ディルカメネスに雨が降るのは、春と秋に数度だけだ。
 その降雨量の少なさゆえに、夏であっても草丈は低く、国土を渡る馬の腹を満たすにも足りない。生きながらえた花芽でさえ、冬の訪れに居合わせようものなら瞬く間に刈り尽くされてしまう。そうして枯れ野となった平原に、命知らずの種が再び根を張り始めるのだった。大吹雪に耐えきって花を咲かせたとて、落とされた種は端から息絶え、二度と目を覚ますことはない。
 ゆえにディルカメネスの花は徒花でしかなかった。雪原に咲く徒花は、種も残さず散るばかりだ。
 寂しげに語った妹に、馬鹿馬鹿しいと言いやったことがある。そのときエツィラは両手に恋愛小説を抱えていて、悲恋に終わるふたりが徒花に例えられる一節を朗読していたのだった。
 否定されれば頬を膨らませる片割れだ、文句が飛んでくることを予想していたが、その日に限ってはそうだねと素直に頷いた。
 ――無駄だと思うよ。いくら花を咲かせたって、何を残せるわけでもない。
 続く言葉を、ハルミヤは長く頭の隅に置き忘れていた。胸には当時の違和感が残っているばかりで、肝心の中身は霞のように薄れていたのだった。

 薄闇に沈む石畳を踏みしめて、祝祭の名残に思いを馳せる。喝采に包まれるべき祭日をにじり潰したのは神殿そのものだった。町人たちは無関係を決め込むように扉を閉ざし、目抜き通りには静寂が満ちている。
「ここで別れよう」
 十字路にさしかかったあたりで、ラケイユがそう切り出した。
 平静を装ってこそいるが、彼の目がちらりと東――王宮の方角へ向けられる。気にかかるかと尋ねると苦笑が返された。
「今の陛下に軍の指揮を取る体力はない。俺に何ができるというわけでもないけど、ただきみの帰りを待ちぼうけているよりは有意義だろうから」
「だろうな」
 神殿の出兵は唐突だった。しかし開城を許そうものなら、王宮は瞬く間に占拠されてしまう。法術を用いる護神兵に相対するだけの戦力を、王家は有していないのだから。
「……心配そうな顔の一つでもしてくれると嬉しいところだけどな。きみには期待するだけ野暮か」
「どうせしぶとく生き延びる。学院のほうがよほど心もとない」
「あちらはあちらでどうにかしているようだけれどね」
 学院の裏口から脱出する際、整列する生徒たちの姿を見た。
 学舎の備品から掘り起こしてきたのだろう、彼らはそれぞれの首に護符を提げていた。指示を飛ばしていたのは年上と見られる生徒だ。年少者を率先して保護、必ず三人一組で行動し、護符を持つ教員には注意を払うこと。すぐに轟きだした音の規模から察するに、護神兵を相手取っているのは彼らだけではないのだろう。中には卒院生であろう神官の姿も見られた。
「王家が崩れたら学院に面目が立たない。手立ては見つからないながら、どうにかするしかないな」
 ラケイユが肩をすくめるのを、ハルミヤはじっと見つめていた。
 戦況を裏返す手段は目の前にある。護神兵の法術を無力化するだけの駒が。だがラケイユは口を開かない。望むなら一言、命ずればいいというのに――根比べのような沈黙に耐えかねて、ハルミヤは溜息をついた。
「分からない奴だな」
「なにか?」
「いい。なんでもない。気が削がれた。流れ矢に当たらないよう、せいぜい頭に気をつけておくんだな」
 ひと睨みを残して修道院の跡地を目指す。その道順は忌まわしい記憶とともに頭の中に刻み込まれていた。迷わずに一歩を踏み出したとき「ハルミヤ」と声がかけられる。
「……まだ何かあるのか」
「剣は持っているな」
 ぴり、と、空気のはじける音を聞いた気がした。
 有り体な確認に過ぎないはずだった。しかしラケイユは生死の判断を促すかのように、凪いだ瞳をハルミヤに向けている。含まれたものを悟れないほど鈍くはなかった。
「……決めるのは私だ」
 緩やかに胸を侵食していたもやが晴れたのだ。もう誰の思惑にも左右されるつもりはない。
 それでいい、とラケイユは頷いて、彼のほうから背を向ける。ハルミヤもまた早々に彼の問いかけを頭から追い払った。空になったそこに去来したのは、使命感でも焦燥でもなく、はるか昔に忘れたとばかり思っていたエツィラの言葉だった。
 ――無駄だと思うよ。
 本に向けられていたはずの眼差しが、一体何を見つめていたのか。彼女が一言のもとに伏したものは、ほんとうに行間に眠る恋人たちであったのか。無駄と切り捨てた有象無象はハルミヤの足元に積み重なり、今になって口々に囁き始める。
 ――でも、散り際を誰かに看取ってもらえたとしたら、花はどんなにか幸せだろうね。
 あれは頑固なまでに助けを求めなかった。理解も共感も。ひとりで背負いこんだ自身の存在理由を、一言とて漏らしはしなかった。ひとえにそうあるよう望まれたがために。きつく唇を噛みしめたとき、ハルミヤの足は瓦礫を踏んでいた。
「揺らぐな、気が散る」
 迷いはぴしゃりと打ち切られた。
 修道院の跡地に生者の影はない。風はぴたりと動きを止めていた。曇天の下に草葉は眠り、銀龍に従うかのようにこうべを垂れている。その中に立ち、アルヘナは注意深く視線を動かしていた。そうしながら、ときおり虫の巣を掘り返すかのように土を蹴る。
 無秩序に散らばっているかに見えた瓦礫でさえ、銀龍の足元では幾何学的な文様を紡ぎ出す。残骸の撤去や修道院の再建が行われなかったのは、命龍の佇む空間を崩さぬためであったのだろう。
 ふいに、どこからか水音がした。
 捕えたとばかりにアルヘナが唇の端を吊り上げる。
 彼女の軋んだ土が溶け出し、歪んだ。捻じ曲がった大地の端々には白が滲み、まるで絵の具を水に落としたように、二人の足元から石畳、周囲には石壁を描き出す。
「老いたなシルヴァスタ。隠れる力もなくしたか」
 途端、乾いた風に体をなぶられる。ハルミヤは片手で髪を押さえつけながら、吹き飛ばされぬようにと両足に力を込めた。風の出所は眼下の白だ。音さえ彼方へと葬るかのような烈風の中に、アルヘナはしかし悠然と立っている。
「目覚めよ白龍、迎えよ命龍、その魂もて銀龍の名を思い出せ」
「……っ、アルヘナ、」
 強烈な耳鳴りに苛まれる。荒れ狂う龍の力の中にあっては、人の体など塵芥に等しかった。たちどころに消滅してしまうところを間一髪で免れているのは、ハルミヤの心臓がアルヘナによって支えられているためだ。
 暴風はやがて嵐へと姿を変え、二人を渦の中へと閉じ込める。鼓膜が引きちぎれようかというとき、ハルミヤの感じた重圧はふいにその質量を消した。




 ――約しましょう、人の子よ。

 ――あなたに命を。世界を。永遠を。失われぬ栄光と、眠らぬ国を。このシルヴァスタの名を礎に、永久の幸いを築きましょう。

(夢、だ)
 周囲に人の気配はない。ゆるやかに漂う意識の中に、ハルミヤはさざ波に似た声を聞く。水底から頭上の空を見るように、景色は薄明に沈んでいた。

 ――望みなさい。乞いなさい。縋りなさい。人の子よ、あなたの名こそ盟約の柱。死を恐れるというのなら退けなさい。

 紺碧を抱いた純白が、視界のすべてを埋め尽くす。散り落ちた花弁、折り取られた梢、朽ちた鳥の死骸、干からびた痩せ犬――根雪の下に眠るかれらが夢を見る。描き出されるのは満ち満ちた幸福、終わらぬ白夜。永久の国ディルカメネスに坐す龍の約した未来だった。
 まやかしだ。
 ハルミヤは首を振る。
 みなまやかしだ。傷はふさがることがなく、病が消えることもない。痛みはくり返し臓腑をえぐっていく。屍は還らず、土の底に眠り続ける。瓦礫に沈んだ修道院のように。癒えるというならば、それはすべてを忘れ去っているだけのことだ。
「目を覚ませ」
 氷は肌を裂くだろう。冷気は指を凍らすだろう。だが雪に埋もれて眠るのならば、冬の終わりを知らないままだ。生まれた理由に気付けぬままだ。
 ハルミヤの背に炎が走る。焼きつけられた罪人の印が歌い出す。かきむしられるような痛みに耐えながら、がむしゃらに手を伸ばした。
「みな背負う、受け止める、生きていく。もう見ないふりはしない、だから!」
 忘れるな。忘れるな。忘れるな。
 痛みこそ生。縋りつくための標。呑み込んで、ようやく呼吸を思い出す。
「だから、もう一度お前に会わせてくれ、エツィラ――!」

 薄氷が割れる。
 娘を出迎えたのは、鏡映しの修道院だった。