上が誰だろうと構いやしないんだよ。男は面白がるようにそう言って、一室の端にあった椅子に腰かける。堂々と足を組んで見せる姿は、自分を賓客だと信じて疑わない者のそれだった。
「神様だろうが神殿だろうが、王子様、あんただろうがね。俺たちは上手に生きていくだけのことだ」
跳鼠とびねずみ、弁えなさい」
 用いられたのは渾名だろう。テオドールの諫言を男は笑い飛ばす。どっかりと背もたれによりかかり、「冗談!」と足をぶらつかせてみせた。
「素行のいいごろつきがいてたまるかい先生。それが分かっていて使い捨てているんだろう? あんたが俺たちに求めているのは、数と土地勘だけなんだから」
 瞬く間に空気を掌握しきって、さあてと男は笑う。渋面を浮かべるテオドールをよそに、彼の瞳は爛々と輝いていた。
「ハルミヤお嬢さんに王子様。それから噂の銀龍様か。こんなところにいるってことは、先生方の後ろ暗い事情にもようやく食い付けたってところかい」
「……お前、学院と繋がっていたのか」
「正確には院長先生と神殿のお偉方だ。あんたのことを拾い上げてやったのも、昨日のことのように思い出せるよ」
 軽やかな笑声が神経をくすぐる。ハルミヤは唇を三角に結んでいた。
 彼らのような人間が、自分の名前を知っていたわけにも理解がいく。孤児院に子供を集めていたのはディルカメネスの無法者であったのだ。ときには人攫いを行い、ときには捨て子を拾い上げては、テオドールに引き渡して報酬を得ていたのだろう。やけに整った服装もその報酬で手に入れたものに違いない。
「しかしお嬢さんも哀れだね。せっかく先生が逃がしてやったっていうのに、もの好きにも王都に戻ってくるなんて。学院を隠れ蓑として使わせてやれば、今度は自分から神殿に捕まりに行ったって? あんたみたいな馬鹿が学院で頭張れるなら、俺だってそこそこのところには行けるんじゃないか」
「跳鼠」
「怒るなよ先生。俺はあんたの優しさを説いてやっているだけなんだからさ」
 それで? と男は首を傾げる。
「それであんたは、傷つくだけ傷ついて、ようやくここに辿りついたわけだ。どうだい、学びの輩が求める真理とやらは。さぞかし甘い蜜の味がするんだろうな」
 ハルミヤの顔ははっきりと曇る。依然男に向けられる視線の中には、いつからか明確な怒りが宿った。男はその炎すらも受け止めて腕組みをする。
「そうだろう、そうだろうさ。真実なんてものはちっとも優しくない」
 乞食のすする泥水と同じ、孤児の噛みつく砂粒と同じ。苦みと屈辱を舌に残していくばかりだ。男は歌うように告げて続ける。
「だから言ったんだ。知らずにいた方が、幸せだったって」
 それともこれは、あの少年に言ったことだったかな。男はころりころりと言葉を遊ばせる。徹底して部外者であり続けた人間、歯牙にもかけられなかった人間が、渦中のハルミヤをあざ笑う。
(いや)
 ハルミヤは思い返す。むしろ神殿のもとで動く駒は、彼のような人間でなければならなかったのだ。ごろつきが神殿の事情を知ったところで、彼らの言葉を気にかけ信じる者などいるはずもない。その上彼らのように日銭に生きる者たちは、報酬を与え続ける限りは裏切ることもしない――信仰よりもよほど強固な絆を生み出すことができる。
 は、と息が漏れた。あるいはそれは、堪え切れなかった笑いだったのかもしれなかった。
「私の幸せを、お前などに決めつけられてたまるか」
 そもそも自分の求めるものは、自身の幸せなどではなかった。何者にも乱されぬ生活を望むなら、始めから王都に戻ることを選んではいなかったのだ。
 エツィラに会う――ただ、それだけのために。
 血反吐を吐いても躯を踏み潰しても走り続けた自分に、意味を与えてやらねばならない。ハルミヤはゆるやかに顔を上げる。毛羽立ちかけた感情は深い呼吸で静めていった。
「学院長先生。あなたならご存知だろう。エツィラが……私の妹が、どこにいるのか」
「ハルミヤ……」
 テオドールの瞳によぎったものは憐憫だった。
 構わない、とハルミヤは胸に呟く。構わない。しがみついたものが二人の間にしか通じないまやかしであったとしても、自分とエツィラは確かに姉妹でいた。互いの片割れとして生きてきたのだ。ハルミヤの名が自分だけのものであったように、エツィラの名もまた、たったひとりを意味するものでしかなかった。
「神子の御身は龍に愛され、時なき礼拝堂に眠る。永久なるかな、永久なるかな、其らの誓いよ――」
 テオドールはふいに聖歌の一節を口にする。
 からかわれたかと唇の端を下げるハルミヤに、彼は瞳を逸らさぬままで続けた。
「命龍の力に構築された礼拝堂に、龍体と神子とは留まっている。貧民街の修道院跡地より通じる遺産の中に。出入りを許されるのは彼女らのみだが」
 テオドールの視線を受け、アルヘナが鼻を鳴らした。
「衰えた龍の身に何ができる。こじ開けてやればいい。容易いことだ」
 貴様らにはできないことだろうがな。はっきりと言い切ったのは鬱憤の表れなのだろう。
 渋面を浮かべたテオドールに、男はにやにやと笑いかけている。彼はようやく舞台が明かされたとばかりに立ち上がった。それじゃあ、の一言で視線を集めると、「俺から報告を一つ」と姿勢を正す。続き漏れだしたのは、ぞっとするほどに低い響きだった。
「神殿がようやく重い腰を上げた。護神兵の大群が組織されている。矛先に定められたのは王宮と学院だ――目的が誰にあるのかぐらい、もう見当はつくだろう?」

     *

 転がるように駆け出していった少女と青年、その後に続いた銀龍を見送って、跳鼠はひらひらと手を振った。
 彼の本名を知る両親や兄はとうに路地裏で鼠の糞になっている。成り行きで行動を共にするようになった仲間たちも、過去に聞いた名前など忘れてしまっているだろう。――跳鼠、跳鼠。区別に不足がなければそれがならず者の名だ。
 そのため跳鼠もまた、自分にその名を与えた男を先生とだけ呼んでいる。呼称としては十分だった。
 窓の外に目を凝らし、テオドールは神殿の動向を探っていた。その老いた目に映るものといえば、護神兵の紺青が形作る波ばかりに違いない。
「学院が狙われている、と言ったか」
「今さら退避でも考えているのかい。間に合わないさ。あんたが甘さを捨てきれなかったせいで、大切な教え子たちは全員白刃に晒されるんだ」
 お笑いだな。言葉どおりに笑声を浴びせかける。それを受けたところでテオドールは眉の一つも動かさなかった。跳鼠は彼の無反応に苛立ちを見せるでもなく、ふたたび足を組み直す。
 “先生”テオドール・キュヴィエは優しい男だった。
 誰彼構わず愛情を注ぐことを、諦めることのできない男だった。
 金銀財宝に囲まれ暮らした王族であっても、鼠と百足に愛され育ったみなし児であっても、彼は平等に愛し慈しんだ。ともなれば、彼がやがて信仰に縋るようになるのも不可思議なことではない。
「あんたって男はいつだってそうだ。放っておけばいいものにまで律儀に手を差し伸べるから、結局抱えていたはずのものまでこぼしてしまう。あんたの情けは何人たりとも救わないよ。自覚はあるのかい、先生」
「生徒たちはこのことを知っているのか」
 揶揄は唾棄された。跳鼠は微かに目を細める。
「……さて。俺は真っ先にここに来たからね。まあ、鼻の利く餓鬼ぐらいいくらでもいるだろうさ」
 跳鼠が神殿の動向に気付いたのは、ひとえに好奇心の賜物だった。
 無言を貫いた王家にも、もぬけの殻の学院にも、神殿は痺れを切らしていた。下にあるはずの彼らが子鼠一匹を隠し、素知らぬふりを続けていることが気に食わなかったのだろう。動き出すのも時間の問題だった。いつ我慢が限界に達するか、と眺めていた人間は彼だけではない。
 しかし事態は、跳鼠の想像を上回る速度で動いていた。
 当代の神子を生み出した罪人、憎悪の渦中に立つ王太子、そして誰も予想だにしなかった第二の龍。三者がここに並び立っていたことを鑑みれば、神殿の背中に火がついた理由は語られずとも明らかだ。
「可哀想に、先生、あんたの気付いたお城はすぐに炎に呑まれるよ。更地となったこの場所に、神殿は新しいお城を建てる。くり返されるんだ。誰かが止めない限りはね」
「跳鼠」
 逆光の中に老いた男が立っている。黒に染まった眼差しを受け止めて、跳鼠はとろけるような笑みを浮かべた。
「神様にだって救えないものがある。人間のあんたにはなおさらだ」
「それでも」
「……はは、」
 跳鼠は笑う。哄笑だった。
 窓をぐらつかせるかのような地響きを彼方に聞き、唇の端を釣り上げる。
「そう、人はそれでも望む。だから世界は変わるんだ」
 業火が立ちのぼる。硝子越しに熱線を走らせたそれに、テオドールは勢い良く振り返った。
 あちこちから上がる戦火の揺らめき、曇天に響く剣戟の合唱。一方的であったはずの虐殺は、いつからか対立へと色を変えていた。遊歩道から払い飛ばされた護神兵が宙を舞い、追撃に旋風の鞭が浴びせかけられる。剣を片手に駆け抜けた青年は、学徒の法衣を身に纏っていた。
 守れ、退くなと声がする。戦え。守れ。学院を。俺たちの学院を守り抜け。恐れをかなぐり捨てた若人の凱歌が、学院の窓を震わせていた。
「……跳鼠。陸亀はどこにいる」
 テオドールの声に、無愛想で、無口で、無表情な友人の名が告げられる。跳鼠はそうだねえと窓の向こうを仰ぎ、倒れ伏した護神兵に憐れみの目を向けた。
「あいつはあれで、子供が好きだからね」
 祭り騒ぎを愛する馬鹿どもを引き連れて、どこかで棒きれを振り回しているのだろう。彼らの居場所にあたりをつけたところで、跳鼠はくるりと身を翻す。軽快な足取りは、主を仲間のもとへ導いた。
 ――自分が馬鹿どもの一人であることを、否定する気はさらさらない。