背の高い建築物に、柱はすらりと立ち並ぶ。色硝子を埋め込んだ窓はまばゆく光を照り返している。吊り下がったランプには飾り細工が凝らされ、なだらかな石段は規則正しく積み重なっていた。
 そこは王都のうち、最も華やかな中心街。身なりの整った町民が行き交う富裕層の住居区だ。
 薄鈍、碧、茶、多色の煉瓦が無秩序に並んだ街路を、馬の蹄は軽やかに叩いてゆく。積荷を乗せていた馬は王都に到達するなり散り散りに道を分け、残された幌馬車だけが大通りを横切っていた。
 路面は整ったが馬の歩みはむしろ鈍った。普段から人通りの多い中心街が、今日は異様な盛況ぶりを見せているせいだ。あちこちで人波に呑まれては遠回りを喰らうはめになり、ようやく広場にたどり着いたころには、御者も髭面に疲労を滲ませていた。
「そら、着いた。この馬車が最後らしいな」
 御者の言う通り、先に停車した幌馬車は次々と乗客を吐きだしている。
 たむろする人々の中にラケイユらの姿は見えない。到着し次第素早くこの場を離れたのだろう。ならば幌馬車に忍びこんでまでハルミヤを呼び出したのは、他に機会を持たなかったためだ。理解はしたものの、どうしても納得はできなかった。
 とはいえ、いつまでもここにいない相手のことを考えているわけにはいかない。目前の御者の手が乗り賃を求めているのだ。銅貨を数えて手渡せば、御者は手短に礼を述べて馬首を返した。
「王都は広いね」
 港には大きな関心を示したクロエも、とうとう感嘆するのに疲れたらしい。呑まれたように「人がいっぱい」と呟いたきり黙りこんでしまう。ハルミヤは喧騒をぐるりと見渡して首を振った。
「普段はこんなに賑わっていない。貧民も集まってきているな」
「貧民?」
「都の外周沿いに住んでいる。住みついている、と言うほうが正しいかもしれないが」
 遠い物事のように言う自分に、ハルミヤは内心で呆れていた。自分のような孤児院の子供たちも、本来はその貧民街に捨てられていたのだ。街並みをおぼろげにも思い描けないのは、拾われたのがほんの赤子のころであったからだろう。
 学院と神殿、そして孤児院を取り囲む数地区。ハルミヤが覚えているのはそれだけだ。
 幸い下ろされた地区には見覚えがあった。大通り沿いに位置する商業区と、学院に続く並木通りが交差した十字路だ。数ヶ月前に見たきりの街路には新しい家々が並んでいたが、記憶を探るのに支障はない。
「クロエ、私が言ったことは覚えているな」
「うん、……だけど、本当にいいのかな」
「使わない特権に何の意味がある」
 不安を見せたクロエが纏っているのは、つい先日まではハルミヤが身に付けていた法衣だった。腰紐で限界まで裾を吊りあげ、袖口は大きくめくり上げている。傍目から見れば滑稽な出で立ちではあるが、成長期を見越した学院の新入生であれば誰もが同じ格好をするものだ。
 代わりにハルミヤは、頭を覆うフードをかぶって立っている。神子と同じ顔で歩けば人目を引くだろうと考えてのことだった。
「お前は宿に行って、学院の生徒だと言えばいい。アルヘナは故郷から訪れた親戚を演じて……いや、黙っていろ。口を開くな」
「誰が好き好んで人間などと口をきくものか」
「それでいい、頼むから余計なことを言うなよ」
 学院の生徒にはさまざまな特権が与えられている。親族の王都宿泊費が不要となることもその一つだ。あらかじめ指定された宿に限り、学徒の申告があれば、無料で部屋を借りることが可能となる。その際に身分の証となるのが学院の法衣だった。
 裏を返せば、法衣さえ認められれば個人の認識は行われない。学院の生徒が法衣の常時着用を固く義務付けられる理由でもあった。
「私は用事を済ませてから行く。宿には姉が来るとでも伝えておいてくれ」
「わかった」
 クロエが大きく首肯する。気合の入った返事を聞いても、ハルミヤの憂慮は積もるばかりだった。
「本当に大丈夫なんだろうな。ぼろを出すなよ」
「もう、ハル、馬鹿にしてるでしょう」
 頬を膨らませる姿は年相応の少女そのものだ。故郷の村落で見せた鋭さはなりをひそめ、今や都に上ったばかりの田舎娘といった風貌で佇んでいる。ひっつめにしていた髪を下ろしたためか、こなれた雰囲気は繕えているものの、学院の生徒としてはいささか頼りなかった。
 しかし他に寝床を得る手立てもない。宿の位置を伝えて送りだすと、クロエは意気揚々と歩いていった。アルヘナはその一歩後をひな鳥のようについて行く。二人の姿が人ごみに紛れるまで、ハルミヤは渋い顔で見送っていた。
(遅くならないうちに合流するべきだろうな)
 街路を踏みしめながら考える。練るべくは金策のみではないのだ。多少強引にでも、エツィラと顔を合わせる手段を探らねばならない。しかしどんな訴えかけを起こすにも、彼女に自分の生存を知らしめることが第一条件となる。
 そのために。そうしたら。それからは。鼓動を早くした心臓を落ちつけるように、ハルミヤは深い呼吸をくり返した。未だ視界は不明瞭で、踏むべき手順も曖昧だ。
(私は……この期に及んで、迷っているのか)
 顔と顔を突き合わせ、言葉を交わす機会を得たとして、発される問いはどんなものであるべきなのか。脳裏に響く脅迫に従い王都を訪れたのは、何を求めてのことであったのか。足元からじりじりと焼かれるような感覚は、決して心地のいいものではなかった。
 唐突な喝采は背後に上がった。ハルミヤははっとして身を翻す。
 しゃらん、しゃらんと、鐘の音が鼓膜を震わせる。二対の手鐘を打ち鳴らすのは、先頭で馬を操る露払いだ。続く旗手たちは藍地に金刺繍の龍の旗をはためかせる。その後ろには三十を越える最高位の神官が並び、馬の手綱を法衣の少年たちに任せていた。
 神子を抱えた行列。空気を、音を、光景を、支配するように彼らは往く。ハルミヤは惹きつけられるように一歩を踏み出した。
 心臓が高鳴っている。引き止めながら急き立てている。均衡した相克は衝動に駆られて傾きだす。人の波をかき分けて最前列へと躍り出ると、途端、視界いっぱいに光が差したかのような錯覚に陥った。
 吊られるように顔を上げて、ああ、と声を漏らす。
「エツィラ」
 銀糸に光が戯れ、蒼玉に空が映り込む。引き結んだ唇は薔薇色、それらを抱きとめる肌は雪のように白い。――神に愛された娘、その名を背負うにふさわしい容姿が、変わらぬままでそこにある。
「……エツィラ」
 呼んだ。うわごとじみた声に自覚は無かった。
 他のどの名よりも口慣れたはずの名が、今初めて口にするもののように感ぜられた。それが恐ろしくて、また、呼ぶ。呼びかける。しまいには声が震えた。けれど体は少しでも彼女の馬に近付こうと、よろよろと歩みを進める。無論、取り囲む護神兵がそれを許すはずもなかった。
「何をしている」
 荒々しい声で我に返った。今まさに目の前を通過しようとする馬を、ハルミヤはありったけの力を込めて睨みつける。
「っ、エツィラ! おい、エツィラ、エツィラ――!」
「娘、下がれ! 行列に寄るな!」
 狂ったように叫ぶ少女を、護神兵は慌てて押し留めようとする。ハルミヤから前進の意思が失われないのを見て取ったか、彼らの腕は次第に力を増していった。
(退いて、たまるか)
 彼女に、妹に、会うためだけに戻ってきたのだ。ハルミヤは両足にありったけの力を込め、護神兵の手から逃れようと身をよじる。彼らを振り払った拍子に、頭のフードが剥がれて落ちた。
「……同じ、顔」
 囁いたのは誰だったのか。
 水を打ったようなしじまが広がる。行列は揺らぎ、一時歩みを止めた。
 どういうことだと呟いた声が、街路にどよめきを呼び起こす。騒ぎはやがて怒声へと色を変え、護神兵はうろたえたように視線を交わし合う。その中心で、ハルミヤは一心にエツィラの姿を仰いでいた。
(エツィラ)
 見ろ、私を見ろ。
 胸奥の訴えは声を伴わない。けれども先の叫びよりはよほど懸命に、妹の名を呼んでいた。
 動きを止めた馬の上、神子たる娘は緩慢な動作でため息をついた。ゆらり、流れるように騒動の元凶へと視線を落とす。濃青の瞳はやがて自らのものに酷似した顔を捉えた。
 一度の瞬きが挟まれる。ハルミヤの焦燥に反し、いつまでも唇は開かれない。
 喉が渇く。耳鳴りがハルミヤを責め立てる。早く。早く。一言でいいのだ。何故、何も言わない。早く、せめて、声を。渇望する意思が、エツィラ以外のすべてを漆黒に塗りつぶしていく。
 永遠の無言が答えだった。
 再度の瞬きをきっかけに、エツィラの顔は元の通りに前を向く。――がつんと、殴られるような衝撃を感じた。
(……な、ぜ)
 エツィラの両の目は澄みきって、己が馬の行く先ばかりを眺めている。まるで、世の全ての事象から興味を失ったとでもいうかのように。人形のような顔面を瞳に映し、ハルミヤはついに呼吸を失った。
 ふざけるな、と思った。叶うなら叫んでいた。しかし唇は動かない。しばらくして行列が再び動き始めても、ハルミヤはそれを目で追うことさえできなかった。
 捨て置いても構わないと判断されたのだろう。それ以上路上の娘を気にかける者はいなかった。好奇に促された見物人はハルミヤを遠目に見ては囁き合ったが、いつしか彼らの声も耳に届かなくなる。四方からの靴音に紛れ、気付けばハルミヤはとぼとぼと歩みを進めていた。
 どこへ進むつもりもない。けれども立ち止まってはいられなかった。
 意思を持たない足先は、主を人の気配から遠ざけていった。中央区を離れ、けれど貧民街に逃れるでもなく、その狭間へと迷い込む。整然と並ぶ家々はやがて鈍色に染まりゆき、倒壊の気配を漂わせ始める。
 ハルミヤが足を止めたのは、市街地にぽつんと佇む修道院の跡地だった。
 神子が身を寄せた謂れの残る地だが、肝心の修道院は数百年前に火事で焼け落ちたきり放置されている。今となっては石造りの基礎だけが残るばかりだ。周囲には雑草や蔦が我が物顔ではびこっている。ともなれば当然周囲に人気はなく、まるでその一区域だけが町から切り取られたかのように、しんと静まり返っていた。
 草地の中に崩れ落ちる。尻が地に着けば、もう膝には力が入らなかった。
「は、は」
 そうして思い知る。考えることを拒んだ瞬間、人は笑うことしかできなくなるのだと。
(神子、そう、神子。あいつは神子になった。ディルカの名を捨てた。私の……)
 ハルミヤ・ディルカの妹では、なくなった。
 王都にたどり着く前から理解していたはずだった。目の前に突きつけられたところで、衝撃など受けるわけがないと考えていた。自分は、その程度で揺らぐ人間ではないと。
 その結果がこれだ。
 目頭がかっと熱くなる。奥歯を噛みしめて堪えた。肩を震わせ、唇をわなつかせても、涙だけはこぼすわけにはいかなかった。一度でも負けてしまえば、それまでの自分を裏切ることになる。は、と鋭い吐息を漏らして、べたつく唾を飲み込んだ。
「……くそ」
 体に鞭を打つ。いつまでも呆然としている訳にはいかないのだ。また一から策を練り直し、エツィラに対面する機会を伺わなければいけないのだから。ハルミヤは自らを納得させるように小さくうなずいて、ふらつきながら立ち上がった。直後、ひゅん、と風鳴りを聞く。
「っ!?」
 腰に走った激痛で、ハルミヤの意識は強引に引き戻される。弾かれるようにふり返り、刺さった異物を引き抜いた。
(矢……っ!?)
 咄嗟に前方へ転がった。先ほどまで立っていた位置に、二本目の矢が突き立つ。続き、三本目、四本目が。ハルミヤに勘付かれたことを、相手もまた悟ったのだろう。五本、六本、七本、その頻度は回を重ねるほどに縮められる。
(殺、される)
 本能が悲鳴を上げる。
 おぞましいその声に背を押され、ハルミヤは我も忘れて走り出していた。