「あんたは何を知っているんだ」
ぶしつけな問いかけに、感じたものは憐れみだった。
漆黒に晒された夜風は、まだ、冷たい。皮膚を裂きそうな冷気に包まれながら、ラケイユは青年を見つめ返していた。
(何を)
知っているのか、と問うたのだ。彼は、自分に。
「きみに明かされていないことを」
感情を失くした声はするりと口を飛び出した。その空虚な響きと、言葉の中身は、いたく青年を激昂させたらしい。セルジュ、と彼の友人が叫ぶ、と思ったときには胸倉を掴み上げられていた。ぐらりと揺らされた頭が背後の壁を叩き、遅れて痛みがやってくる。
見れば、青年の歯は小刻みに揺れている。瞳には灼熱をたぎらせ、親の仇に挑むかのようにラケイユを睨み据えていた。
「なんだってそんなに平然としていられるんだ。あいつのこと、囮にしたんだぞ……あんたも、俺も!」
わずかに戸惑って、彼はハルミヤの術を目の当たりにする機会がなかったのだと思い至る。ハルミヤを相手に数は問題にならない。どれだけ腕の立つ人間がいたとて、近距離に持ち込むことしか脳が無いのであれば、法術以上の力を操る彼女に敵うはずもないのだ。
隣国がディルカメネスに手を出せなかったように――王家が、神殿に手を出せなかったように。ラケイユは小さく咳き込んで、眼下の青年を見据えた。
「俺や君が手を貸したり、先生や護神兵を呼びつけたりするより、彼女が一人でいたほうがよほど安全なんだ。壁に大穴を開けたのを見なかったわけじゃないだろう? それともきみは、また人質にされたいのかい」
青年の顔が曇る。法衣を掴んだ手が離れ、下ろされていった。彼にも助けられた自覚はあるのだろう。その後ろで、少女が唇を噛みしめていた。
(……参ったな)
萎れた表情を生みだしているのが自分だと気付くと、途端にむず痒さに襲われる。彼らを叱りつけるのも、たしなめるのも、あのつっけんどんな少女でいい。彼女の言った通り興味本位で同行しただけの自分に、彼らを責める資格などないのだから。
どう切り上げたものか。迷って、他所を見つめる。青年が頭を上げたのは、そんな居心地の悪い沈黙の後だった。
「分からない。俺たちは知らないんだ、イシュティアのこと、何も。いくら踏み込もうとしても、あいつはすぐに逃げていくから。……あんたは俺の知らないことを知っているって言った、それじゃあ」
紺碧の瞳に、星が光を落とす。その眼差しは、胸倉を掴んでいた手よりきつく、ラケイユの心臓を締め上げた。
「あんたなら、あいつの力になれるのか」
ひととき、言葉に詰まった。ラケイユの口は一度だけ開いて、結局無言のままで元の通りに閉じられていった。
「もうこんなことにならないように。あいつが独りにならないように。あんたなら、それができるのか」
「……俺は」
煙に巻くことは容易いはずだった。しかし凍りついた舌はほんの少しも回ってくれない。
彼は、イシュティアを知らない、と言う。初めに浮かんだのは憐れみだった。己の無力への憤りを、彼もまた抱えているのだと気付いたためだ。しかし憐憫は廻り廻って自分の元へ立ち返り、その臆病へと帰結する。
――頼むから。
消え入りそうな声で、青年が呟いた。
「頼むから、傍にいてやってくれ。置き去りにしないでやってくれよ」
懇願に了承を返すことはできなかった。知れず握りこんだ指先が、掌の皮を刺す。
彼女が空を駆けるなら、自分はいつまでも地の上から、軌跡ばかりを眺めているのだろう。手を伸ばせど触れられるはずのない彼方、孤独な片星が、自ら助けを拒み続ける限り。跳ね除けられると分かっていて、歩み寄ろうとは思わなかった。
(俺よりも、よほど)
自嘲する。自分がどれだけ言葉を尽くそうと、所詮は戯言と唾棄されるのだ。本名を知らないはずの彼の声が、ハルミヤの胸を深く突く一方で。
「きみたちが、友達でいてやった方がいいんじゃないか」
弾かれたように眉を跳ねあげた青年に、苦笑を返してやる。
「彼女がひとりだと思うなら、きみたちが傍にいてやるといい。……幸い、彼女はまだここにいるんだ」
真面目な少女のことだ、単位を取り落とすことなど万に一つもあり得ないだろう。ならば卒業は今期、あと二月と先の話ではない。
常通りの調子を取り戻すラケイユの前で、青年は見る見るうちに顔をしかめていく。
「ちゃんと話したのは今日が初めてだけど。すげえ腹立つな、あんた」
彼はそのまま身を放して、深いため息をついた。
「人のことを煽るだけ煽っておいて、自分では何もしないんだ。ただ丸腰でつっ立っているだけ。それじゃあ殴る気にもなれやしない」
「……そうかな」
そうだよ、と頭を掻かれる。青年は傍らの友人たちに先に行くよう伝えると、最後にラケイユをふり向いた。表情を引き締めて、唇を開く。
「あんた、何がしたいんだ。他の誰でもない、あんた自身が望むことって何なんだ」
長い無言を置いても、ラケイユの口から答えが吐き出されることはなかった。遠くを行く友人たちに名を呼ばれ、青年は渋々といった様子でラケイユに背を向ける。躊躇するような間があって、やがて足音が離れていった。
(……俺がしたいこと、か)
目的を問われたのは、今日のうちに二度。しかしそのどちらにも明確な答えを返さないままで、自分は一人、ここに立っている。宿房へと向かう青年たちの背を眺めながら、ラケイユはゆるゆると目蓋を下ろした。
(したくないことなら、いくらでも思いつくけれど)
学院に留まり続けるのもそのためだ。自分の行く末から逃げて、決断を遠ざけて、いつまでも子供でいられる場所で、足を止めている。
ラケイユは踵を返し、帰るべき場所へと爪先を向ける。自分がひとりで歩いているなどと知れれば、いつ命を狙われないとも知れないのだ。危機感は覚えても足を急がせる気は起こらず、遊ばせるようにゆるやかな歩みをくり返す。辿り着きたくないと願う自分の幼稚さが垣間見えれば、笑わずにはいられなかった。
(……ああ、だからか)
がむしゃらに走り続ける姿に惹かれるのも、目を放すことができないのも、彼女がいっそ痛々しいまでに、霧の向こうを目指そうとするからだ。苦痛を伴うと知っていて、なおも一心に。
「あいしている」
唇に乗せて、首を振る。なるほど嘘臭いな、と、思わずにはいられなかった。
*
何かが違う。
クロエがそう感じ取ったのは、帰ってきたハルミヤが、法衣も脱がずに寝台へと身を投げ出したからだ。
どんなに疲れた顔をした日であっても、彼女はその衣だけには気を使う。しわが刻まれること、ほこりが付くことを、何よりも恐れているかのように。それも当然のこと、学院の生徒にとって、法衣を身に付けるということは確かな誇りの証だ。卒業までの日々を共にする衣服に、ほんの不注意で傷をつけたくはないだろう。
しかしこの夜、彼女は無言のままで寝台に転がった。ハル、と声をかけてみても、指の一本も動かそうとはしない。机の上に置かれたままの食事から湯気が抜けていくのを、クロエはため息で見送ってから立ち上がる。
「ハル、……ねえ、ハル。ご飯」
「いらない」
「昨日も抜いたじゃない。倒れちゃうよ」
沈黙が答えだった。クロエはしばらくハルミヤの寝台の横にしゃがみ込んでいたが、起きる気配が無いと悟ってうなだれる。
「……ハル、どうしてそんなに苦しんでいるの」
堪えていようと決めていたはずの言葉が、ぽろりとこぼれる。
いつか自分から話してくれるまでは、と思っていた。しかしハルミヤは、頑なに肩の重荷を下ろそうとしない。数日、数週が過ぎても、変わらず口をつぐんだままでいる。
(近付けたって、思ったのに)
妹の存在を知らされたとき、それが傷つける結果に終わったとはいえ、彼女の辛苦を少しでも分かち合えたと感じていた。表情に見せた陰り、怯え、そのいくつかに触れられたつもりでいた、それなのに。
唇がひとりでに震えだす。噛みしめて、息をついた。
「ハル、知りたいよ。あなたのことを教えてほしい。……ひとりじゃないって、分かってほしい」
壁を叩いた言葉が、そのまま自らに返ってくるかのように思われた。何も言わないハルミヤは、しかし眠っているわけでもないらしい。不規則な呼吸をくり返しては身を縮め、腕の中に顔を埋める。その姿はまるで赤子のようだった。折れた四肢は頼りないほどに細く、クロエに確かな不安を呼び起こす。
「逃げたっていい、救われたっていいんだよ。無理をして学院にいるより、そのほうがずっと」
「クロエ」
唐突にハルミヤの手が伸ばされる。探るように空気を切って、クロエの頭の上に落ち着いた。二度、落ちつかせるように軽く叩いた後で、再び動きを止める。
「終わるまで待ってほしい。……それまでは」
(……ああ)
掌は冷えきっている。髪を裂いた指先は氷のようだった。クロエに顔を向けるでも、乗せられた手を動かすでもなく、腕はいつしか元の通りに離れていく。だというのに、触れられた、それだけで涙がこぼれそうになる。耐えきれずに嗚咽を漏らして、鼻をすすった。
拒絶、だった。知らないままでと棺の蓋を閉じられたのだ。知ってしまえば立てなくなる。どうしてと問うことさえ許されないのでは。
ハル。唇を動かしても声は出ない。けれどその名をなぞるためだけに、何度でも口にした。音なき慟哭は、涙ばかりを振り落とす。
(私じゃ、駄目、なのかな)
立ち上がることもできないで、微かな嗚咽を漏らす。顔も知らない相手のことが、今はただ羨ましかった。