舌打ちは何度目を数えただろうか。
 ひたすらに、ただひたすらに、細い道を走り続けていた。途切れぬ射撃と風の音はハルミヤの神経をすり減らし、疾走に慣れない足はすでに悲鳴を上げている。
 視線を廻らせたところで射手の姿は見えない。逃走をおろそかにすれば格好の的になる。表通りへと出ようものなら誰を巻き込むとも知れなかった。
「……くそっ」
 背に迫る矢じりを術で弾き返して、ハルミヤはそこにわずかな違和感を悟る。
 編み上げた風がかき乱されるような感覚。思わず足を緩めると、すかさず二本目が向かってくる。それまでと同じように吹き飛ばそうとしてはっとした。
 矢が、風に、食い込んでくる。まるで弓弦以外の力がこめられているかのように、逆風を受けながらなおも直進しようとするのだ。慌てて矢羽根を切り落としたところでようやくその勢いは弱まり、重力に従って落下した。
(法術……?)
 ハルミヤの術に対抗すべく、法術を用いて矢を放ったのだろう。単純な押し合いになれば負ける理由はないが、背から放たれれば厄介だ。震える体に鞭を打って、再び逃げ込める屋内を探す。
(法術を用いるのは、護符を持つ人間だけ)
 いくら探しても、裏道に向けて軒先を構える商店は無い。そればかりかハルミヤの耳には、どこからか自分を追う靴の音が届いてきていた。宿房を出た夜の出来事が否応なく思いだされて、足が竦みそうになる。
(護符を持つのは、神殿からの許可を得た人間だけ)
 ――そして、その神殿を動かす者は。
 踏みつけたところから、地面が崩れていく心地がした。一度立ち止まれば座り込んでしまいそうだった。転ばないでいられたのも、急き立てられるように走り続けていたからだ。
 それでも膝は笑い出す。呼吸は震えた。歯を食いしばり、足元を睨みつけて、走る。ゆえに目先の注意が散漫になった。直角に道を変えたところで人影と衝突したのだ。ぐらり、弾かれかけて、必死に体を引き戻した。
「屈め!」
 反射で叫んで、目前の男を押し倒す。矢はすんでのところで頭上の空気を切り裂いていった。
 誰を巻き込もうとも矢は放たれる。それを実感して怖気が走った。神殿はどんな犠牲を払ってでもハルミヤの存在を消そうとしているのだ。
 命を奪うと分かっていて、他人の傍にはいられない。自分の身に気を払うので精一杯なのだ。ハルミヤは急ぎ踵を返そうとするが、走り出す段になって手首を掴まれた。
 放せ、死にたいのか。怒鳴りつけようとして凍りつく。自分に向けられた蜜色の瞳は、鋭い光を宿していた。
「よく会うな」
 転がっていた体を起こし、けれども腰は下ろしたまま。法衣をまとったラケイユが口元を引きつらせていた。
 ハルミヤを繋ぎ止める手の力は存外に強い。しかし痛いほどのその力も、今は意識の彼方にあった。呆けたまま、お前、どうして、と切れ切れに呟く。
 ひゅうん、と、唸った矢にハルミヤの意識は引き戻される。咄嗟に術で払い飛ばしはしたが、法術の残滓は未だに感じられるままだった。苦い唾を飲み込んでラケイユを見下ろす。ふり払うように腕を振るっても、彼の手はきつく握られたままだ。
「おい、手」
「追われているのか。……いや、話をする時間もないのか」
「……っ、ああそうだ、その通りだ! 早く手を放せ、お前の戯言に付き合っている暇は無いんだ!」
 こうしている間にもいつ射抜かれるかとも知れない。研ぎ澄まされた集中は、いまもじりじりとハルミヤの精神を蝕んでいた。深い呼吸もできないままでラケイユを睨みつけると、彼はハルミヤを落ちつかせるように、緩慢な動作で瞬きをした。
「それならなおさら放せない。俺について来てくれ」
「はあ!?」
「言い訳も申し開きも後でする。今は逃げ伸びることが先決だろう」
 説得の形を取りながら、そこには有無を言わせぬ響きが込められていた。ハルミヤに逡巡の暇も与えぬまま、ラケイユが強く腕を引く。やむなく追走すれば、手首はようやく解放された。
 路地裏を縫うように駆ける。方向感覚はすぐに狂わされた。自分が今どこを走っているのかも忘れそうになりながら、ハルミヤは前を行く青年の背中だけを追いかけ続ける。間が開きそうになれば速度を緩めるだけの気遣いを見せるのが腹立たしかった。
「こっちに」
 角を曲がり、指示されるままに目先の垣根をくぐる。いつしか迷い込んでいたのは巨大な庭園だった。一面の芝の上には規則正しく針葉樹が並び、素朴な花をつけている。それらを遮蔽物に遊歩道を走り抜けて、間もなく見えてきた小屋の中に駆け込んだ。
 ラケイユが素早く扉を閉じる。矢が届かないことを確かめ、そこでようやくハルミヤはしゃがみ込んだ。
 うまく呼吸ができなかった。空気を吸い込もうとしても、ひゅうひゅうと悲鳴に似た音が漏れるのだ。胸を抑え、何度となく咳き込んで、なんとか酸素を取り入れることに成功する。そのころになって、両の足は思い出したかのように痛みを発し始めた。
「港でも驚いたけど。体はよくなったのか」
 肩で息をするラケイユに見下ろされる。挑むように睨みつけてやると、苦笑と共にかぶりを振られた。
「踏み込むつもりはないよ、ただの確認だ。他意はない」
 疲労がそうさせているのだろう、ラケイユの口調からは揶揄するようなくぐもりが消えていた。ハルミヤは彼をじっと見据えてから、深い息をついて、ああ、と答える。しかしすぐに「いや」と打ち消した。
「よくなったんじゃない。昔の体が、私の普通なんだ。今は自分の体を騙しているだけで」
「体を騙す、か。まるで神子のようだ」
 実際にその通りなのだろう。ハルミヤはそれとなく視線を逸らす。命龍の力で寿命を引き延ばす神子も、銀龍の力で人並みの体を得た自分も、本来の命に目くらましをかけているに過ぎない。盟約が解かれたが最期、元の体に逆戻りだ。
 ハルミヤが黙りこんでいると、ラケイユはその目の前に腰を下ろす。ぎょっとして距離を取ればくつくつと笑われた。かと思えば彼は次の瞬間には瞳に神妙さを取り戻し、背筋を伸ばして見せる。
「命を狙われていたんだろう。あの法術、相手は神殿か」
「……ああ」
 事情を明かすことは得策か、否か。明かすとすればどこまでを。胸中で画策しながら、ハルミヤは相手の出方をうかがっていた。ラケイユは一度よそを向いて考えるそぶりを見せたが、誤魔化すように首を振った。
「きみも敵を作るな」
「命まで奪われる筋合いはない。エツィラが神子になるのは百歩譲って理解するとしても、執拗に私を狙うのは何故だ」
 エツィラを神子に押し上げる、その目的は達成されたはずだ。ディルカ姓であったこと、双子の姉がいることを民に知られたくないのか。それとも神子という存在を俗世間から切り離したいのか――自らの思考を整理するように、ハルミヤはぶつぶつと呟き続ける。ラケイユはその様子を静観していたが、言葉の切れ目を見計らって口を挟んだ。
「学院を離れたのも刺客を放たれたからか。いつ」
「宿房に人払いがされただろう」
「残念だけど、俺は宿房を借りていないからね」
 宿房に居を置いていないということは、彼は王都の生まれであるのだろう。中心街近くに位置する宿房に毎日通ってこられるだけの身分だということだ。貴族か、商人か、と頭を巡らせようとして、そこに意味のないことを悟る。
「クレマン司祭が学院にいらっしゃった日の夜だ。私とエツィラを、神子の候補にと仰って」
「なるほど、そうしてきみ本人との接触を図ったのか。前々から殺すつもりでいた、と……本当に心当たりはないのか? 神殿の弱みを知っていたり、信仰の害になる言動をした覚えは」
「それはお前のことだ」
 命龍信仰への疑問を吐き出し続けていたのをよく覚えている。不敬だ不道徳だと罰を受けるなら彼であるべきだ。けろりとした顔でいるので反省はしていないのだろう。
 秘め事が多いのはハルミヤだけではない。ぐるりと見渡した小屋の内装は、いかにも仮住まいといった風体をしていた。目立つ家具は文机と寝台ぐらいのもので、他には何もない。天井からは年季の入った干し肉や根菜が吊られている。それでも放られた羊皮紙の束を見れば、その小屋の主が相応の身分を持つ人間であることは察せられた。
 ハルミヤが周囲をうかがっているのに気付いたのだろう。ラケイユはああと声を上げた。
「俺の師の仮住まいだよ。今は留守にしているようだけど」
「ルクレールとかいう男のことか」
 港町で彼と同行していた老人だ。指摘すれば、ラケイユは目を瞠る。
「ああ、うん、その通りだ。鋭いな。さすがに悟られるか」
「本名かどうかも知れない名だがな」
 確かなのは剣の腕と、老獪さを帯びた眼差しだけだ。威圧感は巧みに覆い隠されていたものの、面と向かって張り合ったなら気圧されそうでもあった。
「学術と剣術、立ち居振る舞いを、幼い頃から教わってきた。頭の上がらない相手だ。……とはいっても、学院で学んでいた古代神学や占星術のほうが、俺にとっては何倍も関心の向くことだったけど」
「わざわざ教育を受けるまでもないということか。恵まれたご身分だな」
 学院にしがみついた自分からすれば、よほど。吐き捨てたハルミヤに、ラケイユは薄い笑みを向けた。
「恵まれているかどうかは、自分が決めることじゃないかい?」
 息を詰め、唇の裏を噛む。
 胸のうちまで見透かされた心地がした。しかしラケイユはそこに何を求めるでもなく、中身を一瞥するだけで目を背けていく。あとには蠢く不快感が残っているだけだ。そのまま目をそらしているかに思えたラケイユであったが、沈黙の後に再び唇を開いた。
「ああ、訊きたいことがもうひとつあったんだ」
「……なんだ」
 身構える。無粋な問いかけを振り払うだけの覚悟はできていた。不安になるほどの間をおいて、ラケイユは顔を上げる。
「きみはどうして――」
 その声は、唐突な騒音にかき消された。
 小屋の扉が力任せに叩かれているのだ。窓のない屋内からでは相手の姿形を見極めることすらかなわないが、その主が二人に害なすものであることだけは確かだった。刺客の一員か、と確信して、ハルミヤは腰を浮かせる。
 頼りない鍵はいつ壊されるかも不確かだ。身を固くしている間にも、扉を蹴破ろうとする衝撃は力を増していく。ちらとラケイユに視線を向ければ、唇を引き結んで扉を見据えていた。
(策は無い、だろうな)
 ならば自分から打って出るべきだ。宿房に襲撃を受けた日のように、扉を吹き飛ばす――その光景を思い描きながら、ハルミヤは術を編み上げていった。人智を超えた存在の力を引き出し、手に籠める。こぼれ落ちた風が銀糸をすくった。
 そのまま解き放つ、つもりでいた。しかしすんでのところでハルミヤはそれをかき消す。扉をたたく音が急に途絶えたからだ。
「私などのぼろ小屋に、一体何の御用ですかな」
 低い声が耳に入る。それがルクレールのものであると気づいたときには、背後のラケイユがゆっくりと立ち上がっていた。