降り注ぐ石の礫を打ち払う。龍麟の欠片を握りしめて、セルジュは荒い息をついた。
学院での争いは混戦の様を呈している。
護神兵が放たれたきっかけを、セルジュも人づてに聞いていた。朝早くに神殿への侵入者があったこと、彼らが護神兵たちに危害を加えたこと、――そして彼らの中にハルミヤ・ディルカの姿が確認されているということ。
しかしその一件がなかったところで、いずれは同じ強硬策が取られていたのだろう。学院に走った動揺の理由は、予期された襲撃の時期が早まったからというだけのことに過ぎなかった。
「ダヴィド、子供の避難は!」
器用に剣と術との合間を縫っていく友人に、セルジュは大声で叫びかける。だめだ、とすぐに答えが返ってきた。
「人数が合わない、たぶん宿房のほうに取り残されているんだ。誰が誰だか分からないから、」打ちかけられた剣閃は、供をする青年が受け止めた。ダヴィドが再び声を張り上げる。「伝言もうまく伝わりやしない。先生も一概に味方じゃないし、神官だからって敵じゃない!」
彼の言葉を裏付けるように、背後には神官同士で法術を浴びせあう光景が繰り広げられていた。訳知り顔で生徒から報告を受けた教師が、護神兵にそれを耳打ちする現場もすでに見届けている。自分が誰と戦っているのか、誰も理解していないのだ。
「コレットは」
「怪我をした生徒の治療にあたってる。でも護符が圧倒的に足りないんだ。防衛の側に配れば、あいつらにまわす数が減る」
法術の能力に差はない。むしろ才気の集まりである生徒たちのほうが、その技術においては秀でているといっていい。だが物資の不足は直接的に戦況に響いた。縛り上げた護神兵から護符と剣を取り上げるように命じてはいるが、雀の涙ほどの慰めにしかならないのが現状だった。
「宿房、か」
ひとりごちた。伝令に走っていったダヴィドの背は、やがて砂粒のように小さくなる。
行くのか、と問いかけられて、セルジュは逡巡する。今すぐにでも向かってやりたい気持ちはあるが、防衛の手を減らすのは命取りだ。ただでさえ足りない人員を、外部の人間が補っている状況なのだから。
いいやと首を振りかける。しかしセルジュの脇を走った閃光が、彼の声を無に帰した。
光に見えたものは、勢いよく打ちだされた白石だった。かつては学院の壁を構成していた欠片だ。宙を駆け抜けて、セルジュらに斬りかかろうとした護神兵たちの脳天へと叩きつけられる。
あーあ、と嘆く、懐かしい声を聴いた。
「あの子が巻き起こしたことだし、相手が相手だから、本当はあまり関わりたくなかったんだけど」
学院の法衣は使い古され、作られたばかりの切り傷が走っている。セルジュは何度も目をしばたかせたが、女生徒の姿が瞬きに消えることはなかった。
「……リディ、」
「友達を見捨てられなかった。あとで“先生”に怒られちゃいそう。……そのときは、みんなで慰めてほしいな」
転々と、踊るように。彼女が祈りを紡ぎ上げるごとに、周囲の瓦礫が意志をもって浮かび上がる。リディの周囲を楽しげに跳ねたあと、細い指が示す標的へと嬉々として飛びかかっていった。
そのときになって思い出すのは、ぼんやりとしたこの友人が、法術の実技では上位に名を連ねていたということ。そして恥ずかしそうに成績を眺める表情に、男子生徒が揃って畏怖を覚えたということだった。
「急いで、セルジュ。コレットの仕事を増やしたら、後で怖いんだから」
「……違いない」
薄く笑って剣を収める。手を振る少女に、「あと」と言い捨てる。
「お前もあとでコレットのところな。もの飛んでくるから覚悟しとけよ!」
リディが目を丸くする。はにかむように微笑んで、こわいなあ、と眉を下げた。
*
「すべてお前の引き起こした災禍だ」
開口一番に王は言い放った。
ラケイユは頭を下げながら寝台の父を伺う。今朝がたから気分が優れないらしい、と侍従たちからは聞かされていた。それでも神殿の動きについては報告を受けているのか、眉の皺はきつく刻まれたままほどけない。
「神官は罪人を引き渡せと叫びまわっている。耳障りな虫どもだ、一匹たりとも中に入れるな。彼奴らの羽音で宮殿を汚されたくはない」
「は」
言葉を交わす間にも、小さな地響きが調度を揺らす。彼方からは衝突音と悲鳴が聞こえ、兵の劣勢を克明に伝えてきた。このまま護神兵に打ち負かされようと、耐えかねて降伏の道を選ぼうと、対価として支払われるのは己の首なのだろう、とラケイユは頭の端で考える。王家はより強く隷従の姿勢を強いられ、神殿の発言権は増すばかりだ。
いつか、またとない機会だと告げたことがあった。
凍りついた天秤は、持ち込まれた火種によってようやく融けゆこうとしている。銀龍という名のその火種に賭けるほか、ディルカメネスは名ばかりの王国から脱する手段を知らなかった。
「国を取り返せ。のぼせあがった神殿の豚どもに水を浴びせよ。さもなくば二度と顔を見せることは許さん」
「……陛下の仰せのままに」
ラケイユは早足で寝室を抜け出し、自らの歩みに意識をそばだてる。
珍しく急いていた。王国兵の背後に回ったところで指揮を執るわけではない、できたとしてもせいぜいが彼らに声をかけ、士気を高めて回る程度だろう。ジュリアンは威勢よく指令を飛ばしていると聞くが、兵は話半分にしか彼の言葉を聞いていないという。
「殿下」
隣に並ぶ影があった。自分よりは頭一つ背の高い老爺を見上げ、ラケイユは強いて表情を和らげる。そうして余裕を装ったところで、師には見抜かれているのだろうという諦めも感じていた。
一方で、ルクレールはラケイユの顔を一瞥だにしない。ただ同じ道を居合わせただけとでもいうように、同じ速度で歩みを進めるだけだ。
「勝算はいかほどか」
ルクレールの問いに、ラケイユはまなうらの青を思い出す。
「零、 ……もしくは百」
「それを分かつものとは?」
師の声も心なしか早口だった。
急いているのは誰も同じだ。みな予感に打ち震えている。訪れ得る変革の予感に。けれどもディルカメネスにそれをもたらすものは神でも龍でもない。
「双星の選択でしょう」
人として生まれた兄と、死を知らぬ弟と。残される者がひとりであるなら、かれらはいつか選び取らねばならない。
ラケイユは足を速める。
生きろと伝えなかったことを、後悔するつもりはなかった。
*
水音がする。滝の音でなければ雨の音でもない、よどみなく流れるせせらぎの音だ。足元をしとどに濡らす水たまりは、修道院の床に透明のまだらを作り出していた。水が染み込んだ靴を脱ぎ棄てて、ハルミヤは注意深く視線を巡らせる。どこからか差す光に照らされて、窓のない建物は仄かな明るさに包まれていた。
その一室は、修道院に属する小部屋のひとつなのだろう。扉はなく、開かれた一面から廊下が続いている。常時水が湧き出しているのならば苔のひとつも生えていそうなものだが、踏みしめた足にはぬめりさえ感じなかった。
「ここは……」
ハルミヤの問いに、壁に身を預けていた銀龍が口を開く。
「シルヴァスタの夢だ。あの建築物が倒れる前の形を、そのまま留めているのだろう」
たゆたう水も、うつろう光も、命龍の力の表れだろう。絶えず循環を続ける生命の象徴だ。アルヘナは冷めた目で廊下の向こうを見つめていた。
「ただの惰性だ。目を覚まし動き出すことも、新たに生み出すこともできまい。あれはもう力持つ石像でしかない。誰の呼びかけにも答えん」
空間を切り開いた際に感じるものがあったのだろう。アルヘナの声は鬱々と低い。ハルミヤはせっつくことを放棄して部屋を出た。言葉の意味も、いずれ明らかになることだ。
ぱしゃりぱしゃりと跳ねる水音の合間に、固い床の感触が返る。長い回廊は礼拝堂へと続いていた。
踏み入ってみれば、その一間だけが修道院の構造を無視するかのように広いことが分かる。シルヴァスタの夢の根幹をなすのが礼拝堂であったためだろう。光は流水の表面に受け止められ、しかし行く先を見失って曖昧に空気へ溶けていった。
(……あれが、命龍か)
遠く、部屋の最奥に、四つ足で屹立する龍の姿がある。木のように曲がらぬ立ち姿は美しく、体の主が眠りについているとは感じさせない。だがその姿勢とは裏腹に鱗や爪は無残に剥がれ落ち、体躯の端々から肉片を覗かせている。
シルヴァスタ。
アルヘナが口の中で呟く。瞳は逸れず、龍の顔に注がれていた。
ハルミヤは水を踏む。心臓は不思議なことに凪いでいた。焦りも期待ももう浮かびはせず、ただ微かな予感だけが胸を満たしている。
「エツィラ」
礼拝堂の中央に、少女は眠っていた。
法衣の長い袖の下、指先は腹の上で祈るように組まれているのだろう。色とりどりの宝玉に彩られた首飾りの中央には、一際大きな紫の宝珠がはまりこんでいる。それが龍の瞳――命龍の片目であることは、硝子玉の中心に立つ一筋の瞳孔から悟られた。
エツィラ。傍らに跪き、呼びかけて、肩を揺らす。細い肩、肉のない体。片割れの姿は袂を分けた日から変わらなかった。
「……ん」
目蓋の合間に紺青が現れる。頭上にある輪郭を確かめるように動いた目が、ようやく驚きをもって見開かれる。
あ、と漏れ出した声に、ハルミヤは確かな充足を得ていた。
「ハルミヤ」
片割れの首肯を待たず、エツィラはくしゃりと顔を歪める。今にも泣きそうな表情をしたところで、涙は一筋も流さなかった。――流せないのかもしれなかった。
「ばか。ばかだな。きみはばかだ。どうして、」
どうして帰ってきたんだよ。
罵倒は意味を為さなかった。吐き出される端から地に落ちて、主の耳元でころりと音を立てる。ハルミヤは体重を自分のもとへ戻し、思い出すように息をついた。
「約束があった」
――奪い返す。
あの冷たい夜に、もの知らぬ少女が吐いた言葉だった。その意味が色を変えたとて、望むものは最後まで変わらなかった。
「お前の抱えてきた苦痛も、責任も。すべて私が貰い受ける。お前にはやらないよ、エツィラ」
エツィラは限界まで目を瞠り、それから「なんだよそれ」と笑いを漏らした。乾いた床に手をついて大儀そうに体を起こす。彼女が立つのを待ち、ハルミヤもまた膝を伸ばした。
二人の瞳の中には、同じ顔をした娘が揺れている。エツィラが軽く肩をすくめた。
「変わらないね。……いつだってきみは、私の暴君だった」
ふわり、皺を伸ばすようにエツィラが衣を揺らす。神官のものとも、学院のものとも異なる法衣。純白は無垢の色、龍の意思を伝える神子のみに与えられた色だった。
王都を出る前の自分であれば、羨望を覚えたかもしれなかった。あるいは嫉妬を。しかし今、それを着る妹に対して、ハルミヤは何の感慨も抱いてはいなかった。
ただいまと告げれば、エツィラはくすくすと喉を震わせる。「それを聞くのも何年ぶりかな」と笑った。
「おかえり、ハルミヤ。またきみに会えてうれしいよ」