石造りの大広間に、生徒の数は十ばかり。面立ちにばらつきこそあれ、藍の法衣と簡易の護符を身に付けて唇を引き結ぶ表情は同じだった。彼らの目の高さには龍翼を模した柱飾りが、頭上には薔薇窓が延々と続く。そこから差し込む光は茜色を帯び、一枚岩の床に文様めいた影を落としていた。横並びに立つ生徒たちの前では、講師たる神官がつらつらと弁舌を振るう。
「この演習も五度目を数えました。法術の扱いに不安のある者はもういないでしょうね」
彼が担当する法術演習の授業は二年に一度しか行われない。その単位取得が卒業に必須である以上、彼の話に耳を傾けるのは生徒の義務であった。
延々と繰り返される能書きにうんざりし、ハルミヤは無表情のままで頭をよそにやる。おぼろな思考に蘇るのは、今しがた唾棄したばかりの問いかけだった。
――きみは、目に見えることしか見ようとしないんだな。
規律を守る者のほうが愚かなのだと言わんばかりの目、態度。微かに滲んだ不快感を、認めることさえ腹立たしかった。
(命龍は力ある生き物。人である原初の神子と契約を交わし、氷雪の地に平穏をもたらした)
国の成り立ち、それに伴う命龍と神子との神話は、右と左を理解した子供を相手にはまず伝えられる教えである。ディルカメネスの民は子守唄にそれを聞き、枕語りにそれを聞き、歴史として、説教として、それを頭に擦り込まれながら育っていく。
(ゆえに人は龍を崇め、神とした。神殿は命龍を祀る場所、神子は命龍に仕える者。……それの)
それのどこが、おかしいというのだ。
苛立ちは消化できないままわだかまり、ハルミヤの脳裏をじりじりと焦がそうとする。踏み固めた土を端から掘り返される感覚に、奥歯をきつく噛みしめていた。
「……ルカ、ディルカ。ハルミヤ・ディルカ、聞いているのですか」
霞がかっていた外界への意識を、呼び声が引き戻す。はっとして目をしばたかせれば、講師は渋い顔でハルミヤを凝視していた。
くそ、と内心で毒づく。上の空になっていたのだろう。
後悔は一瞬で追いやり、ハルミヤは平坦な声で謝罪を告げる。生徒の間から漏れる嘲笑を無視するのには慣れていた。講師はわざとらしい溜息をつき、教本を閉じると、ハルミヤを顎で指す。
「法術とは。論じなさい、ハルミヤ・ディルカ」
(……法術、とは)
言葉の整理に要する時間は一呼吸足らず。瞬きで区切りをつけ、唇を開く。
「法術とは、神の奇跡。命龍シルヴァスタが我らに与え給うた力。人は祈りを糧に、護符を媒体に、その力を引き出し恩寵を受ける」
「ならば護符とは?」
言い終わらぬうちに問いかけを重ねられた。罰か、それとも見せしめか、と彼の意図を図りながら、ハルミヤはそらんじた教本の文章を引用する。
「護符とは神からの恩賜。具体的には命龍の体の一部、またそれを加工したもの。人は護符を媒介に命龍シルヴァスタと疑似的な盟約関係を結び、法術を行使する」
「よろしい」
講師の自慢げな表情は、求めた回答が得られたためか、それともハルミヤの態度に反省を見たためか。他の者も見習うように、と続けた彼は、再び教本を開いて授業を再開する。あちらこちらからの敵意には素知らぬふりを返し、ハルミヤは今度こそ講師の言葉に意識を傾けていた。
やがて授業は各自訓練へと移行し、生徒は散り散りになって指定の法術を発動させ始める。広間の喧騒から離れるように場所を取り、ハルミヤはひとり、自らの護符を見下ろした。龍鱗の断片を瓶に詰め、紐でくくり上げたばかりのものだ。行使できる力も遊び程度のものだろう。
(それに比べて)
ハルミヤの胸元には、法衣に隠れるようにして神子候補の証がぶら下がっている。原形をとどめた龍の爪は珍しく、間違っても学徒に与えられるものではない。綿密な詠唱を下地に法術を組み上げたなら、建物ひとつを軽々と吹き飛ばすだけの力は秘めているだろう。
護符は、龍との擬似的な盟約の媒介となる――ハルミヤは自らの言葉を反芻して、ならば、と考える。
(真の盟約を交わした神子は、一体、どれだけの力を持つことになる?)
思考に時間をかけるまでもない。国を守るだけの力を、と、降って湧いた言葉がそのまま答えだった。
神子の力は奇跡の顕現、と言われる。傷や怪我を治療するだけがせいぜいの神官や護神兵とは異なり、神子は産まれ持った病を癒し、死した人間をも蘇らせるという。その噂の真偽は定かではないが、龍と神子の存在が、ディルカメネスを他国から独立させておくだけの抑止力になっていることだけは確かであった。
ハルミヤは胸においていた手を下ろし、小瓶を掲げる。呼吸を整えれば自然と背筋が伸びた。
「大いなる神の猛りを。その羽ばたきのもとに生ず、一陣の風を希う」
媒介から滲む力を、緻密に練り上げ、構築する。法術が法の術と呼ばれるゆえんである。
銀糸を揺らした風は、ひととき目の前をよぎって散る。教本に記された通りの法術を組み終えれば他にすることもなくなった。ぼんやりと遠くを眺めているうちに、終業の鐘が鳴る。
「そこまで! 課題の終わらなかった者は後日私の元へ来るように」
ひときわ高く足音を響かせ、講師は生徒の護符を集め始める。手持無沙汰になったハルミヤがふと顔を向けた先では、未だに課題をこなしていない男子生徒が顔をしかめていた。講師はあえて遠回りをしたあと、最後に彼に歩み寄り、掌を差し出す。
「フェネオン、……セルジュ・フェネオン。今日はここまでです」
「先生、もうちょっとだけ待って下さい。やり方は見えてきたんです。なんとかしますから」
「時間は時間です。フェネオン、あなたは同じ理由で他の課題も提出していないでしょう。もう猶予を与えるつもりはありません。護符を返しなさい」
彼らの光景も見慣れたものだった。ほうぼうから上がるからかいの声を、セルジュはうるさいなと一喝する。そうしてついに自棄になったのか、早口で祈りを口にし始めた。
「もう諦めなさいと――!」
講師が苛立ちを露わにしたとき、その手元で、小瓶の中身が一斉に熱を持った。
虚を突かれた彼が止める間もなかった。乱雑に組み上げられた法術を、セルジュは制御しきれずに解き放つ。途端、渦巻くつむじ風は害意を宿した突風へと姿を変えた。その矛先がハルミヤの方へと向いたことに彼の意志はないだろう。
「あの馬鹿……」
ハルミヤは一直線に襲い来るそれを見やり、逡巡の末、胸元に手をやる。神子の証にセルジュと同じ内容の祈りを捧げ、向かい風を放った。ぶつかり合った風は小さな竜巻を生じ、やがて薄れて消えていく。あとに残ったのは呆然とハルミヤを見る生徒たちの姿だった。
怒りのままに床を踏み鳴らし、ハルミヤは鋭い一瞥をセルジュに投げる。どういうつもりだと叱りつけてやるつもりで息を吸うも、その勢いはセルジュの疾走に削がれた。瞬く間に距離を詰められ、怒声も呑み込まされる。
「悪い、ハルミヤ! 怪我は無いか、どこか痛むところは」
「ど……何も、別に、私は。それよりな、」
「傷は。本当に何もないのか」
「何もないと言っている! 少し黙れ、人の話を」
「先生、ハルミヤは大丈夫なんですか。内臓に影響が出るとか、これから気分が悪くなるとか……!」
自分に話が向くとは思いもしなかったのだろう、講師は息を詰まらせる。護符を所持していないはずのハルミヤの法術に目を丸くしていたのは彼もまた同じだったのだから。
しかし生徒の手前、困惑を表に出すことは良しとしなかったのだろう。すぐにひとつ咳払いをした。
「ディルカ。本当に怪我は無いのですね」
「ええ、無事です」
「ならば心配は不要でしょう。フェネオン、あなたは至急私の部屋に来るように。よろしいですね。単位が受けられるなどとは思わないことです」
「はい」
セルジュが暗い顔で首肯する。講師は再び咳払いを行うと、授業の終了を告げて去っていった。
有耶無耶にされた、と苦い顔をしたのはハルミヤだ。決着のついたことをあえて掘り返すのも躊躇われ、講師の後を追うようにして広間を後にする。あのハルミヤだぞ、よく無事だったな――取り残された生徒たちがセルジュに駆け寄り、そう口々に声をかけるのを、意識を残したままの耳が確かに聞いていた。