外してしまった眼鏡が、懐で微かな音を立てている。
学院長に譲り受けた、硝子の厚みの割には度の弱い逸品だ。鼻に負担がかからない程度の重みに抑えられたそれは、出すところへ出せば多少値が張るものであるらしい。とはいえ本来視力の矯正を必要としないハルミヤにとっては、距離感を曖昧にする障害物に過ぎなかった。縄を断ち切ろうとして指を裂いてしまうのでは本末転倒だ。
ともあれ、足音に耳を澄ます限り、どうやら首尾よく逃げだせたらしい。粉塵の向こうに消えた学徒の影を見送って、ハルミヤはひとつ息をついた。
(あとは)
追う者がいるようであれば、昏倒させる。そのつもりで男たちを睥睨したが、誰ひとりとして動こうとする人間はいなかった。人質に逃げられたことに気付かぬわけでもあるまいが、とハルミヤは唾を飲み込む。
「派手にやってくれる」
奥に立つ男が、一度壁の穴を見やって首を振った。
猫のような男だ。細身ではあるが、ひ弱さを補って余りある狡猾さを感じさせる。ハルミヤに睨まれても動じる様子は見せず、むしろ想定外の事件を楽しむかのように目を細めていた。
「今のは法術か。命龍の護符だなんて、学院の生徒が持つような代物じゃないだろう。どこから手に入れた?」
「話してやるとでも思うのか」
「ああ、そうだな。俺たちがきみに何かを強制することはできない。……だが、逆もしかりだ。そうだろう」
脇に立つ男たちが殺気立つ。ハルミヤは緊張を研ぎ澄ませながら、彼らとの位置取りを確認し直していた。男は膠着した状況を確認すると、喉の奥で笑う。「やめときな」という諫言は自身の仲間に向けられたものだった。
「俺たちがかかったところで、怪我するだけだよ。なにせ壁をぶち破るほどのお嬢さんだ」
石片はあちこちに散乱し、形を保った石壁もまた生々しい断面を露呈させている。周囲の人間が誰ともなく緊張を露わにするのを見やり、ハルミヤはわずかに力を抜いた。同時に、奥の男が首領格であることを認識する。
「分かっているなら、大人しくしてもらおうか。こちらには訊きたいことがある」
「訊きたいこと? 俺たちみたいなチンピラ上がりにかい」
「だからこそだ、街には詳しいだろう」
彼女に直接の関わりがあるとすればなおのことだ。心中で呟いて、続ける。
「私たちは人を探している。同じ学院の生徒だ」
肩までの茶髪、細身の娘。青い瞳の内気そうな少女。特徴を上げれば、男は束の間、思い浮かべようとするようにそらを見た。知らないな、と首を振る表情に演技臭さはない。
(はずれか)
行き違いになった可能性も考えられる。一度宿房に戻るべきか、と胸に決めて、再び男に立ち直った。彼は先の不遜さを取り戻し、大げさなそぶりで肩をすくめる。
「質問は終わりかな。それじゃあ、俺たちはそろそろおいとまするよ」
「馬鹿か、許すはずがないだろう」
「俺たちをとっ捕まえようって? それこそ馬鹿な話だよ、お嬢さん」
ハルミヤが眉を跳ね上げる。男はにやりとし、背後の大穴を指さした。
「こんなところで悠長に喋っていていいのかい。早く追いかけてやらないと、彼ら、次は誰に襲われるとも知れないよ」
「……脅しのつもりか」
「事実を言ったまでさ。今度こそ人攫いに会うかもしれないし、もしかしたら殺人鬼が徘徊しているかもしれない。きみたちが思う以上に、王都は怖いところだからね」
有り得ないと切って捨てることもできず、沈黙する。人質を助け出した後のことはラケイユに一任していたが、彼とて一般の学生であることに変わりはないのだ。護符を持っているわけでも、剣を手にしているわけでもない。
ハルミヤ自身、大手を振って街を歩ける立場でないこともまた確かだ。彼らを捕らえたところで、引き渡すべき対象が思いつかない。迷いを見抜いてか、男はぴんと指を立ててみせた。
「見逃してくれるなら、俺たちも今日のことは忘れるよ。あとはお互い、何も言いっこなしだ。どうだい」
追及も報復も禁止、ということだ。最良の幕引きではないが致し方ない。長く黙りこんだ末に、ハルミヤは「分かった」と頷きを返した。
男がよしよしと笑い、両掌を高らかに打ち合わせる。
「そういうことだ、ほらほら野郎ども、さっさと逃げろ! 仕返しなんて野暮な真似はするなよ、さっきの子供たちとこちらのお嬢さんに手を出そうもんなら、二度と朝日は拝めないと思いな!」
散り散りに倉庫を離れていく彼らを、ハルミヤは渋い顔で見送った。一言礼を言って逃げていく者もいるのだから苛立ちも削がれるというものだ。件の男がひとり居残り、壁に手をついたまま立ち止まるので、ハルミヤは早く行くようにと顎を振る。男は「最後に一つ」とハルミヤを指さした。
「きみには銀の髪のほうが似合っていると思うよ。餓鬼のときみたいなね」
「な……はあ!? おい、お前っ」
「お互い何も言いっこなしだ。約束しただろう? それじゃあ元気で、ハルミヤお嬢さん」
呼び止める暇も与えず、彼は闇の中へと消えていく。取り残されたハルミヤは一度だけ壁を殴りつけ、毒づいてから走り出した。
名を知られていた。顔も、そしておそらくは自分の幼少期も。ハルミヤ自身には彼についての記憶など欠片もないというのに、だ。いつ、どこで、と思い返そうにも、蔑視された過去に無意識が鍵をかけるのか、孤児院にいた頃の光景は曖昧だった。
(なんだって言うんだ)
自分の預かり知らぬところで、他人が自分を見ている。行動を、生きざまを。――それがたまらなく、不愉快だった。
*
「逃がしちまってよかったのか」
問う声に、いいんだと手を振った。言葉の差す先が勇敢で怖いもの知らずな少年たちでも、不愛想な顔で彼らを助けに来た少女でも、返答の中身は同じことだ。
「俺たちのことは知らなかったみたいだし。ちょっとからかってやれたから、俺はそれで十分」
「はあ、そうかい」
傍らの男が息をつく。そのまま無精ひげをかいてそっぽを向いた。
定期的な収入が入るようになったのだから身だしなみには気を使うよう言い聞かせているにもかかわらず、彼は頑として譲ろうとしなかったのだった。そのままでは仕事相手に怖がられるのではと考えていたが、思いのほか子供受けはいい。世の中何が好かれるか分からないものだった。
(まあ、強面の奴がいれば便利だろうさ)
脅かしてやる方が、物事がうまく進む場合もある。生憎今回は逆効果だったらしいが。腰に手を当てて、王都では珍しくもない澄んだ空を見上げた。
「楽しそうだな」
無意識に吊りあがっていた口角を指摘される。片手で揉みほぐしながら、傍らに座る男を見下ろした。
「素晴らしい見せものを、三つ一気に見た気分だからね」
「可能なのか、それは」
「それぐらい楽しかったってことさ」
そうか、と低い声で相槌を打たれる。それ以上を追及しようとしないのは、続く独り言を聞いてやる姿勢の現れだった。彼とは物盗りをしていたころからの付き合いであるが、どうやらすっかり聞き役に慣れてしまったらしい。
周囲に他の仲間の姿はない。四方八方へ逃げ出した末、それぞれに仮の宿を見つけているのだろう。結局廃屋へ帰ってきたのは自分と彼ぐらいだった。
壁に腰をつき、そのままずるずると腰を下ろす。不思議と気分が高揚していた。
「あのお嬢さん。俺の、初仕事の相手だ」
息を詰める、気配がした。仏頂面を壊すことには成功したらしい。したりと薄く笑った。
「綺麗な髪の赤ん坊だった。神殿の脇道に捨ててあったもんだから、どうにも目について、拾ってやったんだ。あとは……ほら、分かるだろう」
「まあ」
「今なら受け渡してハイ終わり、と行くけど、あの頃の俺は心配性だったんだろうな。あの餓鬼が孤児院に入れられてからも、暇を見つくろっちゃあ様子を見に行っていた。まあすくすくと育つもんだよ、子供の成長ってのはこわいこわい」
おどけて身を震わせてみても、冷めた視線が向けられるだけだ。つまらないねえと首を傾ける。
あぐらをかいていた男が「それで」と促した。普段なら続きなどせがまないというのに、珍しいことだと目を閉じる。
最後に孤児院を訪れたのは十年以上も前のことであったが、箱庭じみたその光景は、昨日のことのように思い浮かべられた。鈍色の景色に、煌めく銀の髪。声を殺して泣きじゃくる、少女の姿、湿った地面。同じ境遇の人間を相手にしても、弱者であり続けることしかできなかった子供。
(馬鹿だなあ)
せっかく拾ってやったというのに、この世のすべてを敵に回したような顔をして。挙句自分を雁字搦めに縛りつけて、逃げ道を失って、細い糸に縋りついては泣いている。その先にあるものが希望であるとは限らないというのに。
――そう、自分は知っている。天井から吊られた糸が、誰の手に繋がっているのかを。だからこそ彼女の妄信を、愚かしいと思わずにはいられないのだ。
「……まあ、あとは成長して、どこぞに引き取られるか奉公に出るかだろうと思ったからさ。眺め続けるのにも飽きて、それっきりだよ」
声色の変化を悟られただろうか。わずかな間があって、男が小さく唸る。
「それが今日、目の前に現れたというわけか」
「ほんっと驚いたよ。べっぴんに育ったものだよね! ああなると知っていたら手元に置いておいたのに」
「馬鹿か」
昔語りはそれで終わりだと思われたらしい。ため息を伴い、男の注意が離れていく。それを引き止めるつもりは微塵もなかった。
「でもさあ」
ゆえに、ぽつりと漏れたのは、ただの独り言だった。寄せられる目を待つこともせず、はるか上空に光る星に問いかける。
「美人なのは昔からなんだよ。あの子供はちっとも、ほんのこれっぽっちも、変わっちゃいない。あの目、あの顔、餓鬼の頃と同じだった。十数年も生きてそのままだったんだ、これからも変わらないだろうし、変われない」
「……あの娘も若かっただろう。変わろうとすれば、今からだって」
「お前は優しいなあ」
本心からの言葉だが、揶揄と取られたらしい。男の眉が寄って、たちまちに獣のような顔に変わる。真剣に取り合ってもらえないのは損だな、と考えながらも、口から漏れたのは失笑だった。
「どんなに外見を整えて、言葉遣いを取り繕ったところで、俺は所詮ならず者崩れだろう。それと一緒だよ」
擦り込まれた思想は鋳にかけられた鉄と同じ。一度形取られてしまった以上、再び鋳溶かすことは敵わない。許されているのは、削り、磨くことだけだ。それも、自分の形に向き合わぬ限りは敵わないだろう。
頑なな娘に思考を傾け続けることに、もう意味は見出だせなかった。早々に頭を切り替えて、視界の端に捉えただけの青年の姿を思い出す。暗闇の中でさえ気高く映える、金の瞳、髪。――与えられた情報に偽りが無ければ、彼は。
(国が変わるのは、……案外、俺の生きているうちかもしれないな)
十人単位の男どもを脅かした少女と、かの青年。彼女らの臆病が、なりふり構わなくなったとしたら、あるいは、と。
(そうしたら、鞍替えも考慮に入れないと)
強い方の膝下に。下賤な者どもは、そうして食いつないでゆくほかないのだから。ひとりでに漏れる笑いを抑えきることができず、辛辣な視線を向けられる。
空を遮る雲は無い。瞳を翳らせる天井もまた。ただ遥か遠く、冴えた月と星とが、色を変えることもしないままで寂れた廃墟を見下ろしていた。