学舎地域と宿房地域とは、長い遊歩道と小高い丘によって隔てられている。授業終了後まっすぐに帰路についたハルミヤであったが、自分の部屋へとたどり着く頃には、日はもうすっかり暮れてしまっていた。
 二人に一部屋が与えられる宿房は、各人の個室を共同の居間で繋いだ形をしている。浪費癖のないハルミヤの部屋には、法衣や本棚の他に私物は無い。それは片割れも同じことだ。ハルミヤは無味乾燥な部屋をぐるりと見渡して、エツィラが戻っていないのを確認する。交友関係の広い彼女が、ハルミヤよりも先に帰宅することは稀だ。
 無言のまま荷物を片付けたところで、どっと疲労に襲われた。食事を作ることさえ億劫になってベッドの上に転がる。
 エツィラが姿を現したのはそれから少ししてのことだった。ハルミヤの姿を見るや、眉を跳ねあげる。
「またごろごろして……どうせご飯も食べていないんでしょう。そんなだから体悪くするんだよ」
「うるさい」
 寝泊まりに随伴する家事はそれぞれの学徒に委ねられている。そうして生活してきている以上、当然ハルミヤに炊事能力が無いわけではない。しかし一日を終えれば、あえて鍋を取り出して食事を作ろうとする意気が沸かなくなるのもまた当然なのだった。エツィラが部屋に戻らない日などは、必要に迫られない限り食事を抜くことも珍しくはない。
 きみは部屋の内と外じゃまるで別人だよねえと呆れながら、エツィラは慣れた足取りで調理場に入っていく。包丁の音が聞こえてくるようになっても、ハルミヤは微動だにしなかった。しばらくして、出ていったエツィラが再び戻ってくる。
「ほら、ご飯。食べて」
 揺り起こされて渋々起き上がり、食卓に就く。神なる龍と神子の恵みに感謝して、と簡易の祈りを捧げたあと、ようやく食器を手に取った。
 ハルミヤ一人では崩れがちになる生活を、エツィラは文句を言いながらも支えてきた。生来小器用である彼女はどうやら日々の調理に楽しみを見出しているようで、食卓の上には毎度、彩り豊かな品々が並ぶ。定期市にもまめに顔を出し、今日は根菜が安かった、品揃えが新しくなっていた、と彼女が嬉しそうに話すのを、ハルミヤは相槌も打たずに聞き流すのが常だった。
 しかし今晩の彼女は、別の話の種を拾って来たらしい。茹でただけの野菜を嚥下するや否や、そうだと顔を上げる。
「ね、聞いたよ。今日の法術の演習、事故があったらしいじゃない。怪我はなかった?」
「防いだ。制御しきれないのに法術を組むからああなるんだ」
「さっき当のセルジュと会ったけど、随分心配してたよ。私をきみと間違えて、大丈夫か、あれから平気かって」
「怪我人が出れば責任問題になるからな」
「もう、またそういうこと言って」
 フォークを振り上げたエツィラが、まあいいか、と肩を下ろす。ハルミヤが目を眇めても、首を振るきりで話を打ち切った。
 そのまま無言の食事が続く。先に口を開いたのは、やはりエツィラの側だった。
「本当かな、さっきの。……神子の候補だって」
「はあ?」
 馬鹿にしきった声が出た。
 なんだよ、とエツィラが頬を膨らませる。ハルミヤは食器を置いて肩をすくめた。
「あれだけの人間から話を受けて、まだ信じられないのか。院長と理事長、それからクレマン司祭。どこに疑う節がある」
「そりゃあ、ハルミヤは出来がいいもの。選ばれてもおかしくないとは思うよ。類を見ない逸材だって先生も言うし。でも、私みたいなのはそうじゃない」
「お前が特別できないわけじゃないだろう」
 補講に追われているとはいえ、本来頭の作りは悪くない。身を傾ければ難なく試験を潜り抜けるだけの能力は持っているのだ。そうでなければ神学院に籍を置いていられるはずもないのだから。
「どうせやり方が悪いだけだ。他の奴らに比べればよほど、」
「……馬鹿だなハルミヤ、きみと他、私なんかとの隔たりは、そんなものじゃない。ここで首座を取るって、そういう……それだけのことじゃないよ」
 それが当然のきみには理解できないかもしれないけど。刺すような声色で言って、エツィラは唇を尖らせた。
(……何が言いたいんだ)
 そうでないと否定してほしいのか、それともわざわざ実力を誇ってほしいのか。理解できずに眉を寄せたハルミヤの前で、エツィラがフォークを机に下ろした。がたり、やけに高く響いた音が、降りた沈黙を頑なにする。
 そのまま、二人の少女は手を動かさずに余所を睨んでいた。続く小さな吐息はエツィラのものだ。
「神子って、さ。国王陛下より、偉いんでしょう」
「命龍が神として祀られているんだ。神子はその言葉を伝えるだけ」
「でも、その言葉だって、神子にしか聞こえないんじゃないか」
 王政を取るディルカメネスであるが、その王権の大部分は神殿から与えられたものとされている。命龍の言葉が神子と神殿を通じて王家に伝えられ、そこでようやく王は国を動かすことを許されるのだ。国は神殿を尊重し、神殿は国に力を与える。
 ゆえに神子は、人でありながら神と通ずる存在とされる。神子として選定された人間が召されるのは、誰も触れることの叶わぬ神殿の最上部だ。エツィラが微かに唇を震わせるのを目に留めて、馬鹿馬鹿しい、と首を振った。
「お前の意志がどうあろうと関係ない。私が神子になる」
「……そんなに神子になりたい?」
「自分のものを他人に取られるのが嫌なだけだ。エツィラ、お前が相手であってもな」
 ディルカ。ただのディルカ。それはもう何度口にされたかも分からない嘲りだった。
 親はどこの誰とも知れない。生きているのか、死んでいるのかさえも定かではない。産まれつき体の弱い娘を見限ったのか、双子として産まれた二人を育てるのが億劫になったのか――どんな理由で捨てられたのか、当時赤ん坊であったハルミヤには知る由もなかった。顔も名も知らない相手に憎しみを抱くことこそなかったが、そうした出自が今の立場を作りだした要因であることは明らかだった。
 一から築き上げたものがあるとすれば、それは間違いなく自らの力によるものだ。生き延びるため、死にものぐるいで掴み取った足場だ。拾いあげられた者の押し込められた孤児院から、神学院への梯子を勝ち取ったのも、そこで首座を手にしたのも、ハルミヤという一人の人間が成し遂げたことである。
(奪われてたまるものか)
 貧しき者は奪われ、富める者が勝ち取る。世の理を否定するつもりはない。だが、それにのうのうと甘んじているつもりもなかった。
「……きみらしいね」
 しかしエツィラは薄く笑い、ぽつりと呟くのみだった。他人事のような言い口に、ハルミヤは微かな苛立ちを覚える。
 同じ境遇の片割れ、唯一の血族でありながら、エツィラはハルミヤのような激情を持たずに生まれてきた。それが健常な身に起因するものであるのかと勘ぐったこともあるが、身を換えたところで執着を露わにするエツィラの姿など想像もできない。
 だからこそ腹立たしくなる――まるで、自分の異なる可能性を見せつけられているようで。鏡の向こうの自分が、自分を嘲笑っているかのようで。ハルミヤが気分を害したのを察してか、エツィラは気遣わしげに眉を下げていた。ややあって、椅子を蹴って立ちあがる。
「ごめん、今夜友達に呼ばれてるんだった。帰りは遅くなると思うから、先に寝ていて」
「言われなくてもそのつもりだ」
 エツィラはそそくさと皿をまとめると、流し台に放りこんだ。床に下ろしたままの荷物を抱え上げて、ふとハルミヤに視線を投げる。何かを思い出そうとするかのような間があって、ようやくハルミヤの名を呼んだ。
 なんだ、と冷ややかな一瞥を返すと、いつになく真剣な表情が視界に飛び込んでくる。エツィラは小さく口を開閉させてから、「ハルミヤ」と切り出した。
「ねえ。もしも、もしもだよ、私が神子に選ばれたら……きみは、どうする?」
 この期に及んで。せせら笑いながら、ハルミヤは「無いな」と言葉を放る。
 聞く耳を持たない姉に腹を立てたのだろう、エツィラはいくらか声を荒げた。
「もしもだって言ってるじゃない! ほんの手違いとか、例えばの話だよ。……ねえ、それで、どうするの。ハルは祝ってくれる? それとも、」
「奪い返す」
 え、と瞠目したエツィラに、ハルミヤはようやく体を向ける。
「奪い返す。私のものを奪っていくなら、お前でも許さない」
 同じ顔で、同じ体で、しかし陽だまりのように笑う片割れなどに。胸中でそう続けながら、ハルミヤは挑むような目つきでエツィラを見つめていた。
 呆けて沈黙していたエツィラは、ややあって、氷が解けたかのようにくしゃりと笑う。眉を下げ、悔しそうに、悲しそうに、しかし心底嬉しそうに目を細め、そっか、と頷いた。その表情に言葉を失ったハルミヤの前で、今度は左右にかぶりを振る。
「待ってる。……ずっと待ってる、ハルミヤ」
 哀切を飲み下すかのように、一度目蓋を閉じ、それからゆるゆると顔を上げる。
 もう自分が選ばれたつもりか――そう言い返すことさえできなかった。エツィラは床を蹴り、逃げるようにして外へと飛び出していく。呆然と見送って、ハルミヤは新たに鬱憤を抱え込んだことに気付いた。
 ただひとり、冬の静寂に取り残される。照りつけるランプの光は淡く、部屋の隅には冴え冴えとした冷気がわだかまる。悲鳴のような冬風が窓を叩き、街角へと消えていく。
 長い夜が、始まろうとしていた。