鈍い切っ先が空を切る。右肩から左足へ向かい、何度も、くり返し。その度に銀色の軌跡は弧を描き、滴る汗が地面に滲んだ。
 宿房の外れ。ぽっかりと空いた敷地の中で、ハルミヤは刃のない剣を握っていた。女生徒の使用を想定した模擬剣は軽量ではあるものの、細腕には馴染まない。上腕の引きつった痛みを無視し、足をふらつかせながらも、ただ剣先を振り上げ、振り下ろす。重みに耐えかねて剣が抜け落ちたところで、舌打ちをして手の汗を払った。
「講義とやらはいいのか」
 投げやられた声に、剣を拾いあげてから顔を向ける。アルヘナの無表情を確認してから首を振ってやった。
「昨日で試験が終わった。もう出る必要もない」
 卒業認定に必要とされる学位は取り終えた。あとは時期を待ち、院長から個別に与えられる卒業資格を受け取るだけだ。
 学院を卒業し、神殿に。かつて思い描いていた通りの道のりだった。生まれも育ちも意味を為さない世界、国家の中核へと召し上げられることを、望んでいたはずだ――だというのに。
(感慨もなければ、達成感もない)
 柄に触れた掌に汗が滲む。まるで喜べないのは、なるべくしてなったという思いが抜けないからだ。導かれるまま、促されるままに、用意された道筋を辿ることへの違和感が拭えない。苛立ち紛れに剣で大地を突いたところで、なまくらな切っ先はわずかに地表を削っただけだった。
「クロエの様子は」
「昨日の通りだ」
 ハルミヤは小さく息をつく。クロエが目を覚まさなくなってから、もう一月が経っていた。
 異変を感じたのは、彼女が宿房に戻ってきてから二晩をまたいだころだった。水も食事も摂らず、便に出向くこともないというのに、容体には全くの変化が見られない。まるで彫像が呼吸をしているかのように、変わらぬ姿で眠り続けているのだ。
 クロエが姿を消し、リディに連れられて戻ってきたあの日。命龍の力をもって、彼女の体にはなんらかの処置が施されたのだろう。しかし原因は知れぬままだ。リディを問いただすことに失敗して以来、彼女は忽然と学院から姿を消していた。同居人であるところのコレットに訊けば、急用ができたと言って王都を出ていったという。
「くそ」
 無意識に発していた緊張と倦怠感とは、ハルミヤを完全に周囲から切り離した。以前のような孤立を求めていた部分もあったのだろう、呼吸は幾分か楽になったように思えた。一方でひっきりなしに湧きあがる疑念、不安、後悔は、落ちついたハルミヤの頭を端から塗り潰そうとする。
「……村に、残していくべきだったのか」
 呟かずにはいられなかった。銀龍が睫毛を揺らすのを視界に捉えてはいたが、彼女に語りかけているつもりはなかった。
「クロエの事情に介入しないまま、村を出ていたとしたら。あいつは、ああして眠りにつくこともなかったんじゃないか」
 ふん、と、鼻で笑う気配に、ハルミヤはアルヘナへと一瞥を向ける。嘲笑の残滓を取り繕うこともせず、彼女はハルミヤを眺めていた。
「人が別の可能性を語るのは、それを試すだけの時間が与えられていないからか? それとも、悔いを抱え続けながら生きたとて耐えきれるだけの死の近さゆえか」再度目を細め、首を傾げる。「馬鹿げた問いだよ、ハルミヤ。お前のそれは、人にとっても、我ら龍にとっても、無意味なものでしかない」
「……分かっている」
 分かっていても、やりきれないのだ。
 剣に圧しかかるようにしゃがみ込み、腹の底から空気を吐きだす。間近に光る刃には自分の顔が映り込んだ。揺らぐ瞳、下を向いた口角と、眉尻。ほんのひとときぐらついたが最後、少女の姿は光に消えていく。
「待っていたよ」
 アルヘナが呟いたのは、その直後だった。
「あれは毎晩待っていた。お前が帰ってくるまで、一睡もせずに。口をつけられるとも限らないだろうに、飽きもせずに食事を作って、だ。愚かだろう? お前はそれを愚かと称する娘だ」
 ハルミヤが沈黙を保つと、銀龍は微かに表情を緩めた。
「だがな、ハルミヤ。私は学ばされたよ。無駄だと知りながら望みをかけ、そうして己を慰むのが、人という生き物なのだということをな。この地に人を引き連れてきたあの娘も、人に傾倒した我が同胞も同じことをした。一分の躊躇も、後悔をするそぶりも見せずに」
 愚かなことだ。繰り返し、韻を踏むように口ずさんで、しかしアルヘナは瞳を細める。彼女の横顔は花弁の中に蝶を見出した子供や、幼子を抱いた母のそれにも似ていた。
 その表情に、にわかに苛立ちを覚える。ハルミヤはついと顔をそむけ、剣を杖に立ち上がっていた。
「龍に人のあり方を説かれるとは思わなかった。お前もかぶれたな」
「かぶれた、か。ならばお前はどうだというんだ」
 思わぬ切り返しだった。横目でアルヘナを窺えば、試すかのような笑みの気配がそこにある。
「……何が言いたい」
「そのままの意味だ。人であれず、龍にもなれず。お前はどこへ向かっている?」
 聞き覚えがある、と感じた途端、眼前の白皙がぶれる錯覚を覚えた。そこに重ねられたのは、憐れむように笑んだ少女の表情だ。
 ――その証拠にあなたは、みんなを信じきることも裏切ることもできないでいる。
 龍と人、形は違えども、彼女らの言葉が示す先はひとつだった。
(私が、迷っているとでも)
 疑いかけて、すぐに首を振って打ち払う。迷う要素などどこにもないのだ。襲撃を受けた理由を知ること、エツィラと言葉を交わすだけの機会を得ること、そのために学院を卒業し、神殿に入る大義名分を得ることこそが自分の目的で、一度として道を見失ったことはないのだから。
 答える必要もない、とハルミヤは素振りを再開する。アルヘナは何事か言いたげな視線を投げかけていたが、やがてそれにも飽きたのか、壁に背を預けて目を閉じた。
 取り戻される、無言、静寂。好奇も嫌悪も介在しない、ひとりの世界。ひとりだけの世界。
 叶うなら、そんな世界で生きたいと願っていた。何者にも触れられず、害されない場所で、せめてこの心臓が蝕まれて息絶えるまでは、穏やかに暮らしてゆければと。そう願ったのは何故だったのか、今ではもう思い出すことも叶いはしないが。
 腕を止めて、剣を振るう行為の無意味さを悟る。垂れ下がった腕のもとで、刃は眩く光を照り返した。
 ハルミヤの元に剣を運んできたのはセルジュだ。卒業まで何もせずに過ごすのでは退屈だろうから、と述べた彼の口調には取り繕うような響きが隠されていて、彼なりにハルミヤとの距離を押しはかろうとする様子が窺えた。突き返すこともせずに持ち帰ってきてしまったことも、言われるままに素振りをくり返していたことも、誰に強制されたわけでもない、ハルミヤ自身が選んだことだ。
「剣などいらないというのに」
 剣も弓も、龍の力の前には無用のものだ。鉄の塊を振り回さずとも、今までそうしてきたように、一陣の風を掴んで刃に変えてしまえばいい。セルジュとて理解しているはずだ。
 それでも彼は剣を運んできた。まるで、ハルミヤを人の型に押しとどめようとするかのように。
 馬鹿馬鹿しいと思いながら剣を握る、その、矛盾。リディによって幾度となくくり返された言葉が、耳の奥にこだまするかのように思われた。歯を噛んだハルミヤに、溜め息の音が届く。
「人が剣を握るのは、命を奪う感触を忘れずにいるためだそうだ」
 瞳を閉じたまま、アルヘナは億劫そうに首を傾ける。ハルミヤの注意が向けられたことに気付いているのかいないのか、その唇は閉ざされたまま動かなかった。
 受け売りだろうと推測する。かつて剣を握っていた誰かが、アルヘナにそう告げたのだ。人に近づくことを好かない龍に言葉を届けられる者がいたとすれば、それは初代の神子以外にありえない。彼女もまた武の者であったということだ。
(人としての神子、か)
 神子に人ならざる力を与えた龍と、彼女を至高の存在とした神殿。人に生まれ、人を守りながら、自らは人から切り離されたひとりの娘。図書室を探れば英雄譚のひとつやふたつを見つかることは容易いが、彼女の惑いを示す書物は一冊たりとも残されていないだろう。
 知るは龍のみだ。ハルミヤは素知らぬ顔で佇んでいるアルヘナを見やり、無意味だと悟ってかぶりを振った。
「もう十分だ。気が削がれた」
 右腕に触れれば、酷使した筋肉は悲鳴を上げていた。模擬剣を引きずるように携えて、宿房に戻るべく足を鞭打つ。思いのほか疲労がたまっているようで、意識しなければ顔を上げてもいられない。弱った姿を人目に晒してなるものかと、背筋を伸ばす。
 ゆえに、はしばみ色が揺れた、と思ったのを、一瞬の見間違いと断じることができなかった。
「クロエ?」
 麦の束が跳ね、走り去っていく。視界の彼方、宿房の門へと。その影が角を曲がった段階ではっとした。
「……待て、クロエっ!」
 軋む足に無理を強いて、ありったけの力で土を蹴った。異変に気付いたアルヘナが黙々と後に続くのを感じながら、豆粒のようなその姿を追う。
 ――落ちていく心地がしていた。
 誘われ、導かれ。暗闇の奥底へと、沈められていくような。