「緊、張、した……」
後ろ手に扉を閉めるや否や、セルジュは深い吐息を漏らし、力なく座り込んでしまった。
ハルミヤは彼を横目に見て、仕方なしに足を止める。迎えに来られた立場である手前、置き去りにするのも気が引けた。手持無沙汰に立ちつくしていると、セルジュが再び、よろよろと腰を上げる。
「あの人。友達だったのか」
「いいえ」
即答した。ここにいるのがハルミヤとしての自分であっても、同じ答えを返しただろう。しかしセルジュは渋い顔で扉をふり返った。
「でも、最後のあれは……牽制だったんじゃ」
「どういうことですか」
「いや、なんでもない。なんでも」
ハルミヤは唇の端を引き下げる。男にのみ通じる何事かがあったのだろうが、目前でちらつかされては不愉快だ。打ち切られた会話を頭から追いやって、「それなら行きましょう」とだけ早口に告げた。
無言を貫けば、踏み出す足は次第に早まった。東棟、中央棟、西棟と大まかに区切られた学院のうち、目的の一室は東棟の二階、その最北に存在している。中央棟の一階からでは近いとは言いにくい距離であるが、始業の時間には間に合ったようだった。
ハルミヤが粛々と椅子に腰かけると、セルジュは当然のように隣に荷物を下ろす。それを目にした生徒がひとりふたりと集まってくるのを、ハルミヤはため息をつきたい心地で、しかし表向きには無表情のまま出迎えた。
巻き毛の青年がダヴィド、すらりとした背の高い女生徒がコレットだ。彼女と行動することの多いリディは、どうやらこの時間、授業を別にしているらしい。
「ようセルジュ。お姫様のお迎え、ご苦労さん」
「けしかけたのはお前だろうが。その呼び方やめろ」
「イシュティア、明日の演習の課題ってもう終わってる? ちょっとだけ見せてもらえたら嬉しいんだけどなあ」
一度人数が集まれば、鶏小屋もかくやといった有様だった。少女に課題を寄越してやりながら、ハルミヤは午後の疲労を覚悟する。
コレットが黙々と課題の複写作業に入る傍ら、セルジュとダヴィドは喧嘩じみた会話を交わしている。彼らにぼんやりと耳を傾けていると、その矛先は急にハルミヤへと向けられた。
「図書室のブランさん、友達なんだって?」
目を輝かせて問うたのはダヴィドだ。首を振ってやると、違うじゃねえか馬鹿、とセルジュの頭が殴られる。哀れな被害者はたちまち顔色を曇らせた。――だからただの知り合いだって言っただろう、知り合いなんて友達と似たようなもんだろうが、お前の線引きはどうなってるんだ、と口論が続くのを、馬鹿馬鹿しいと意識から除けようとする。しかし好奇心の塊であるところのダヴィドはそれを許してはくれなかった。
「あの人も不思議だよな、もう十年もここにいるって聞いた」
「お前それ、前には八年って言ってたからな」
「……まあ、ともあれ、それぐらい長く学院にいて、ずっと図書室の管理をしてるって。何歳なのか、どこの人なのか、誰も知らないし、訊いても答えてくれないんだと」
だろうな、とハルミヤは胸の奥で同意した。自慢の話術でのらりくらりと明言を避ける姿が目に浮かぶ。始業の鐘が幕切れを告げるとき、気付けば素性を吐かされているのは問いかけていた側だ。
「学院には知り合いらしい知り合いもいない。授業は取っているはずなのにいつも図書室にいる。卒業要件なんてとっくに満たしているんじゃないか、ってもっぱらの噂」
「卒業できるのに、していない? なぜ」
「お、気になる?」
不愛想な少女の興味を釣れたのが面白かったのだろう。ダヴィドはにいと口角を吊り上げた。
「残念だけど分からないんだなあ。でも、成績が悪いようには見えないだろ? 単位を取らなきゃ除籍にさせられる所だし。八年、十年、ずっと学院にいて、まだ卒業ができないってのもおかしい話だ」
なにか、ここに残りたい理由があるのかもな。ダヴィドの不穏な呟きを受け、ハルミヤは視線を他所にやった。
身の自由は許されている、と言っていた。その言葉を裏付けるように、ラケイユは王都を離れた地にも姿を現している。目的は定かではないが、ただひとつ確かなのは、彼が一介の生徒以上の特権を得ているということだけだ。
「いるでしょ、あの人の知り合い」
無言で筆記具を走らせていたコレットが、一段落したのか顔を上げる。ありがとうと言ってハルミヤの課題を返すと、大儀そうに肩を回した。
「ハルミヤ。ハルミヤ・ディルカ。あのブランさんと、頻繁に話をしていたって話じゃない」
肩先が揺れるのを、押しとどめることができなかった。
幸い気取られることは避けられたらしい。あのなあ、といち早く呆れを露わにしたのはダヴィドだった。
「それは“いる”じゃなくて“いた”って言うんだよ。……そもそも、あいつが今ここにいたところで、話ができる相手でもないだろ」
「まあねえ」
ハルミヤ・ディルカ。小声でくり返すと、コレットが目をしばたかせる。ややあって、そういえばと納得する様子を見せた。
「イシュティアは知らないんだ。ちょうど入れ替わりになるものね」
「……ええ、はい」
「一月前までね、ハルミヤっていう女の子がいたのよ。とっても頭が良くて、試験の成績だって年上の生徒よりもずっとずっと上で」
何が嬉しくて、面と向かって自分の評判を聞かされねばならないのだろう。ハルミヤは顔をしかめようとする筋肉の動きを必死で押しとどめ、頷くだけの相槌を打つ。コレットは大げさな動作で肩をすくめてみせた。
「でも同じぐらい性格が悪かった。全然喋ろうとしないし、口を開けば悪態ばかりだし。顔はいいからなおさら腹が立つっていうか、羨ましいっていうか、ね」
「ああ美人だったよなあ……性格さえどうにかなれば、真正面から描かせてもらえないか頼んでいたんだけどな。イシュティアと五分五分ってとこ」
「……ダヴィド、あんたは黙ってなさいよ。話がこじれるでしょうが」
「まあそう僻むなって」
茶化したダヴィドに平手が飛んだ。彼はそれをかわしてけらけらと笑う。しまいには席を立っての追いかけっこが始まるが、その結果までを見届けるつもりはなかった。
一息ついて姿勢を正す。珍しく大人しくしているセルジュを窺えば、彼は神妙な表情で黙りこんでいるのだった。ハルミヤの視線に気付いて、ああ、と声を上げる。
「あいつ、な。一月前にいなくなったんだ。宿房の点検の日に失踪したんだって、先生方は言ってるけど。……なあ、イシュティア。今の神子が誰だか知ってるか」
単刀直入にもほどがある問いかけだった。続く言葉の中身にも想像がつく。一度頷いてやれば、セルジュは瞳に微かな影を移ろわせた。
「エツィラ・シヴァイ。今代の神子。……もとの名前はエツィラ・ディルカっていうんだ。ハルミヤの、双子の妹だった」
そうですか、と答えることしかできなかった。無言の沈黙には耐えられず、それ以上を口にするだけの余裕も持ち合わせていなかった。冷静だなとセルジュが苦笑するので、他人のことですからと口先だけで返す。そうしながら、心臓を締め付けられるような重圧に耐えていた。
(他人であったらどんなにいいか)
最初から彼女と自分が別の存在だったら。すれ違う縁すらもなかったとしたら。そのとき自分は、ここに戻ってくることを選んでいただろうか。これほど一心に、神殿を目指すようなことをしていただろうか。ぐらつきかけた自分に気付き、唇を強く噛んだ。
(やめろ)
悩めば目的の在り処がぶれる。迷えば立ち上がれなくなる。躊躇が意志を鈍らせるなら、自分の足取りだけを信じていれば十分だ。
「ハルミヤは」
「っ」
思わず息を詰める。名を呼ばれたかと思ったのだ。セルジュはハルミヤの動揺もつゆ知らず、天井の幾何学模様を睨み据えていた。
「あいつは、どうして、一人でいたんだろうな。本人が他人を嫌ったら、誰も近付けないのに」
不協和音が響く。うわごとめいた声にすれ違いを覚えた。
(……私が? 嫌う?)
おかしい。彼の言い分は前提を違えている。――自分が他人を嫌ったのではない、他人が自分を嫌ったのだ。土を舐めさせられたことも、目の前に星を散らされたことも、この体ははっきりと覚えている。全ての苦痛を清算してなおも赦せというなら、それは持てる者の傲慢に他ならないだろうに。
奥歯を噛みしめる。腹の底で暴れまわる鬱屈を押しとどめて、唇を開いた。
「ディルカ、だからでしょう」
「……え」
ぽかん、と口を開いて、ダヴィドは目をしばたかせる。
考えたこともないのだろう。嘲る者のいること、踏みにじる者のいること、高みから降る暴力と、不満の顕現。そのどれからも無関係でいられたから、彼はハルミヤの性質を訝むような真似ができるのだ。
「ディルカは、……孤児は。いつだって奪われる側にいます。馬鹿にされ、嫌われることに慣れている。それと同じぐらいに、嫌うことにも、慣れているから」
「お前も、そう思ってるのか」
「さあ」
少なくとも、ハルミヤという娘はそうだった。胸の内で付け加えて、セルジュから顔を逸らす。目を合わせていられなかったのは、彼がしかめ面をしていたからだった。
傷つけることを狙って突き放したのだ。考えの甘い貴族育ちの青年に、弱者の痛みを思い知らせてやるつもりで。――だからこそ、意表を抜かれた。
「ディルカって名前は、そんなに偉いのかよ」
指先が跳ね、弾かれたように顔が上がる。自然、睨みつける形になったハルミヤの視線を、セルジュは曇った表情で受け止めた。
「その名前を受け取れば、あとは一生被害者面して生きていけるのか。いつまでも自分の殻にこもって、周りが悪い、傷つけられたのは自分だ、だなんて人に責任を押しつけていられるのか。ご大層な身分なんだな」
「……私たちが、そうしていると?」
「お前の話じゃないよ。自分で言ったんだろ」
建前を信じる者はいない。彼の瞳は非難の色を宿し、冷やかに輝いていた。
「俺たちが喋っているのはディルカじゃない、一人の人間だ。対等に、話をしているんだ。……なあ、見下しているのはどっちだ? 馬鹿にしているのはどっちだよ」
歯と歯がぶつかって、微かな音を立てる。それが自分のものであると気付いたとき、ハルミヤは頭に血が上るのを感じていた。セルジュの放つ一言一句が、ハルミヤの肌をじりじりと焦がしていく。
「ろくに相手を見ようともしない。真正面から向かってくる相手に、斜に構えた態度しか返さない。俺はそういうの、一番格好悪いと思うけどな」
「っ、元はと言えば――」
お前たちが、貴族どもが。食いかかろうとしたハルミヤを、始業の鐘の音が制した。
駆けまわる青年と少女には叱責が飛んだ。笑声がさざめき、立ち上がっていた学徒たちも次々と席に着いていく。静けさを取り戻した講義室で声を張り上げる意志までは湧かず、しかし飛び出しかけた言の葉をかき消すこともできないままで、ハルミヤの喉奥には息苦しさばかりが滞る。
「ええ、では、先回の続きから……」
教師のしわがれ声も耳には入らない。机を睨みつけたままその時間を過ごしたハルミヤは、終業の鐘が鳴ると同時、早足で講義室を出ていった。