昼過ぎの講義、学徒たちのペン先は不規則な速度で机を叩く。まどろむセルジュを水底から揺り起こしたのは、終業を報せる鐘の音だった。まばたきをくり返す、ぼやけた視界の中で、教師が教本を畳んでいるのを見る。どうやらまた寝過ごしてしまったらしい、と、欠伸と共に薄い後悔を吐き出した。
 今回は眠るわけにはいかない、期末試験の範囲が提示されるのだから、と自らに言い聞かせていたところまでは覚えている。しかしそんな決意とは裏腹に、教鞭をとる男の話はひとつとして思い出せないままなのだった。
(ぎりぎりで、合格できれば、いいか……)
 早くも補講に思いを廻らせながら、閉じられたままの教本を鞄に詰め込む。するとセルジュの目の前で、机の端を叩く指先があった。
「また寝てたろ。この不良生徒が」
 にい、と唇をつり上げて、前の席に座った青年がからかう。ダヴィド・マルティル――学院にただ一人、セルジュと生まれ故郷を同じくする生徒だ。セルジュがやっとのことで渡り終えた神学院への一本橋を、悠々と駆け抜けていった才児でもある。
 そんな彼の机の上には、巧みなデッサンの残された紙きれが一枚。描かれているのが女生徒の後頭部であると判断するのに時間は要らなかった。セルジュはいささかげんなりして首を振る。
「そっちもな、ダヴィド。今回は誰だ」
 才気溢れる友人には、気に入った容姿の女生徒を影から描き留める悪癖がある。その確かな腕前は数々の男子生徒が認めるところにあり、仕立て上げられた“肖像画”は決して安くはない値段で売りさばかれているという。
 そんな彼のこと、依頼を受けて人を描く日も珍しくはない。だが荒い筆跡を見る限り、今回ばかりは彼自身の関心に任せたものであるらしい。
 良い子でも見つけたのか。さした興味も湧かないままで問えば、ダヴィドは嬉しそうに目尻を下げた。
「さすが俺の親友、理解が早い。ほら見ろ、中央の列、前から三列目、左端」
 言われるままに机を追って、指し示された女生徒を見つけだす。うなじまでの黒髪、法衣の外からでも伺える華奢な体つきに、背筋の通った姿勢。いかにも同郷の友が好みそうな後ろ姿の少女が、てきぱきと自分の荷物をまとめているところだった。
 ダヴィドは指の節を唇に寄せ、値踏みをする画商のように目を細める。
「前回まではいなかった子だ。背はそう高くない、年下かな。案外年上だったりしてな」
「どうせお前が知らなかっただけだろ」
「馬鹿言え。俺があんな子を見逃すもんか」
「それ、自分で気持ち悪いって思わないのか?」
 ひでえなあ! と泣き真似を始める友人をよそに、セルジュは件の少女へ目を向ける。身辺の支度が済んだのだろう、ようやく椅子から立ち上がるところだった。彼女が横を向いて初めて、その瞳が厚い硝子に覆い隠されていることを知る。
(……まあ、確かに)
 遠くからでも見て取れる、通った鼻梁に白い肌。連れのいない少女にしては珍しい、凛とした立ち姿。気にかける男は珍しくないだろう。思わず彼女を目で追ってしまってから、絡みつくダヴィドの視線にはっとする。
「ほう、ほうほう、我が友も男の子ですなあ」
「なに言ってんだ」
「ひた隠しにしながらも、うら若き青年の眼差しは麗しの少女に注がれてしまう……ああ、嬉しいよ、嬉しいよセルジュ君、お前はただの馬鹿じゃなかった、恋に狂うことのできる馬鹿だったんだな」
「ダヴィド、しまいには怒るぞ」
「いやいや分かってるさ、そうかっかしなさんな。ひねくれ口は愛情の裏がえ、」セルジュの一瞥を受けて、ダヴィドはごほんと咳払いをする。「ま、まあ、そんなことよりな。あの子、次の授業はお前と同じ教室だぞ」
 何故と問うまでもない。ダヴィドはセルジュの鞄の中を覗きこみ、一冊の教本の題を読み上げる。
 同じものを彼女も持っていた、ということだ。授業が始まる寸前からセルジュに声をかける今の今まで、彼はじっと少女の挙動を観察し続けていたのだろう。セルジュは大げさに身震いをしてみせる。
「お前、いよいよもって犯罪じみてきたぞ」
「芸術家ってのは、禁忌に魅力を抱いてしまうような輩の集まりでね」
 不敵な笑みを浮かべて、自称芸術家の青年が立ち上がる。この後は芸術史の授業に向かうのだろう。学院に籍を置く者であれば誰もが神官としての卒業を目指すはずであるが、ダヴィドという青年は例外にあたるらしい。
 勝手気ままに講義を受ける友人のことが、羨ましくないと言えば嘘になる。商家の長男として産まれたセルジュにとって、学院での脱落はそのまま帰郷を意味しているためだ。一世一代の志を抱いて王都に身を置いた以上、落ちこぼれてすごすごと引き返すのは矜持に反している。
(あと少し、なんだけどな)
 ため息をつく。気付けば教室にはセルジュひとりが残されていた。響いていった自分の声を恥じ、セルジュはそそくさと荷物を抱える。走る勢いのままで扉を開くと、廊下側から小さな声が上がった。
「あ、……悪い」
 反射で謝ってから、相手が今しがた会話に上っていた少女だと気付く。思わず息を詰めるが、動揺は気取られなかったらしい。「いえ」と返す声には芯が通っていた。彼女は小走りで教室に戻っていくと、中央の机の列を手当たり次第に覗き始める。
 忘れ物をしたのだということは容易に察せられた。座っていた位置が思い出せないのか、表情には必死さが伺える。授業を終えた教室は施錠を待つばかりともなれば当然だ。セルジュは足を止めて、少女の背に呼びかける。
「中央列、三列目」
「……はい?」
「左端。だったと思う」
 少女は眉をひそめながらもセルジュの指示に従った。一冊の本を見つけだし、弾かれたように顔を上げる。短い驚きの後、そこに浮かび上がったものは不審だった。セルジュは慌てて腕を振る。
「友達が、お前……いや、あなたのことをじろじろ見ていたんだ。偶然」
「はあ」
「迷惑だろうし、次はやめるように言っておくから」
 少女は微かに首を傾げて、いえ、と視線を逸らす。
「伺わなければ気付きませんでしたし、……特に、気に障るわけでもありません。視線を浴びるのには慣れていますので」
 眼鏡に阻まれ、瞳の暗さまでは伺えない。しかし会話を避けようとする彼女の挙動には、どことなく既視感を覚えていた。しかし数多い黒髪の知人の顔を思い浮かべても、誰にも一致しない。歯がゆさに唇を引き結んでいると、少女は一礼をして教室を出ていこうとする。
「あ、ちょっと!」
 セルジュははっとしてその腕を掴んだ。びくり、と震える気配があって、少女が勢いよくふり返る。その一瞬だけ、紺青の瞳は閃光を走らせたかのように輝いた。
「っ、何か、ご用ですか」
 手首は細い。飲み食いを忘れた病人のような感触だけがセルジュの掌に伝わってくる。その手が微かに揺れているのは怒りのためか、もしくは怯えのためか。罪悪感を抱えながら、セルジュは低い声で問いかけた。
「俺たち、どこかで会ったことはないか」
 少女が眉を寄せる。躊躇するような間があって、彼女は首を振った。
「私が学院に来たのは数日前です。授業に出るのもこれが初めてですから、おそらくは人違いでしょう」
「いや、確かにどこかで。話をしたこともあると思うんだ」
 セルジュが考えこむ前で、少女の唇がはっきりと引きつる。彼女はそのまま、あからさまに一歩を退いた。
「声をかけやすい女生徒なら他にいるでしょう。そうまでして呼び止める価値が、私にあるとは思えませんが」
「は? あっ、いや、そんなんじゃ」
 ぱっと彼女の手を放す。一歩二歩と距離を取ろうとする姿に今度こそ胸が痛んだ。
 対峙しているのは初対面の少女だというのに、思い浮かぶのはダヴィドのにやけ面ばかりだ。愛だ恋だと騒ぎ立てる声が聞こえるような気がして、セルジュは思わず顔をしかめてしまう。
「思い違いならいいんだ、呼び止めて悪かった。誓って他意はなかった」
「いえ。失礼しても?」
「ああ、うん。もちろん。……けど、次の授業もそちらと同じじゃないかと思うんだ」
 机に置き去りにされていたものと同じ教本を、セルジュは自分の鞄の中から抜きだす。今しがたダヴィドに指摘されたばかりの一冊だ。少女は革表紙を一瞥し、「それがなにか」と同じ調子で問い返す。
(ずいぶん嫌われたな)
 苦いものを喉奥に押し込む。セルジュは努めて平静に口を開いた。
「学院に来たのはつい最近みたいだし、詫び代わりに、教室まで案内する。あの教室なら一度外に出た方が早いと思う」
 ただでさえ広い校舎は、複雑に入り組んだ階段や渡り廊下のためにより一層迷いやすいつくりになっている。セルジュ自身、入院して数週間は幾度も迷って教師に助けを乞うてきたものだ。
 中央を走る廊下を行けば確実だとはいえ、遠回りをする羽目になる。どうだろう、と念を押せば、少女はしばらく考えこむそぶりを見せてから頷いた。
 爪の先ほどの信頼ならば勝ち得ているらしい。セルジュはほっと息をついた。
「俺はセルジュ・フェネオン、ここでは六年目だ」
「イシュティアです」
「……ええと、家名は」
「必要ですか?」
 少女の声が冷える。信頼は揺らぎやすいのだと思い知らされて、セルジュは苦笑しながら首を横に振った。
「教室に着いたら知り合いを紹介する。この時期の入学じゃ友達も作りにくいだろうし」
 年齢にも出身地にも違いの出やすい環境なのだからなおのことだ。神官としての卒業という同じ目標を掲げている以上、放っておけば自然と他人を敵視するようになる。新入生がそれでは暮らしづらいことだろう。
 誠意を尽くしたセルジュの案内に、イシュティアは「はあ」「そうですか」と気のない相槌を返す。そこに突き離そうとする響きが無いのは救いだった。時には戸惑うように視線を揺らすので、どうやら彼女は他人との付き合いに慣れていないだけらしい。
 長い廊下を渡り、中庭を横断して、目的の講堂へとたどり着いた頃には、既視感の正体を探る気も失せていた。扉を押し開けば、学徒たちの談笑と高窓の光が漏れだしてくる。
「神学院へようこそ、イシュティア」
 ここがお前にとって安らかな場所になりますように。決まりきった歓迎の文句に、イシュティアは無言で目を細めていた。