「それで、逃げてきたのか。一矢報いることもできずに?」
 黄昏どき、書物の頁が茜色に染め上げられる頃。図書室の椅子に体を預けたハルミヤの傍らには、当然のようにラケイユの姿があった。
 ハルミヤの顔を見るや小鴨のように寄っては来たが、どうやら任ぜられた仕事がまだ終わっていないらしい。一抱えほどの本を机の上に置いて、端から題の確認を行っている。その片手間に例の連れはどうしたのかと問われたので、ありのままを話してやったのだった。
「……別に逃げたわけじゃない。それ以上話をすることに意味を見出せなかっただけだ」
「いくらでも言いようはあるだろうけど」
「おい、なんだその言い草は」
 ハルミヤが食ってかかろうとしたところで、ラケイユは手早く書物を崩し終える。遠方から新たな山を抱えてくると、また表紙と背表紙との点検を始めた。紙の束とはいえ革表紙のつけられた貴重品であるため、扱いは当然慎重になる。それを差し引いても、彼は常人離れした速度で仕事を進めているようだった。
「ああ、それで? どこまで話したかな」
 けろりとした顔で問い返される。ハルミヤはふんと鼻を鳴らした。
 先ほどからこの調子だ。反撃を浴びせかけようとすれば、見はからったかのように話の腰を折られる。体よくいなされているようで、どうにも腹の虫が収まらない。そっぽを向いたハルミヤを見かねてか、ラケイユは小さく溜息をついた。
「俺としては」書物を机に下ろし、一度手を止める。「そこまできみが執着していることのほうが不思議に思えるけどな。馬鹿馬鹿しいと思うなら聞き流せばいいし、付き合いをやめたいなら突き離せばいいんだ。それこそ過去のきみのように」
「……私が、奴らに、執着?」
「違うのかい」
 否が応にも呑みこまされる。考えさせられる。投げかけられたラケイユの声は、そこに確かな強制力を秘めていた。
「きみの軌跡は一瞬のものだ。そこに何を残すとも、何も残さずとも。ここをただの経過点と見なすも、確かな足場と見なすも、きみの自由」
 まあ、もちろん。そんな一声が、彼の表情をがらりと塗りかえる。
「こうしてたびたび逃げてきてくれるなら、俺は喜んできみを迎え入れるけれどね」
「黙れ」
 そうして軽やかに笑われるので、一瞬でも真面目に受け止めた自分さえ愚かに感じられるというものだった。ハルミヤは机に頬杖をつき、脱力しかけた体を押しとどめる。
 断言を避ける男だ、というのが、ラケイユという青年から受ける印象のひとつであった。真理めいた言葉で胸の奥底をつついたかと思えば、次の瞬間には、その切っ先を虚言に覆い隠してしまう。数多の揶揄は距離感を曖昧にし、決して本心を掴ませようとしない。
(だが)
 彼の感情のさざめきは、いつからか、ハルミヤの目の前にちらつくようになっていた。それが意図してのものであるのか、単なる気の緩みであるのかは定かではないが。
「――何か?」
 まじまじと見つめていたのに気付かれる。「別に」と返してやったことが、発話の契機になったようだった。ラケイユは本の山を自分から離し、ようやく姿勢を整える。
「それで、きみはどうしてまたここへ? 今度は俺に気付かなかっただなんて言い訳は通用しないよ」
「人探しだ」
「ほう」
「ひとり、神殿騎士を探している。バルク・ロア……二十ほどの男だ。噂が上がっているようなら知りたい」
 ラケイユはいくらか考え、ああとひとつ瞬きをする。
「きみが失踪する日に、図書館に来ていた騎士殿かな。長身の」
 息が詰まる。思わずしかめ面になった。
 よく憶えている、などと、口にするだけ野暮なのだろう。ほんの噂話から他人の評判まで、有用と見ればどんな断片も取り逃さないような男だ。ハルミヤが渋々肯定すると、なるほどと頷かれる。
「申し訳ないけど、そういった話は聞かないな。きみの方についていたのかい」
「宿房が襲撃された際に、手引きをされた。命を救われているんだ」
 表沙汰にはされなかった事件だ。当日の人払いにも点検という題目がつけられ、生徒たちのうちにも真相を知る者はいない――刺客が神殿の手の者であったことはおろか、ハルミヤが狙われていたことさえも。だがその一件で、彼は神殿内での立場を悪くしたに違いないのだ。
「その騎士殿はもちろん貴族の出自なんだろう? 人目も気になるはずだ、神殿も表だって処刑を行うことはしないと思う。そもそも命を奪うのは早計だろうな、きみの行方を吐かせたいなら査問にかける程度は、……ああ、すまない」
「いや。当然のことだ」
 言いながら、自分の眉間にしわが寄るのを感じていた。
 あの日、バルクは転移陣を用いて、ハルミヤを都の外へと飛ばそうとした。刺客の介入は転移先を逸らすことに成功したが、行きついた先が雪原であったことを知る者などいるはずもない。万が一にも生き延びた可能性を考慮するならば、バルクを尋問するのが何より手っ取り早いだろう。
 首尾よく所定の転移先を吐き出させたところで、ハルミヤがそこにはいない。ともなれば神殿は、バルクの虚言を疑うだろう。問答はくり返し、ハルミヤが姿を見せるまで続けられる。――そこに暴力が伴わなかったなどと、どうして言いきれるだろうか。
「お嬢さん」
「……、なんだ」
 暗い想像に没頭していた。顔を上げれば、ラケイユの痛ましげな表情とかちあう。いたたまれなくなって視線を外した。沈黙の果てに、いいんだ、と首を振った。
「私はあいつを犠牲にすると告げて、あいつはそれを了承した。もう、決着はついている。今になって蒸し返す話でもなかったんだ。忘れてくれ」
 悔恨は、いくら掘り返しても悔恨の形をとってそこにある。消えることも、昇華されることもなく、ただ現在を苛む棘として。
 期待をかければ、落胆する。思い知らされた。それがわかれば十分だ。
「難儀だな、きみも」
 ぽつりと告げられた、彼の一言が会話を打ち切った。
 錆色の夕陽は、その光の末端を紫紺に溶かし始めている。ひときわ重々しく鳴り響いたのは、生徒の退出を促すものだ。いくらかの猶予を残し、やがて教室は端から施錠されていくだろう。二人が残っていた図書室も例外ではない。
 ラケイユは立ち上がり、山積みの書物を空いた棚に詰め込み始める。あらかたの整頓を終えたところでハルミヤにふり返った。
「送ろうか」
「いい。一人でいた方がよほど安全だ」
 的が増える、とだけ付け加えてやる。ハルミヤの力を思い出したのだろう、ラケイユは「そうだな」と素直に引き下がった。椅子の整理、棚の戸締り、と退室の準備が整えられていく傍らで、ハルミヤはぼんやりと窓の外を眺めていた。
 図書室は王都の街路に面している。並木道は中央街へと続いているが、黄昏時に街へ出ていく学生はいない。人気のない道はもの寂しく、ざわりとゆらめく木々の葉がそこに不気味さを添えていた。
「ん?」
 ふと、街路に長い影が落ちる。その後ろ姿に既視感を覚えて、ハルミヤは思わず窓に寄った。
 肩先で踊る茶の髪と、法衣越しにも華奢と分かる体型。足取りはどこか頼りなく、コレットにつき従う少女と一致して違わない。
「……リディ?」
 おかしい、と呟く。彼女は宿房住まいのはずだ。さらには臆病なきらいのある少女が、ひとりで夜の街へと繰り出すようなことはありえない。しかし見間違いと切り捨てるには、その後ろ姿はあまりにも彼女に似すぎていた。彼女が街角へ消えていくのを、ハルミヤは呆然と見送ることになる。
「イシュティアっ!」
 図書室の扉が乱暴に開かれたのは、そのときだった。
 切羽詰まった形相で飛び込んできたコレットに、セルジュとダヴィドが神妙な面持ちで続く。彼らは図書室に二人以外の人影を探し、それが無いと気付いて一様に唇を引き結んだ。コレットはハルミヤの袖に縋り、震える息を吐きだす。
「ねえ、イシュティア。あの子……リディ、ここに来ていない?」
「リディが、なにか」
「あの子、今日は昼で授業は終わっているはずなの。いつもだったらすぐに帰っているのに、宿房にも学院にも見つからなくて」
 幽鬼のように歩いて行ったリディの姿を思い出す。ならばあれは幻覚ではなかったのだ。コレットは唇をやわく噛んで、すん、と鼻を鳴らした。
「人攫いだとか、密売人だとか。王都じゃ珍しくもないでしょう。学院の生徒なんて格好の的だわ。リディはぼんやりしているし」
 ちゃんと見てやればよかった。私が、ちゃんと。今にもうずくまりそうなコレットを支え、ハルミヤは目を細める。
「リディなら、先ほど、そこの道をひとりで歩いていきました」
「え……そ、それで、どこに!?」
「町へ出たのでしょう。どこへ行くのかまでは分かりませんが、中心街へ向かったように見えました」
 内気な少女が一人、友人にも行き先を告げずに向かう先。その目的地には見当もつかないが、楽観視もしていられないだろう。藍色の法衣は学院生の身分を証明する一方で悪目立ちする。コレットが口にしたような悪漢に狙われる危険性も拭えなかった。
 嫌な予感に導かれ、コレットの顔色をうかがう。急き立てられるように、彼女は早口で言った。
「追いかけなきゃ」
「あなたがひとりで? それとも」セルジュらを一瞥する。「三人で行くとでも? どちらにせよ危険なことに変わりはないでしょう」
 教員の手を借りるなり、護神兵の協力を仰ぐなりすればいいのだ。一生徒である彼女らにはそうする権利があるのだから。諭してもコレットは聞く耳を持たない。
「そんな暇ない。こうしている間にも見失うかもしれないもの。危険なのはリディも同じだわ、ううん、あの子の方が、私なんかよりずっと。……ありがとうイシュティア、私、行ってくるから」
 ハルミヤの手を離れ、来た時と同じように走り去っていく。慌ててダヴィドが後を追い、セルジュはそれに続こうとして一度足を止めた。
「悪い、あいつは俺たちでなんとかする。できることなら大人を呼んでくれないか。杞憂でも、しないよりはましだと思うから」
 反論の余地もなかった。嵐のように姿を消した三人を、ハルミヤは舌打ちで見送る。
(どいつもこいつも、まるで後先を考えない……!)
 ひとりで外出したコレットも、それを単身追いかけるコレットも、三人であれば“なんとか”できると考えているセルジュらも、だ。苛立ちまぎれに机を殴りつけたハルミヤを、ラケイユの気遣わしげな瞳が眺めていた。