追手は第三者の介入に意気を削がれたらしい。軽く、扉に手を置く気配があった。
「この小屋の中に、神子を騙る娘が逃げ込んだと報告があった。我々はその娘を捕らえるべく」
「人の家の扉を叩き破ろうと? 護神兵の方々も随分と乱暴なことをなさいますな」
 ルクレールの声は小さいながらも明確に通る。状況までは飲み込めていないのだろうが、どうやら機転の働く男ではあるらしい。家の中へと追手の情報を伝えようとしているのだ。
(護神兵か)
 彼の言葉を反芻する。部外者が一目でそれと見て取れたということは、彼らは正装でこの小屋に押しかけているのだろう。神子行列の途中にハルミヤの姿を認めて狙いを定めたと考えていい。人の目を引いたのは失敗だったか、と今になって歯がみする。
「このような小屋に押し入ろうとする者などおりません。いるとしても私の教え子ぐらいのものでしょう、先のように脅かせば怯えるばかりです」
「中にいるのが知り合いだというなら、早く扉を開けさせろ。娘がいるかどうかは我々が確かめることだ」
「ふむ」
 必要ありません、と、割り入る声があった。
 自ら鍵を開けたラケイユが、彼らの前に姿を見せたのだ。無害な学徒を装っているつもりか、声色は弱々しい。しかしその口が紡ぐ言葉は普段通りに滑らかだった。
「護神兵の皆さんとはつゆ知らず、大変失礼いたしました。師の小屋で休んでいたところに突然扉を叩かれたものですから。臆病なこの身をお許しください」
「ふん、まあいい。そこをどけ」
「師が申し上げましたとおり、私の他には誰もおりませんが」
「二度とは言わんぞ。どけ」
 木の床を、鉄の足音が踏みつける。狭い小屋の中は三人が入り込めば窮屈だった。寝台の中、文机の下を、彼らはひっくり返すようにして調べていく。どこにも目当ての娘が見つからないと知って、苛立ち紛れに壁を殴った。その矛先は、次に間近な青年へと向けられる。
「おい、娘をどこへやった」
「ですから誰もおりませんと」
 しらじらしい声が続く。さぞかし怪訝そうな表情を繕っているのだろう、とハルミヤは密かに眉を寄せていた。しかし急いた足音の後に、ラケイユは微かな呻きを上げる。胸倉を掴みあげられたのか、息を詰める気配があった。
「これ以上隠しだてをするつもりなら、代わりにお前を神殿に引き立てていってもいいのだぞ。異端者の烙印を押されたいのか」
 その言葉は脅しでも比喩でもないのだろう。神殿に背く者は素肌に焼き鏝を押しつけられ、一生の恥を背負って生きていくことになる。ハルミヤの居所を吐くまで拷問を課されるか、それとも首を落とされるか、彼に待つ未来はその二つのみだ。
(……落ちつけ)
 床下から飛び出しかけたハルミヤを抑えつけたのは、身を隠す直前に命ぜられた企てであった。
 鼓動を速めた心臓をいなし、深い呼吸を行う。外の景色を見たのは一瞬であったが、そこに並び立つ木々を思い浮かべるのは容易だった。音が届かぬほど遠くもなく、目に見えるほど近くもない一本、その幹を狙い、術を紡ぎ上げる。
 ずうん、と、遅れて届いた衝突音が成功を告げた。護神兵はひとつ舌打ちをして、慌ただしく小屋を離れていく。足音が耳を離れるまで、ハルミヤは息をひそめて耐えていた。
 長い沈黙が耳をつく。頭上の板が叩かれたのはしばらく経ってからだった。
「お嬢さん。そろそろ」
「ああ」
 暗闇に光が飛びこんでくる。鮮烈なそれに一度だけ目を細め、ハルミヤは腰を上げた。ひっかきまわされた形跡を残した室内には、もうラケイユとルクレールの姿しかない。
 無造作に手が差し伸べられるのを、呆けた顔で見つめ返す。はっとして目を背けた。自力で這い上がるとラケイユは苦笑する。
「出ていく前に埃を払っていくのをお勧めするよ。せっかくの蒼玉だ、曇っていたら勿体ない」
 あっけらかんとした口調の彼をまじまじと見る。顔に傷や殴打の痕のないことを確かめて、ひそかに息をついた。
 彼が提案したのは、護神兵が家に入ったのを見計らって遠方の植樹を切り倒すことだった。あらかじめ指示された方向には別の路地へと繋がる抜け道が存在している。そちらへ逃げたと思わせることが狙いだ。成功したからいいようなものの、と怨みがましく睨んでやったところで、ラケイユは意に介する様子も見せなかった。
「今ので粗方撒けただろう。広い道まで送って行こうか」
「いや、一人で帰れる。元の通りに戻ればいいんだろう」
「もしもまた見つかったら」
「そのときは自分でどうにかする。……迷惑をかけたな」
 面食らった表情をしげしげと眺め続けるつもりはなかった。素早く視線を移して「ルクレール殿」と呼びかけ、老人に向かって深く腰を折る。
「この度はお騒がせ致しました。扉の修繕費を支払うことは叶いませんが……」
「どうかお気になさらず。貴女には一度命を救われております、扉ぐらいは安いものでしょう」
「……本当に、申し訳ございませんでした。失礼致します」
 最期に再び頭を下げる。身を翻して小屋を後にすれば、頭上には茜色の空が広がっていた。
 たなびく白雲を眺め、小さく溜息をつく。思いのほか逃亡に時間をかけていたのだ。この調子では、宿に到着する頃には日が沈んでいるだろう。夜道を歩くことに抵抗は無いが、クロエやアルヘナを置き去りにしたままでいるのが気がかりだった。
 足を急がせようとしたとき、お嬢さん、と呼び声がかかる。振り向けば、ラケイユが遊歩道の中ほどまでを走ってくるところだった。
 助けられた身では無視することもできず、しかし駆け寄ることもできないままで立ちつくす。その間にラケイユはハルミヤの目の前までたどり着き、軽く息をついた。
「きみが、何をするつもりでいるかは知らないが。身を隠すならいい場所を知っている。それでいて、きみの望む情報が手に入るかもしれない場所をね」
 考えさせるような間があった。
 ハルミヤが答えに窮しているのを見て取ったのだろう、ラケイユは一言、「学院だよ」と告げた。
「望むなら話を通しておく。見張りを遠ざけることぐらいならできるだろう。あとはきみ自身が行って、学院長と話をすればいい」
 ハルミヤは口ごもったまま青年を見据える。
 思っても見ない幸運だった。学院組織や理事長が味方であるかどうかはさておいても、学院長を敵だと断じることはできない。彼の手まわしによって、ハルミヤは逃亡の機会を得たのだから。
(だが)
 信じていいのか。ハルミヤは自らに問いかける。
 ラケイユは何ひとつとして自らの身分を明かしていない。学生であるはずの彼が港を訪れていた理由、刺客に追われていた理由、そしてルクレールがいかなる立場にあるのかすらも隠されたままだ。
(優しいばかりの人間は、いない)
 痛いほどに思い知ってきた。信じてきたはずのエツィラや神殿にさえ裏切られた。それでも、まだ、他人の手を取ろうというのか。傾きかけた思考の針を押しとどめて、ハルミヤはゆっくりと顔を上げる。
「信じるに値するのか」
 気付けばそう問うていた。
 肯定、否定。どんな答えも断定の根拠にはなり得ない。そう理解しながら、問わずにはいられなかった。仰いだ先で、ラケイユはしかし首を横に振る。
「申し訳ないけど、安心も導きもやれないよ。俺に与えられるのは選択だけだ。選ぶのはきみ、その結果に立ち会うのもきみだ。……それでも、個人的な望みを言うことが許されるなら」
 祈るかのように、ゆるやかに目蓋を閉じる。
「俺はまだ、きみの背中を見ていたい」
 ぴくり、と、指先が跳ねる。
 唾棄することはおろか、口を動かすことさえできなかった。詩歌じみた揶揄にはうんざりしていたはずの耳が、彼の声をいつまでも反響させていた。わずかに瞠目したまま固まる、目の前で、ラケイユは一度だけ頷いてみせる。
「明日の昼時だ。その気になったら戻ってくればいい」
 待っている、とも言わぬまま、ラケイユは来た道を帰っていった。今や芥子粒ほどの大きさにしか見えない扉が閉められるのを、ぼんやりと見送る。
(せな、か)
 そこには何もない。背負った荷は自分だけのものだ。ならばその背を見つめることに、何の意味があるというだろう。
(……私の背は)
 一体どれほど細く見えるのだろうか。
 自分の立ち姿を、自分で眺めることは叶わない。それでも思いを傾けずにはいられなかった。

     *

「立ち姿の美しい方でいらっしゃいますな」
 ラケイユが小屋に戻るや否や、ルクレールはぽつりとそう言った。
「まるで杉のようだ。頼らず、曲がらず、ひとりきりで立っておられる。私の目にはそう映りましたが」
 あなたの目には。問いかけられて、ラケイユは目を伏せた。
 ひとりきり。確かにそうなのだろう。いっそそうであることに固執しているようにすら見える。しかし彼女には、孤独であることを誇りもしないのだ。太陽のような傲慢さを持たず、かといって月のような静謐も抱けぬまま、頑なにひとりであろうとしている。
 ゆえに彼女は星なのだ。凛と、されど寒々しく、瞬くばかりの。
「瞳が」
「ふむ?」
「瞳が、美しいでしょう。……同じ瞳の色を、俺は目にしたことがあるけれど」
 同じ姿、同じ顔をした少女は、姉とは正反対の表情で笑う。濃青の瞳は光を乱反射して煌めいていた。
(それでも、違う)
 彼女の瞳に、寂寞は無い。諦念は無い。焦燥も、回顧も。生き映しでありながら、本来瓜二つであるはずの瞳の輝きだけが明確に異なっている。眩い光に焦がされる自分の目には、うつろう陰りのほうがよほど色濃く映って見えた。
 浮かされたように笑む。ルクレールは渋い顔でそれを見つめていた。
「……まるで、恋をしておられるかのようだ」
「恋、」
 一度くり返して、ああ、と、吐息混じりの声を漏らす。
「星に焦がれ、畏敬を抱き、手が届かないと知りながら見つめ続けることを恋と呼ぶなら」
 右の掌を開閉させ、握りしめていたはずの手首の感触を思い出そうとする。しかしそれは叶わず、冷えた空気だけが通り抜けていく。
「俺は、恋をしているのかもしれませんね」
 触れるつもりはない。捕らえるつもりも、手元に置くつもりもないのだから、牙がないと例えられたのも、あながち間違いではないのだろう。わだかまった体温の幻を振り払うように、ラケイユは首を振った。