「疲れた」
 宿房に戻って早々吐き捨てる。ハルミヤを迎えたのは、クロエの苦笑とアルヘナの無表情だった。
 寝台の上に荷を放り、同じように眼鏡を投げ捨てようとして、その直前で踏みとどまる。勢いで後ろ髪へと伸ばした手が空を切ったところで、ああと小さく息をついた。クロエがその一部始終を眺めてくすくすと笑う。
「おかえり、ハル。お疲れさま」
「まったくだ」
 三人に宿房の一室が与えられ、急ぎ教材をかき集めたのが昨日のことだった。新生活の用意には思いのほか時間がかかったが、一度授業に出席さえしてしまえば、再び静かな日々が戻ってくるものと考えていた。物事はハルミヤの期待通りに進むはずだったのだ――昼過ぎの授業で、教室に教本を置き忘れるようなことさえしなければ。
「面倒な奴に捕まった」
 漏らしたのは独り言であり、悪態でもあった。
「何が案内だ。何が紹介だ。余計に疲れただけじゃないか。……くそ、最初から断っていればよかったんだ、ご丁寧に新入生を装おうとしたのが間違いだった」
 セルジュ・フェネオン。顔と名前だけは覚えていた。快活で、広く顔が利き、何より、目立つ。特別顔立ちが優れているわけでも際立った成績を残しているわけでもないが、彼はいつ何時にあっても人の中心に立っていた。
 ハルミヤとして学院に通っていた頃には、毛ほどの接点もなかった男だった。見覚えがあると疑われた際にはおののいたが、どうやら誤魔化すことはできたらしい。イシュティア・ディルカ、始めは耳慣れなかったその名も、数十度に渡り呼ばれ続ければ自分のものだと認識できるようになるのだから不思議なものだ。
「生徒さん?」
 いち早く寝台に転がっていたクロエが、首を傾けて問いかける。短く頷いてやると、彼女はころころと笑った。
「捕まったんじゃなくて、お友達になったんだよ」
「はあ?」
「始めて会った相手に道案内をしてくれるなんて、親切な人なんだろうね……って、もう、ハルってば、その顔! まさか学院でも同じ顔してないよね?」
 眉、目、と指摘されるまま、歪んだ表情を元に戻そうと試みる。しかしどうしても納得はできないままで、三角に結ばれた唇はその形を崩さなかった。
「どんな顔をしていようが構わないだろう。授業に出席して、単位を取得して、卒業資格を得るだけだ。知人を増やすつもりも、ここに長居をするつもりもない」
 ハルミヤは顔を背ける。もう、とクロエがむくれるのを、視界の端に捉えていた。
 神学院に在籍し、ハルミヤ・ディルカの残した卒業必須科目を履修すること。それが学院長テオドール・キュヴィエから与えられた課題だった。学院の卒業資格さえ手に入れてしまえば、大手を振って神殿の中に入ることが許されるためだ。
 彼は頑として自らの抱えた情報を明かさず、ハルミヤもまた自らが得た龍の力を明らかにはしていなかった。平等と呼ぶにはほど遠い牽制合戦であったが、今はただ時を待つほかに道はない。幸い、目先の道が開けているのであれば、根気の強さには自信があった。
「長くともあと半年だ。半年、問題なく過ごせればいい」
「……まあ、そうだよね、ハルはここを卒業するために髪を切ったんだものね」
 クロエは名残惜しそうにハルミヤの背後を透かし見る。その視線に、またかとため息が漏れた。
 かつては後頭部で一つにくくり上げていた銀髪も、今は肩先までの黒髪に置きかえられている。姿を隠すのであれば徹底的にと心がけた結果だった。
 断髪と染髪の作業はもっぱらクロエに任せたが、彼女は最後の最後まで了承しようとしなかった。幾度にも渡り、髪に価値は無い、伸ばしていた理由もないんだ、と言い聞かせても成果は出ず、焦れたハルミヤが「数年もすればまた伸びる。伸ばしてやるから」と説得したところで、彼女はようやく鋏を手に取ったのだった。
 一度毛束を落としてからのクロエは、心を捨て去ったかのように鋏をさばいていった。髪を切り揃え、毛染めを用いて銀糸に漆黒を塗りこめるまで、一言として口を聞かなかったのだ。その日の苛むような無言を思い出し、ハルミヤは肩を竦める。
「私の髪なんぞに執着するのはお前ぐらいだ」
「そうかなあ」
「ああ、お前だけだよ。銀髪が珍しいわけでもないだろう。勿体ない勿体ないとわめくがな、同じ髪の妹は私以上に頓着していなかったぞ」
「……妹さん」
 クロエがくり返すまで、難癖混じりにその存在をこぼしたのに気付かなかった。口を止めたところでもう遅い。寝台の上の少女はとうとう上体を反り上げて、ぐいと身を乗り出してくる。
「ハル、妹がいるなんて初めて聞いたよ。名前は? いくつ下なの? あなたに似てる?」
 好奇心はとどまるところを知らないものだ。ハルミヤは思わず苦い顔をする。
 エツィラの存在を隠しているつもりはなかった。口に出してこなかったのは単にそうする必要が無かったためであり、自分の生い立ちを語ることを嫌っているが故でもある。しかしいざ踏み込まれる段になれば、どこまで話していいものやらと頭を廻らせねばならなくなるのだった。
 輝いたクロエの瞳は、もはやハルミヤの逃げを許さないだろう。面倒なことになったな、と、ハルミヤはこの日何度目かの後悔を抱く羽目になる。
「……名前は、エツィラ。エツィラ・ディルカ。双子の妹だ」一息に言いきって、短い沈黙を挟む。「確かに顔かたちは似ていたな」と続ければ、クロエは不思議そうにまばたきをした。
「それ以外は」
「それ以外? 性格か、行動か、表情か、もしくは生まれ持った体のことか」
 連ね上げ、薄く笑ってかぶりを振る。――正反対だったよ、と、過去形になった答えに意図は無かった。
「私とあいつとはまるで違った。立ち方、歩き方、話し方も、……どちらかがもうひとりを眺めて、無理やりに捻じ曲げでもしたようにな」
 実際にそうだったのだろう。何から何まで、同じであることが気に食わなかったのだ。片割れを先に突き離したのがハルミヤであるなら、背を向けたのもハルミヤに違いない。目につく相似を拾い上げては、別の個体であろうと踏みにじり続けてきた。
 初めから違っていたものは、最後まで同じであったものは、一体いくつあったのだろう。今となっては数え上げることも叶わなかった。
(違っていれば理解できたから……いや、違っていなければ、納得ができなかったから、か)
 同じ格好をして、同じ言葉を口にして、同じ表情を顔に浮かべて。そうすれば自分はエツィラになれたというのか。想像しようとした瞬間に、嫌悪感がとぐろを巻き始める。
 決別を選んだ人間が、再び片割れと道を重ねようなどと、土台無理な話なのだ。ゆえに自分は、もうひとりの少女に見下されるわけにはいかない。別の道を歩み出したのが自分である以上、その先にあるものが破滅でしかなかったなどと、認めるわけには。
「――ハル、顔」
 低い声に、ハルミヤははっとする。頬を張られた思いでクロエを見つめていたが、彼女からは案ずるような視線が返されるだけだった。ややあって髪をかき回し、荒々しく息をつく。
「もう寝る。食事は好きにしてくれ」
「……うん」
 素直に頷いたクロエに背を向け、上衣を脱ぎ捨てて毛布に潜り込む。閉じた目蓋の向こう側で、放られた荷物が取り去られる気配があった。
 次に目を覚ましたときには、荷物と服とが整然と並べられているのだろう。遠い昔、片割れが同じことをしていたのを思い出す。
「おやすみ、ハル」
 闇に転がり落ちていく。立ちこめる鬱屈を取り去ったのは、空から降ったクロエの声だった。

     *

「どうしてかなあ」
 規則正しい寝息を聞きながら、クロエは膝を抱えていた。
 呟きに応える者はない。寝台に腰を下ろしただけのアルヘナが、ちらりと睫毛を揺らすだけだ。その彼女でさえ、自分に問いが向けられたなどとは考えていないのだろう。
「ハル、まるで、苦しもうとしているみたい。普通に笑うこと、誰かと一緒にいることも、拒もうとしているみたいに見える」
 どうしてかな。くり返して、そのまま横に転がった。返答を求めるようにアルヘナを見つめていると、彼女は鬱陶しそうに視線を逸らす。
 その素っ気なさはハルミヤに似ているようで、趣を異にするものだった。干渉を拒否するハルミヤとは違い、アルヘナは単に面倒がっているふうがある。あえて口を開き、他人と言葉を交わすことを億劫に感じているのだろう。ハルミヤならば、拒絶のために声を発することを厭いもしないのだから。
「アル」
 呼びかければ、渋々と言った体で顔が向けられる。どうやら話を聞いてくれる気になったらしい。クロエは再び体を起こした。
「あなたは知っているんだよね。……ハルが隠していること、私に教えてくれないこと」
「お前よりはな」
 知りたいのか。続けて問われて面食らう。もしも知りたいと頷いたならば、アルヘナは知を求められた書物のように、知り得る限りの情報をつらつらと語り聞かせてしまいそうですらあった。
 考える。
 唇を噛んで、うつむいて、――首を振った。
「ずるい、……と思う、から。いい」
「そうか」
 アルヘナはあっけなく引きさがり、ついと視線を流した。好奇心を抑えつけたクロエをせせら笑うでも、それが賢明だとたしなめるでもなく、ただ無関心のみを残していく。
 拍子抜けした思いで、クロエはほうと息をついた。ハルミヤの秘めごとを知る貴重な機会は、今の問答の間に掌からこぼれ落ちていったらしい。惜しいことをしたのかもしれない、と、早くも小さな後悔が胸に湧きかける。すぐに思い直して頬を叩いた。
(ハルが話してくれないなら、知ったって、意味が無いんだ)
 望まれる立場はひとつ。保護下にあること。ハルミヤの元に、無力な少女としてあり続けること。何も知らず、何も考えず、無邪気なままに彼女の止まり木として在ることだけだ。
(私を連れ出してくれたのは、ハルだから)
 閉ざされた村に、彼女が風を吹き込んだ。突風のように草原を薙いでいった。停滞と疑心暗鬼に濁った泥土に深く根を張ったクロエを、ハルミヤは足元から立ち切ったのだ。それが彼女のほんの気まぐれであったとしても、クロエがハルミヤのために身を捧げるには十分な理由であった。
 盲目であれと言うならば目を覆い、人形であれと言うならば歩みを止めよう。献身の覚悟は暗黙の中に共有されていた。
(でも、ハル、私)
 どんなに五感を閉ざしたとしても。懸命に身を縛ったとしても。
(考えることだけは、やめられないよ)
 ゆえに、いっそと思わずにはいられないのだ。――いっそ、この呼吸さえも殺してしまえたら、と。