放課後になれば人気に埋もれる図書館も、授業中とあっては閑散としていた。
三階建ての建造物に吹き抜けを作り、さらに内壁を本で埋めつくした神学院の図書館は、ディルカメネスじゅうを探し回っても類を見ないほどの蔵書数を誇っている。はるか高みにある天井には四つ足の龍の姿が描かれ、そこから降り注ぐかのように書棚が連なっていた。
膨大な蔵書の管理を担うのは数人の講師と生徒たちだが、人の少ない時間とあっては影も見当たらない。ハルミヤはこれ幸いと図書館に入り込み、中央の机に目的の本を発見した。
「あいつ、中途半端なところに……」
運び込むだけ運び込んで途方に暮れたのだろう。まばらに並び替えられた梯子の様子を鑑みれば、彼が管理者を見つけることもできずに、あちらこちらを歩きまわる姿が目に浮かぶようだった。結局処分に困り、ハルミヤがここを訪れることを見越して、目につく場所に残しておいたといったところか。
(その通りに動いている私も私だが)
本の背表紙をめくり、返却手続きの終えられていないことを確認して息をついた。再貸出しの手間を考えずに済んだだけ幸運だ。そのまま間近の椅子に座り込んで、読み終えた本と手もつけていない本との仕分けを始める。
元の通りの順番に積み重ね終えたところで、背後に気配が立った。
「こんにちは、蒼玉のお嬢さん。探し物は見つかったかな」
口の端が引きつるのは反射だった。ハルミヤはつと視線を逸らし、無言を貫く。露わにされた拒否の姿勢を意にも介さず、彼はのうのうとハルミヤの隣に腰を下ろした。
柔和な顔立ちの男子生徒だ。背は高いが、線が細いために威圧感は感じさせない。蜜色の瞳には終始穏やかな色がたゆたい、薄い唇は弧を描く。ハルミヤより年上であることは確かであるが、年齢の差が意味を為さない学院にあっては、彼の正確な歳を推し量ることは不可能だった。
名を、ラケイユ・ブラン。図書室の管理を担う生徒の一人だ。その整った顔立ちがにこにこと自分に向けられるのを、ハルミヤは苛立ちを覚えながら受け取った。
「邪魔をしないでくれないか」
「いつになく気が立っている。それとも、いつも以上にと言うべきか。ついさっき長身の騎士殿がここを訪れていたようだけど、知り合いだろう? 図書室をぐるぐると回ってから出て行かれたよ」
「お前、黙って見ていたのか」
「本を返されると困るのはきみかと思って。……その本、『龍の牙に対する分析』。三日前は別の生徒が読んでいたから、まだきみの手に渡って間もないはずだ。さしものきみも読み終えていないだろうと思ったのだけど、余計なお世話だったなら反省するよ」
言いながら首を傾ける。反省する気は欠片もないのが明らかだった。しかし図星を突かれている以上、言い返すこともできない。やり方というものが、と説教をするのも馬鹿馬鹿しく思えた。
早々にラケイユの存在を意識から追いやろうとしても、彼は頬杖をついてじっとハルミヤの手元を見つめている。ハルミヤもしまいには苛立って、「なんだ」と睨み返した。
「まだ何も言っていないだろう」
「目がうるさい。用がないなら近寄るな」
「それは無理な相談だ。知人がいれば近寄りたくもなる」
けろりと言うのが憎らしい。地面を踏み鳴らそうとする足を意志の力で押しとどめ、ハルミヤはそっぽを向いた。しかしラケイユはわざとらしく周囲を見渡して、再び口を開く。
「今日はひとりなんだな。紅玉のお嬢さんはどうしたんだ」
「あっちに用があるならあっちに言ってくれ、私に構うな」
「どちらに用があるわけでもない。きみがここにいるから話しかけているだけだ。ああ、そういえば、知っているかなディオスクロイ。蒼玉と紅玉の差異は、ただ微細な成分のみにあること」
「至極どうでもいい。……あとその名で呼ぶな、鬱陶しい」
幾度となくくり返した言葉を、やはり同じ口調で口に出す。ラケイユは柔らかに微笑むだけだ。少しも応えてはいないのだろうその表情に、また苛立ちが募る。
ディオスクロイは神の双子。全なる大神の身許に産まれた双星。彼らの名はもはや、古代の異教神話に見られるのみだった。
命龍を抱くディルカメネスの神学校では、古代神学をあえて学ぶ者など稀だ。そのうちの一人である上、現代では迷信とされる占星術を好き好んで履修している時点で、ラケイユという生徒に下される烙印は“変わり者”をおいて他にない。
無論そんな彼と授業で顔を合わせることはなかった。必修であるはずの講義にも姿を見せたことのない彼が、真に神官を目指しているかどうかは甚だ疑問である。
(心配してやる義理もないが)
ハルミヤの側は一切の関わりを持ちたくないというのに、何が気に入ったのか、彼は彼女を見かけては付きまとおうとする。それも図書館においてはほぼ確実に出くわすというのだから、やがてハルミヤがそこを避けて通るようになるのも当然のことなのだった。
「片割れのお嬢さんが駆け足で通り過ぎるのを見かけた。すぐにきみも続いていったけど」
ハルミヤの本の山から手つかずの書物を取り上げて、ラケイユはぱらぱらとページをめくり始める。取り返す気も薄れて無視を決め込むが、「呼び出しでも食らったのかい」という問いかけには無意識に眉間にしわが寄った。それを見て、彼はからからと笑う。
「きみほどわかりやすい人もいないな」
「周りの生徒に言ってみろ。十人が十人、口を揃えて否定するだろうな」
「そうかい? ……こんなに」唐突に突き出された指が、ハルミヤの眉間をなぞる。「表情に出ているのに。僭越ながら、俺からひとつ助言を。もう少し笑ってみてはいかがかな」
不快感も露わに指先を払い除けたところで、小さな笑声が返ってくるだけだった。皮膚と爪の感触を頭から追いやり、ハルミヤはラケイユを睨みやる。
「それを別の奴にも言われた。同じ言葉を返すなら、余計なお世話、だ」
言いきって、今度こそ顔を背ける。
本来ならばラケイユに見つからないよう、すぐにでも図書室を離れるつもりでいた。しかし一度見つかってしまった以上はいつ出て行こうと同じことだ。始業の鐘が鳴るまで、彼はハルミヤの後をついて歩こうとするだろう。
ハルミヤにとっては厄介なことに、ラケイユは人目を引くような容姿を携えている。ただでさえやっかみが耳障りだというのに、痴情のもつれまで向けられては敵わない。もうあの方に近付かないでと少女に石を投げられたのも、まだ記憶に新しかった。
(近付きたくないのは私も同じだ)
意味を為さない独り言を滔々と聞かされるのにはうんざりしていた。しかし金輪際付きまとうなと言い聞かせたところで、彼が素直に従うはずもない。相手をするから付け上がるのだとよく理解してはいたが、ラケイユはいとも簡単にハルミヤの意識を引き寄せてしまうのだった。
静まり返った図書室に、ページをめくる音だけが響く。ようやく黙ったか、とハルミヤが息をついたときだった。ラケイユはぱたりと本を閉じ、元の場所に戻して、息をつく。
「それにしても、神子か。災難だな」
「お前、聞き耳でも立てて……!」
言葉を返してから、やられたと思い至っても遅い。ラケイユは指揮を執るかのように指先を振るう。
「きみの片割れと一緒に、神殿のクレマン司祭を見かけてね。こんな時期の訪問はおかしなことだろう? 記録を掘り返せば、司祭殿は、今代の神子を神殿に召す際にも伝令の役を負われていたという。そこにきみが優秀であることを併せ鑑みれば、新たな神子としてきみが……いや、きみたちが選ばれたと考えてもおかしくない。両翼が揃って招かれたということは、選定の前段階でも行われるのかな? ……ほら、正解だ。また眉間のしわがきつくなった」
ハルミヤは深い溜息をつく。
出会って一年と少し。思い知らされたのは、ラケイユが頭の回る男であることだった。
(……もう限界だ)
秘された事実にまで踏み込ませたくはない。やすやすと他言するほど彼の口が軽いわけではないとしても、弱みを握られるのは癪だった。
だが本を引き寄せ、椅子を蹴って立ちあがったところで、ラケイユに呼び止められる。殺気混じりの瞳を返せば、彼は打って変わって神妙な顔つきで余所を向いていた。
「神子か。不思議だな、きみのような一介の生徒が神子になるだなんて。龍と盟約を交わせば、きみはきみでなくなるのか。民を導くほどの人間に変わるとでも? 龍という存在に、本当にそれほどの力があるのか」
「信仰を疑うなら学院なんてやめてしまえ」
縋らねば生きられない人間がいる。神官にならなければ人並みの生活すら許されないハルミヤもまた同じだ。彼らにとって、頭上に広がる信仰という名の天井はどこまでも平等だった。誰が背を伸ばしても届くことのない、むしろ頭を押し潰すばかりの信仰――それに抑えつけられて初めて、人は同等の場所に立つことができるのだから。
ゆえに、根幹を疑うことは許されない。揺さぶるものが存在するならば、排斥をもってそれに応えなければならない。その相手が貴族であろうと貧者であろうと同じことだ。
しかしラケイユは、安易に疑念を口にする。神学院に在籍しながら真上に唾を吐きかける矛盾を、彼は一顧だにしないのだ。
「たとえば、龍がもう一匹いたとしたら? 強大な力を持つ者がすなわち信仰の対象であるなら、その龍もまた、神になり得るのか」
「……馬鹿なことを」
「そうかな」
「ああ、馬鹿なことだ。龍がどれだけいたところで、何ひとつ変わりはしない。ディルカメネスの神は命龍シルヴァスタ、ただ一柱のみだ」
古来より続く信仰が崩れるはずがない。すでに人々の中に根付いた木々は、吹雪に枝葉を散らすこともなくそこにある。倒れることがあるとするなら、それは神殿そのものが神の存在を否定したときだけだろう。
ラケイユは寂しげに目を細めて、首を振った。
「……きみは、目に見えることしか見ようとしないんだな。視点を変えてみることを勧めておくよ、双星ばかりが双子座じゃない」
「得意の謎かけなら担当教授にでもぶつけていろ。私はお前に付き合う気はない」
終業の鐘が鳴る。いい機会だ。本を抱え、大股で立ち去ったハルミヤに、「つれないことで」と苦笑が向けられた。