昏倒した男たちは、早急に自警団へと受け渡された。
ハルミヤの手前、ラケイユは倒れていた怪我人を発見したとの姿勢を崩さなかった。取り調べには知らぬ存ぜぬを貫き通し、善良な一教徒の皮をかぶり続ける。ハルミヤが彼ら二人と共に解放されたのは、日が頭上高くを通り過ぎたころだった。
広場では、クロエが長椅子に腰かけて手持無沙汰にしていた。ハルミヤを視界にとらえるなり飛び跳ねるようにして腰を浮かす。
「なにかあったの」
彼女はハルミヤがむくれているのを見やり、次に背後の二人の姿を盗み見た。ハルミヤのものと同じ法衣を目につけたのだろう、声をひそめて「学院の人?」と問う。
「顔見知りだ」
「お友達?」
「やめてくれ、鳥肌が立つ」
ただの知人であり、それ以上でもそれ以下でもない。なりゆきで同行することになったが気にかける必要はない。素っ気ないハルミヤの説明に、クロエは納得しかねるといった表情のままでふうんと相槌を打った。ラケイユらの顔を交互に眺め、素早く一度、腰を折る。
「はじめまして、クロエ・ファイエットです」
「ラケイユ・ブランです、よろしく。こちらはルクレール教授」
双方から差しだされた手に、クロエはぎこちない動きで応える。ハルミヤを含め全員の目が集まったところで、アルヘナはようやく無表情の白皙を彼らに向けた。
「お名前をうかがっても?」
ラケイユの問いかけに、ハルミヤは思わず息を詰まらせていた。しかし銀龍がその内心に気付くはずもない。「アルヘナだ」と一言を返すのみでそっぽを向いた。
後に残されたのは、面食らった表情のラケイユとルクレールだ。青年はしばらくの沈黙を置いて、なるほど、とひとりごちる。
「双子の抱える第三の星、か。宿命を感じさせる。そうじゃないかいディオスクロイ」
「……好きなだけほざいていろ。耳を貸すつもりは毛頭ないがな」
早々に切り上げれば、ラケイユはさして食い下がる様子を見せなかった。見透かされるかのような沈黙に居心地の悪さを感じながら、ハルミヤは用意された幌馬車にいち早く上がり込む。
一頭立ての馬車が一つにつき、定員は四人。それが十五台で一隊だ。隊商を兼ねた旅団は、さらに同じ頭数の馬を連れて雪原を渡る。雪道に怯えぬようにと訓練された馬たちは、蹄が隠れるほどの雪をものともせずに歩を進めていった。
港町を遠ざかるにつれ、風は音もなく冷えていく。直にそれを受けるのを避けられたとしても、忍び込んだ冷気は指先を痺れさせた。クロエから貸し与えられた上着の中に、ハルミヤは両手足を潜り込ませていた。
ときおり大きな振動が車軸に伝わり、車体がぐらりと揺れる。主を眠りへと誘わんとする深い呼吸はそのたびに中断された。身を震わせていると、御者が幕越しに声を張る。
「嬢ちゃん達も怖いもの知らずだねえ。もっと暖かくなるのを待てばいいだろうに」
事情を知らぬ者の意見は、いっそ清々しいほどに的外れだ。
ハルミヤは瞳を閉じ、唇だけで薄く笑む。浮かぶのは自らに向けた嘲笑だった。
「急ぐ理由があります。一刻も早く、王都へ。……帰らなければならないんだ」
「生き急ぐ理由かね?」
「そうかも、しれませんね」
ハルミヤの掠れた声は、御者どころか、同乗するアルヘナやクロエにさえ届いたとも知れない。長引いた沈黙に何かを悟ったのか、御者は無言のままで馬を操った。
長い旅路は身を蝕むばかりだ。夜遅くには静寂に満ちた雪原の中でわずかな休息をとる。御者の好意に甘え、彼から与えられた毛布を引きかぶると、ハルミヤは早々に目を閉じた。
(王都に戻って、エツィラに会って。私は)
私はそれから、どうするというのだろう。
漠然とした疑念は胸中にわだかまり思考を鈍らせていく。せせらぎが端から凍りついていくように、人知れず、ゆるやかに。久方ぶりの寝苦しさに苦い懐かしさを覚えていたとき、足元から隙間風がもぐりこんできた。
幕をくくった紐が緩んでいるのだろう。薄目を開ければ、隣にはクロエが横たわって寝息を立てている。起こさぬようにと体を起こしたところで異変に気が付いた。
すぐ傍で眠っているのがクロエ、座ったまま黙しているのはアルヘナだ。ハルミヤを含む三人で一台の馬車を借り、王都までの交通手段を確保している。ならばこの時間、この馬車の中に、四つの影が落ちているはずもない。
幕が揺れる。月光が入り込む。幌の内側に手をかけていたラケイユの姿を認め、ハルミヤは勢いよく飛び起きた。
「な、お、お前っ」
一歩でも踏み込んでこようものなら、その瞬間に術を組んで吹き飛ばしていただろう。
しかし彼は弁えたかのように身を引いた。人差し指を口元へ寄せ、眠るクロエに目配せをする。わずかに首を動かし、ついてくるようにとだけ伝えて馬車を出て行った。
(なんなんだ)
場所が場所なら夜這いを疑った。だがあたり一面の雪景色、身を竦ませるような冷気の中、そもそもかの飄々とした青年が相手では、頭がその疑念を抱くに至れない。クロエの身が無事であることを確認してから、はっとしてアルヘナに向き直った。
「気づいていたんだろう。いつからだ」
小声で苛むと、アルヘナは胡乱げに顔を上げた。
「お前が目を覚ます直前だな」
「起こすぐらいのことをしたらどうだ」
「あれには牙がなかった。牙なき獅子に獣は殺せん」
「……ああ、そうか、そうだな、お前に理由を求めた私が間違っていたな」
心痛の種は消えない。牙は刃物の比喩であるのかとも考えたが、人は素手でも人を殺せる生き物だ。いくら屈強さの伺えない青年であったとて、ハルミヤが腕力でかなう相手ではないのだから。
どうしたものかと考えていると、クロエがごろりと寝返りを打つ。呑気な寝顔に緊張がそがれた。ハルミヤは深く息をつき、上着を着込んで馬車を離れる。自分以外の他人が入ってくるようであれば容赦はしないように、と言い残していくのを忘れなかった。
大気は冷えていた。降雪の気配はなく、細い月はくっきりと存在を主張する。その光を受けて、雪原はうすぼんやりと照り輝いているようだった。誘い人の姿を探せば、馬車の群れの中にぽつりと人影が立っている。彼はハルミヤに気づいて、やあ、と声を上げた。
「放り置かれるだろうと思っていたけど。きみも存外に優しいな」
「また寝所に入り込まれるのはごめんだからな」
「何もしないさ」
「牙がないから、か」
ラケイユが瞠目する。ああ、と上滑りした声を漏らして、「そうかもしれないな」と苦笑した。彼はおもむろに夜空に手を差し伸べて、ゆっくりと握りこんでみせる。
「星に触れられる人間はどこにもいないだろう。俺たちにできることはせいぜい、遠い星座をなぞって、その物語に思いを馳せることぐらい。自らの天命を星々に重ね、占にかけて――」
「夢想家のすることだ。馬鹿馬鹿しい」
「きみから見れば、そうかもしれないな」
彼が行く先を知るかのように笑うので腹が立った。ハルミヤは神経質に指先を上下させ始める。
ラケイユは掲げた拳をほどくと、星のひとつを指し示す。カストル、と呟いて、左へ。ポルックスと続けて、指先を下ろしていく。たどり着いた先で、アルヘナの名を出した。星々を辿り、長方形に似た星座を編む。ふたご座――幼い神の子らを。惜しむように手を戻し、ハルミヤに向き直った。
「紅玉のお嬢さんのことは?」
星の瞬きがいくらか温度を下げる。「神子の話か」と返すと、ラケイユは目を細めた。
「エツィラ・シヴァイ。先日神殿に上った、新しい神子の名前だ。……シヴァイというのは長年元老院の中央座を温めていた男の姓でね。ディルカの名に比べれば双方にとって都合がよかったんだろう。これで王は、またひとつ神殿に権力を奪われた形になる」
「もともと無に等しい権力だろう。王は神の傀儡だ」
「まったくその通りだ。けれど代々の我らが国王陛下は、いつだって神殿からの権力奪還を目論んでいる。届かない星に手を伸ばす……まるで夢追い人のようにね」
ディルカメネスは神子の契約のもとに存在を許された国だった。歴史が声高に信仰を語る以上、王室が権力を握る時代は訪れない。どれだけ由緒ある血を繋いだところで、誰もが永遠に神の徒である事実に変わりはないのだ。
飼い殺しにされた王、手綱を掌握した神殿。天秤は傾いたまま動かない。ラケイユは話題を断つように息をついてから、再び口を開いた。
「妹君の姿が見たいなら、三日後の街路行列を待てばいい。大々的な顔見せだ。この馬車もそれまでには王都につくだろうから」
「それを伝えるためだけに、私を呼び出したのか」
深夜の幌馬車に潜り込んでまで。暗にラケイユを責めると、彼は眉を上下させる。
「俺はただ、旧友との出会いに酔いしれようと」
「いいかげん真面目に話したらどうなんだ」
「……俺はいつだって大真面目だよ。そう聞こえないというなら、お嬢さん、それはきみが耳を塞いでいるからじゃないか。俺に対しても、他に対しても、決して真正面からは言葉を捉えようとしない」
揶揄にしては暗い響きを持っていた。その意図を掴みきれずにハルミヤが黙りこむのを、ラケイユは値踏みをするように眺める。不自然な沈黙の後に「まあ」と彼は一笑した。
「言い方がまわりくどいのは自覚しているよ。申し訳ないが、性分だ」
それじゃあと会話を打ち切って、ラケイユは何事もなかったかのように立ち去ろうとする。自分が彼を置いて歩き去るのが常であったためだろう、その背中はやけに真新しく映った。元の生活に戻るつもりが無い以上、残り数日の旅程を終えれば、もう顔を合わせることはなくなる――思い至って、ハルミヤは顔を上げた。
「おい、ブラン!」
声をかけてしまってから、名残を惜しむ形になったことを悔やんだ。
しかし彼もまた、呼び止められるなどとは思ってもみなかったのだろう。からかいも忘れ、幾分か素直な表情でハルミヤにふり向いた。
「なにか?」
「……エツィラの情報を与えられたことに変わりはない。一応、礼は言っておく」
蜜色の目が大きく見開かれる。円を描いたそれは、さながら満月のようだった。二度、三度と瞬かれた後に、時間をかけて細められていく。
「名字には愛着が無いんだ。次は名前を呼んでもらえると嬉しい」
言い残して、今度こそ自分の馬車へ戻っていく。遠ざかる雪鳴りを聞きながら、ハルミヤは唇を引き結ぶ。
(お前がそれを言うのか)
距離を置こうとするのは彼もまた同じことだ。一線を置いて、道化のように笑うだけ。築かれた透明な檻は、何者をも内側に踏み込ませない。それを拒絶と気取られるか否か、ハルミヤとの間にあるのはその一点の違いだけだった。
(次、か)
もう起こることのない未来だ。遠い学院に思いを馳せて、ハルミヤは小さく鼻を鳴らした。