イシュティア・ディルカという娘の名は、瞬く間に周知のものとなったようだった。
 季節外れの新入生、確かな実力を持った学徒、眼鏡の奥の整った顔立ち、人慣れの無さが伺える口下手が、本人の預かり知らぬところで奇妙に絡みあった結果だった。その原因がセルジュであることは疑うべくもない。
 ダヴィド・マルティル、コレット・ベルジュ、リディ・コンスタン――片手で足りるほどの人数であっても、顔と名前が一致する相手がいるのは奇跡のようなものだった。ひとたびセルジュに捕まれば、その日一日は入れ替わり立ち替わりに声をかけられることを覚悟しなければならなくなる。彼らの名を覚えていられたのも、単に顔を合わせる頻度が高かったからという理由に他ならなかった。
(冗談じゃない)
 ただでさえ神経をすり減らすべき対象が他にあるというのに、これではおちおち考えごともしていられない。人の目を避けるために学院へ逃げ込んで、衆目に晒されているというのでは本末転倒だ。
 我慢が限界に達したその日の昼どき、ハルミヤは逃げ込むようにして図書室の扉を開いた。どうやらセルジュらは図書室を目の敵にしているようで、その一帯には寄りつかないと知っていたのだ。ようやく一息をついたところで、自分を見つめる蜜色の目に気を引かれる。
「っ……」
 動揺を表に出しかけて、すんでのところで呼吸を正す。一利用者を装って書棚の間を行けば、その視線もやがて本の山に紛れていった。
(迂闊だった)
 避けるべき相手の優先順位が、いつの間にかすげ替えられていたのだろう。獅子から逃れるべく狼の縄張りに踏み入れてしまったようなものだ。表情こそ平静を保っていたが、心臓は早鐘のように鳴り響いていた。ハルミヤは深呼吸でそれを落ちつけてから、素知らぬ顔で、隅の一席に腰を下ろす。
 人気が無いのは、誰もが食事を取るべく出ているためだ。飲食が禁じられている図書室においては、ハルミヤのように椅子に腰を下ろす生徒は少なく、歩きまわる者も数えるほどにしか存在しない。
 久方ぶりの静けさに、ため息をついたとき。頁を繰った手元に、細い影が落ちた。
「いい眼鏡だ。誰かに譲ってもらったのかい」
 そう、まるで、旧知の仲であるかのように語りかけてきた青年を、睨みつけずにいられたのは意地の賜物だった。ハルミヤは代わりに精一杯の怪訝な目を返し、苛立ちに震えかけた喉を叱咤する。
「……あなたは?」
「眼鏡の話は嫌だったかな。すまない」
(人の、質問に、答えろ……っ!)
 腹の奥底で、怒りが渦を巻いている。思い起こされるのは、初めて彼に声をかけられたときのことだった。ハルミヤの制止を受け流し、星や石の名を並べ立てては蘊蓄を加える。文句を挟む暇さえ与えられないのは、彼が基本的に人の話を聞く性質ではないためだ。根幹からそりが合わないのだと再認識し、ハルミヤは落ちつきを保とうと専心する。
「失礼ですが。私は、あなたと、会話をしたことがありません」
「ふむ」
「……ですから、そのような調子で話しかけられますと、非常に困ります」
「なるほど。単刀直入に言えば?」
「馴れ馴れしいので近付かないでいただきたい」
 ぐっ、と苦しげな声が漏れる。ラケイユが笑いの衝動を寸前でこらえたのだ。ハルミヤは頬を引きつらせながら、無言で彼を見据えていた。
 ラケイユはしばらく浅い呼吸をくり返し、最後に深く息をつく。まったく、と嘆いて首を振った。
「それで隠し通しているつもりでいるんだから、きみも可愛いところがあるな」
「何の、ことでしょうか」
 問い返す口調は固くなった。ラケイユは薄く笑って、僅かに立ち位置をずれる。自らの体を遮蔽物にしたのだと気付いたのは、彼が数段声量を落としてからのことだった。
「銀の髪が天なる川なら、今の黒髪は夜空かな。蒼玉がひときわ映えて、綺麗だ」
「は?」
「だから余計、その眼鏡が惜しい。硝子が厚すぎて、兄星の煌めきを覆い隠してしまうから。……ずいぶんと古びた色をしているね。院長先生からの賜り物かい」
 ハルミヤの表情の変化を見届け、ラケイユが肩をすくめる。
「きみは分かりやすいな」
 指先が伸びる。はっとして顔を引けば、ラケイユはハルミヤの額を指したところで手を止めた。気付けば彼の爪先は空を掻き、ハルミヤは大げさなほどに首を逸らしていた。早すぎた反応は、触れられると知っていたがゆえのものに違いない。
 ――してやられた。ハルミヤはそこに至って、初めて彼への憤懣を露わにする。その視線を受けながら、ラケイユは痛くも痒くもないといった表情でほほ笑んでいた。
「うん、それでこそだ。無事に溶け込めたようで何より。久しぶりにきみに会えて嬉しいよ、お嬢さん」
「……お前がいると分かっていれば、ここには来なかった」
「おかしなことを言う。俺はほとんどここに住みついているようなものだし、きみだってそれを知っているはずだろう? よほど他のことに気を取られていたのかな」
 まるで見てきたかのように言われては、陰から覗かれていたのではないかと疑いたくもなるというものだ。答えるつもりはないとそっぽを向けば、彼は残念そうに首を傾ける。その片手間に椅子を引っ張ってくると、平然とハルミヤの目の前に座りこんだ。
「不思議なものだね。王都を出たきみと、またここで、こうして話をしているだなんて。これが神の導きというものかな」
「やめろ。お前の口から出る神の名ほど胡散臭いものはない」
 同意するよと一笑が返るのが腹立たしい。からかいが続くのであれば無視を押し通すつもりでもいた。しかしラケイユは、瞳に笑みの気配を含んだまま、ふいに苦い顔をする。
「本当に不思議だよ。……一度追い出された場所に、また身を置こうとするきみの気が知れない」
 ちらりと覗いたのは苦悩だろうか。およそ表に出る機会のないその表情に、ハルミヤはわずかにうろたえる。
「そうするよう勧めたのはお前だろう」
「王都に戻ってきたのはきみ自身の意思じゃないか?」
 やけに執着する。何が言いたいと睨み据えてやれば、ラケイユはひとつため息をつく。そのまま背もたれに体を預けていった。
「せっかく自由になる体を手に入れたというのに、どうしてまた神殿なんかに寄りつこうとするんだ。あそこにはきみを狙う人間しかいないんだろう? どこか遠くに住みついて、平穏無事に暮らした方がよほど」
「……幸せ、か?」
 ラケイユが目を眇めるのを、鼻で笑ってやる。
 ――恵まれているかどうかは、自分が決めることじゃないか?
 彼もまた理解はしているのだ。他人の幸不幸を定めることが、いかに価値のないものであるか。何故ならそれは、かつて彼自身がハルミヤに突きつけた拒絶でもあるのだから。
「生憎だがな。私にとっては、無知であることの方がよほど恐ろしいんだ。何故私が殺されなければならないのか、何故あのエツィラが神子に選ばれたのか……何も知らないままのうのうと暮らしていけるほど、この肝は太くないんだよ」
 自分ひとりが諦めて引きこもればいい、などと。そんな殊勝な娘になる気はさらさらなかった。
 知らねば食われる。弱者として産まれついた子供に与えられた武器は、どんな強者よりも貪欲に、知を求めることだけだった。陥れるだけの策を、逃れるための術を。奪われぬよう、踊らされぬようにと。先に手を出されたならば、その首元に噛みつく牙を研ぎ続けるだけのことだ。
「私の生は私のものだ。誰にも奪わせない、誰にも疑わせない。そのためなら」
 言葉を切り、ラケイユを見据える。厚い硝子越しに蜜色の瞳を射抜いた。
「――そのためなら、私は、神子の座にだって昇りつめてみせる」
 決意は他人のもののように鼓膜を震わせた。
 神子に。神殿の頂点に。何者の手も届かない天へと駆け昇る。傲慢な望みであれども、世迷言だとは考えていなかった。それを可能にするだけの翼は、今もこの心臓を強く揺り動かしているのだから。
 ラケイユが瞠目する。ややあって、は、と笑みとも嘆息ともつかぬ吐息を漏らしたときには、彼の唇の端は確かにつり上げられていた。
「当代の神子を引きずり下ろす? それともなり変わろうって言うのか。きみの双子の妹に?」
 ラケイユの声が興奮を帯びていく。ハルミヤは唇を引き結んだまま沈黙を保った。
 手はいくらでもある。エツィラに会うことが叶うのならば。言外の企みをラケイユは察したらしかった。彼は深い息をついて片手で目を覆う。掠れた笑声が、薄い唇を割った。
「きみだってよほど背信的だ。忌まれた身でありながら、あの神殿を根幹から手中に収めようとするだなんて」
「一緒にするな。恨み言を吐くだけのお前とは違う」
「……ああ、その通りだよ」
 ひときわ低い声でそう答えて、ラケイユはハルミヤの顔をねめつける。ハルミヤが負けじと歯を食いしばっていると、彼はややあって、緩慢な動作で首を振った。
「常人なら身を引くところに、きみは頭から突っ込んでいく。散らばった硝子の上、燃え盛る火炎の上、生い茂る茨の上を、裸足で走って行こうとする。まるで理解できない、気狂いのすることだ」
「馬鹿にしているのか」
「いいや、褒めている。賛美しているんだ。生きづらそうだと思うし、だからこそひどく鮮烈だ」
 背を、見ていたい、と。言われたことを思い出す。全ての音が消え去ったかのようなあの瞬間、彼と自分の道は、一度として交わることがないのだろうと直感していた。自分の存在を天に唾吐く道化と置くならば、彼は永劫の観客だ。引かれた一線を跨ぐこと、指先が触れること、目が合うことなど起こり得ない。
「協力するよ」
 ぽつりと言って、ラケイユは椅子を引いた。
「この身にはいくらか自由が利く。昼間に王都を歩くことも含めてね」
「……見返りは」
「望まない。きみの信用を受けられるなら、それだけで光栄だ」
 眩しそうに目を細める姿は、神に相対する信徒のそれだった。唐突なむず痒さに襲われて、ハルミヤはついと顔を背ける。
「今さら、何を」
 刺客に追われた自分の手を引いたのも、途方へ暮れた自分を学院へと導いたのも、ラケイユの瞳と言葉だ。軽やかに回る彼の舌は、ふいに有無を言わせぬ重みを持つ。そのことを、ハルミヤは身をもって思い知らされていた。
 頼りきることはしない。ゆえ、互いに、用いるだけだ。ハルミヤは情報を、ラケイユは歓楽を求めて、相手に淡い信を置くだけのこと。
 きい、と、遠くに扉の軋む音を聞いた。暗闇のわだかまる一室に、一筋の光が落ちる。騒々しく床を踏み鳴らした靴音を聞けば、目を向けずともその主は明らかだった。
 来る講義の教室に少女の姿が無いことを疑問に思ったのだろう。即座に居所を探しあてられるならば、図書室もやはり、安息の地とはなり得ないらしい。ほんの数日で聞き慣れてしまった声が、訝しげに偽物の名を呼んでいる。
「お探しのようだよ、お嬢さん。残念ながら秘めごとの時間は終わりのようだ」
「茶化すな」
「イシュティア?」
 本棚の影から、セルジュが顔を覗かせる。彼はラケイユの姿を認めると小さな動揺を見せた。
「と、取り込み中ですか」
「いいえ?」
 ぎこちない緊張と、飄々とした嘘臭さとが対面する。そのままにしておくのも面倒だ、とハルミヤは早々に会話を断ち切る。
「セルジュ。二階東棟の第三講義室でしたね」
「え? あ、ああ」
「時間も時間です、行きましょう」
「いや、でも話をしていたんじゃ」
「本の在り処を尋ねていただけです」
 懸念を聞き入れるつもりもなかった。ずんずんと足を進ませれば、セルジュが慌てて後に続く。彼の前にハルミヤの名をちらつかせることを避けたいのはもちろん、ラケイユの前にイシュティアの名を出すこともまた不愉快だった。ハルミヤは胸の奥で毒づきながら、図書室の扉に手をかける。
「イシュティア」
 声をかけられたのは、掌に力を込めたときだった。殺気を呑み込んでふり向くと、姿勢を正したラケイユが一度会釈をして見せる。
「次までにはお探しの本を用意しておくよ。きみが望むときに、ここを訪れるといい」
 再会と情報を。言葉の裏に秘密を潜ませた青年に、ハルミヤは、ええ、と平坦な了承だけを返した。