せぬ痛みと発熱とに苦しむことになったが、二週間もすれば起き上がれるほどには回復した。体を起こせたところで、両手足を鎖で繋がれている有様では歩きまわることもままならなかったが。
 すえた臭いのする独房でこんこんと眠り、あるいは壁に体を預けて茫洋と意識を保つ。そんな日々が、もうどれだけ続いているとも知れなかった。食事の回数を数えるのには飽きが回り、日付の感覚は曖昧になっている。今はただ、絶え間なく格子の間から忍びこむ冷気が、冬の永らえを報せるのみだった。
 石床の硬さを頬に感じながら、ハルミヤは薄く目を開く。かすむ視界に人影はない。
(喉が、乾いた)
 口からひゅうと空気が漏れる。与えられる食事と水は日に一度だけだ。餓死させるつもりはない、という意志は悟れたが、罪人を人として扱うつもりがないのだということもまた確かに感ぜられた。
(痛い)
 神殿の法規上、罪人への私的な干渉は禁じられている。しかしその規則も、暗黙のうちに破られているというのが実情だった。
 絶えぬ暴力に脅かされ、日に日に傷が増え、体は重くなっていく。いつかのような治癒は働かず、銀龍の力の一端も感じ取ることはできなかった。だが今もうごめく心臓だけは、アルヘナの生存と契約の存続をハルミヤに伝えてくる。
(……そうか)
 傷が癒えようとしないのは、自分が生を望んでいないからだ。
 ハルミヤの意志とアルヘナの命が契約を繋ぎ、力の疎通を可能にしている。ならばハルミヤが死へと向かおうとしている以上、苦痛が抜けないのは当然のことだった。
(ああ)
 息を吐き、おもむろに掌をかざせば、痣と切り傷に覆われ、かつ数月前より随分と骨ばった指がそこにあった。視線を下ろせば青痣は点々と腕を伝い、薄布に覆われた胸や腹にも及んでいる。学院の法衣は初日に取り上げられていた。罪人用の襤褸切れのような衣は主の体温を守る役割さえ果たさず、惨めさを味あわせるだけだ。冷気はどこからでも潜り込み、ハルミヤの身を浸食する。
(もう)
 身じろいで、膝を抱え込む。まとわりつく鎖の音にももう慣れた。赤い錆、床の染みを汚らしいと感じる分別も失せている。目蓋を下ろして、無理やりにでも眠りに就こうと試みる。
 しかしハルミヤの苦闘は叶わなかった。沈みかけた意識と目蓋は、軋む鉄格子の音に持ちあげられる。終わらぬ夜の訪れを察し、ハルミヤは諦念を瞳に浮かべた。
(十分、じゃないか)
 暗澹とした廊下に影を認め、身から力を抜いていく。かつてのように、身分を推察する気力は湧かなかった。相手が護神兵であろうが神官であろうが同じことだ。胸倉を掴みあげられれば、やせ細った体は軽々と宙に浮いた。
「ディルカ」
 そうしてくり返される呪いの名に、ゆるゆると目を閉じる。
 反抗は意味を為さない。――今すぐにでも眠ってしまえたら、と思っていた。