建物の影に隠れ、息を殺して後をつける。コレット、セルジュ、ダヴィドの三人は、手首を結ばれ、轡を噛まされた状態で歩かされていた。視界に入るだけでも犯人の数は六人、向かう先には他にも仲間がいるのだろう。
「麻薬の方かな」
人攫いにしては手際が悪い。意識を残したまま歩かせるようなことはしないだろうし、とラケイユは小声で続ける。飛び出そうとしたハルミヤを一度制した名残で、その片手は横へ伸ばされたままだった。
「あれだけ探して見つからなかったんだ、お嬢さん方の探し人も巻き込まれているかもしれない。だったら彼らの拠点を暴きだすのが先だ。人数が増えたところで、きみにとっては違いのうちに入らないだろう?」
港町での独壇場をよく憶えているのだろう。渋々了承を表してやると、彼は短い頷きを返した。
地理の把握はラケイユに任せ、ハルミヤは前を行く学徒たちに集中する。手首を縛られているだけで、暴力を受けた形跡は伺えない。大人しくしているようにと促されたのだろう、足取りは重いものの、反抗する様子は見せなかった。
ハルミヤの呼んだ大人が駆けつけると信じているのか、逆らったところで得はないと悟ったのか。連れ去られた先で、無事に済むとは考えていないだろうが。
(……早く、)
辿りつけ。すぐに。彼らの行動が、悪漢の不興を買わぬうちに。神経をすり減らし続けた尾行は、中央街をいくらか外れた裏通りで終わりを告げた。
彼らが入っていったのは、街並みに紛れるように立つ廃屋だ。かつては倉庫として用いられていたのだろう、外観は簡素でもの寂しい。窓は高い位置に備えつけられているのみで、外から中の様子を伺い知ることは不可能だった。
(そう大きくはない、か)
予想外の客人を抜きにして考えるとしても、入って二十人といったところだろう。窓の配置を見る限り、二階建てということも有り得ない。ハルミヤが内部の構造に頭を巡らせているうちに、ラケイユは見張りのいない建物に歩み寄り、ぐるりと一周して戻ってくる。
「入口は目の前にある扉だけだ。裏側には通気口がひとつ、もちろん人が入るだけの大きさはないし、中を見ることも叶わない。かすかに人の声が聞こえるぐらいかな」
「三人のいる位置は」
「最奥だろう。言い争っているのが聞こえた」
扉の際に数人、コレットらの前に数人が立っている、とする。ならば正面突破を試みたところで人質を取られるだけだ。ハルミヤが内部の位置取りを確認するまでに、刃物、あるいは指先が、いとも容易く彼女らの喉元に添えられることだろう。
助けるべき相手が多すぎる。薙ぎ払うべき相手も、だ。クロエを救いだしたときのようにとはいかないと理解して、ハルミヤは唇を噛んだ。ラケイユもまた考えるそぶりを見せたまま、再び倉庫を眺めやる。
「……お嬢さん。きみの力で、縄を断つことはできるのか」
唐突な問いに思考を中断された。遅れて、ああ、と首肯する。
「別々の箇所を、相次いで狙い撃つことは」
「不可能じゃない」
「最後にひとつ。君の友人は咄嗟の判断ができる相手かな」
驚きに身を竦めるようなことはないか。続けて問われ、頷く。ろくに考えようとしないから、このような事態を引き起こすのだ。
「……どうするつもりだ」
問いかけると、ラケイユはハルミヤを誘って建物の背面に回りこんだ。
石造りの壁の上部には、申し訳程度に通気口が覗いている。わずかに漏れ聞こえる声のうち、彼と断定できるのはセルジュのもののみだった。その会話の内容までは聞きとれないが、壁の向こう側には確かに、彼らの気配が感ぜられる。
「こういうのはどうだろう」
緊張を帯びた声が囁く。漆黒の闇の中、ラケイユは猫のように瞳を光らせていた。
*
「訳がわからないのは俺たちの方なんだよね」
セルジュらの目の前で、細身の男が首をひねる。中心格はこいつか、と、把握するのは容易だった。
物腰は思いのほか柔らかい。今のところは暴行を受ける気配もないが、彼らが好意的と判断するのは早計だった。ほんの少しでも機嫌を損ねれば、たこ殴りにされないとも限らない。現に三人は揃って縛り上げられ、完全に身動きを封じられているのだ。
「誰かに嗅ぎつけられたかと思えば、こんなにも簡単に捕まってくれて。しかも三人、揃いも揃って学院の生徒だって? あまりにも出来過ぎている、運命的なほどに。そろそろ教えてくれないか、一体誰に手引きをされたんだ」
「だから、知らない。俺たちは友達を探していただけだ。何も見ちゃいない、聞いちゃいないし、あんたたちに関わるつもりなんかさらさらないんだ」
「信じるとでも思っているのかい? ……俺たちの存在を知る者がいる、情報が漏れているかもしれない。事態は非常に深刻なんだよ。このディルカメネスを揺るがしてしまうほどにね」
(ディルカメネス? どうしてそう大きな話になる)
誇張、というわけでもないらしい。あまりにもすんなりと飛び出した国の名前は、彼の舌に馴染んだものであるようにさえ思えた。
一介の麻薬売人が、もしくはただの人攫いが、国を巻き込む大事を起こし得るものか。セルジュは考えて首を振る。不要な好奇心に身を任せれば、嗅ぎまわっていると判断されてもおかしくはない。ただひとつ、三人に許されているのは、自分たちが通りすがりの学生に過ぎないと信じさせることだけだった。
焦りとは裏腹に、おぞましい沈黙が降りる。コレットが震える気配と、ダヴィドが唾を飲み込む気配とを感じながら、セルジュはひとり男を睨み据えていた。彼は三人の前にしゃがみ込み、困り果てたように嘆息する。
「これじゃあ平行線だな。話が進みやしない」
「傷めつけてやった方が早いんじゃないか?」
片隅から上がった声に、思わず身を固くする。男はふうむと考えこむそぶりを見せた。
「最近は交渉しかしてこなかったからな。あまり気は向かないが……お嬢さん」
少女の肩が跳ねる。セルジュが身を前に出そうとするのを、男は愉しそうに見下ろしていた。コレットの目を覗きこむように首を傾け、猫撫で声を出す。
「俺も男のはしくれだ。子供とはいえ、女性は殴りたくない。だからきみに選んでもらいたいと思う、……どちらの少年を差しだしてくれる?」
「……っ」
「簡単な話だ。きみに選ばれた――いや、選ばれなかった方と言うべきか、その少年を、俺たちは数人がかりで痛めつける。どういうことをするか分かるかい。鼻頭を蹴りつけたり、歯を折ったり、鼓膜を破ったり、一本ずつ指を切り落としたりするんだ。それとも先に爪を剥いだ方がいいかな」口ずさみながら、ひらひらと掌を揺らす。「俺に経験はないけれど、あれはとても痛いらしいよ。頭が混乱を起こして、勝手に気絶しようとするほどだっていうじゃないか。もちろんそれは俺が許さないけれど」
おい、と呼びかける声に応えて、刃物と鉄製の器具とが運ばれてくる。大まかな仕組みそのものは鋏に似ていたが、片側には指を固定するための穴が添えられている。使い道を想像した途端、セルジュの全身からねっとりとした汗が噴き出した。
「便利な道具だよ。さあ、お嬢さん」
「い、や、嫌……っ」
「きみぐらいの歳なら人の好き嫌いぐらいあるだろう? ほんの少しでも苦手なほうを選べばいい。それとも自ら身を投げ打ってくれるのかい。献身の聖女が相手なら、趣向を変えるぐらいのことは厭わないよ」
か細い悲鳴がセルジュの耳をつく。やめろ、と響かせた声が、自分のものである確信はなかった。気付けばセルジュは地面に転がされていて、こめかみにひりつくような痛みを覚えていたからだ。
視界が眩み、頭が揺れる。ふらつく視線を上に向けて、ようやく蹴り飛ばされたことを悟った。
「格好いいねえ少年。素晴らしい。けど、きみのそれは誤った勇気だ」
縛られた掌に重みを感じる。ざらついた感触、その奥に伝わる悪意と共に。探るようにセルジュの左手の上を這った靴は、やがて小指に落ちついた。初めに爪先で踏みつけ、弄ぶように転がしたあと、器用に踵を乗せる。
このまま体重がかけられれば、待つ未来は明らかだった。腹の奥をえぐるような恐怖の中に、男がぽつりと言葉を落とす。
「なあ少年、ちょっとした与太話をしようか。……きみは貴人の生まれかい」
「……商家の、長男だ」
「ああ、なるほど、道理で肝が据わっているわけだ。商人という奴らは、どこまでも身の程を知らない人間だから」
乾いた笑声に嘲りの意は込められていなかった。男は話題を変えるように頭を振り、自分の胸に手を当てる。
「かくいう俺は――俺を含めたこいつらは、みんな揃って貧乏人でね。こうして育ってくるまでに、物盗り、脅し、なんでもやってきた。お貴族様に頼まれて、彼らの気に食わない相手に憂さ晴らしをしてやったこともあったな。使われても一度きり、あとは元通りの鼻つまみ者。ゴミみたいな奴らばかりだ」
皮肉めいた言葉を操る、男の衣服は小奇麗だ。彼の出自はその佇まいとはちぐはぐで、セルジュの眉間に皺を刻む。
「そんな俺たちに、ある日、救いの手を差し伸べてくれた奴らがいた。少年、それが誰だかわかるかい? ……神様だよ。俺たちは、慈悲深い神様に生かされてここにいる」
「神……神龍、シルヴァスタ?」
条件反射で言葉を返しながら、違う、と胸に呟いていた。
男は、奴ら、と。誰、と言ったのだ。ならば唯一にして絶対の神龍であるシルヴァスタが、彼の指し示す相手であるはずがない。案の定男は含みのある笑みを浮かべ、面白がるように目を細めている。
「少年。ねえ少年、救いはどこにあるんだろうね。誰かにとっての救いが誰かにとっての悪夢になる、そんな世の中に、絶対の正しさなんてものはあるのかな」
「……あんた、何を言ってるんだ」
「無知は幸せだということさ。きみたちはただ信じていればいい、擦り込まれてきた幻想だけを、盲目に、忠実に、真摯なほどに。誰もが夢を見ているとすれば、その夢は誰しもの真実たり得るのだから」
詩歌じみた文句を紡ぎ終えると、男は踵に力を込め始めた。ひと思いに折ってしまうつもりはないのだろう、セルジュの小指を地面に同化させていくかのごとく、じわりじわりと押し込んでいく。自分の末端から軋んだ音を確かに聞き、セルジュは、やがて襲い来る激痛の予感に身をこわばらせていた。
骨が歪む。意図されなかった方向へ、捻じ曲げられようとする。――それが限界を迎えようとする瞬間、派手な衝突音に男の足先がびくついた。
「何が」
そこに至って、男が初めて声を硬化させる。
外部からの衝撃に撃ち落とされたのは、倉庫の屋根の一部だった。続く第二撃、第三撃が、次々と屋根板を削り落としていく。最後にひときわ大きな爆音が轟けば、腰を浮かさない者はいなかった。扉と周囲の壁とが、無色の一撃のもとに崩れ落ちる。
粉塵を撒き上げるのは、不自然に渦巻いたつむじ風だ。その中に人の姿を見定めるよりも早く、唐突にセルジュの体が自由になる。両手首を縛りつけていた戒めは音もなく地面に落ちた。
(……斬られ、た? どこから)
答えを見出す余裕は与えられなかった。肩を叩いた手に身を震わせ、セルジュは跳ねるようにして起き上がる。恐る恐る振り向けば、指先を口元に寄せた青年の白皙がそこにあった。
黙って、続いて。
声なき呟きに促される。空いたもう一方の手は、先ほどまでは存在しなかった逃げ道へと向けられていた。
扉の方向から響かせた轟音は、背後の壁から意識を逸らすための囮だ。ならば先だって行われた屋根への射撃も、男たちの視線を誘導するために違いない。いつの間にか空いていた背中の風穴に、彼らの誰も気付いていなかった。
コレットとダヴィドを先に逃がし、ラケイユは静かな瞳でセルジュを眼差し続ける。金の色はセルジュを急き立てながら、その裏に問いかけるような輝きをもちらつかせていた。
(この人が、ここにいる、……ってことは)
土煙の向こうに、立っていたのは。
踏み出そうとして、動きを止める。捨て置いていいのか、逃げていいのか。彼女を一人残していくことを、選んでいいのか。恐れと躊躇いとが拮抗して足を縛りつけていた。硬直した体の末端、踏みつけられていた小指の先が微かに震える。
「イシュ、」
呼びかける、つもりでいた。しかしそれは叶わなかった。
ふり向きかけたセルジュの背を、一陣の風が強く押す。突き放すように、たしなめるように、そして微かに、泣き叫ぶような響きを伴って。鋭く一言、走れと放たれた声は、見るなと叫ぶも同義だった。
――それだけで、分かってしまう。
(俺は、今)
踏み込んではならない場所に、立ち入ろうとしていたのだと。知られことを、見られることを、彼女は決して望んでいないのだと。
「……っ」
しがらみを振り切り、強く、大地を蹴りつける。
残した悔恨の向こうに、確かに風鳴りの音を聞いていた。