神学院長テオドール・キュヴィエは、坐したまま双子を見比べる。
髪を結いあげているか否か。法衣に乱れがあるか否か。二人を見分ける基準となる箇所はその二点のみだった。白皙に現れる表情は本来鏡のように違っても、今一時は同様に緊張ばかりが浮かべられているためだ。
「ハルミヤ、エツィラ。まずは急な呼び出しを詫びよう。すまなかった」
その口から吐き出された謝罪に、二人は揃って首を振る。そうしながら、ハルミヤは横目でエツィラをうかがっていた。
テオドールの言葉を待つ姿勢からは、状況を知っている様子は見て取れない。彼女も説明のないまま連れて来られたのだろう、瞳にはうっすらと困惑を浮かべている。
さて、というテオドールの前置きに導かれ、再び視線を前に戻す。彼の顔色は常の通りに読めなかった。
「今日きみたちを呼び出したのは、功績を讃えるためでなければ、失態を叱るためでもない。……紹介しよう、こちらは神殿のクレマン司祭だ。きみたちに神託を伝えにいらっしゃっている」
命龍シルヴァスタが、神子にのみ与えるという言葉。すなわち神殿が国権の最高機関として存する理由――それが神託だ。無論それは国の行く先を定めるもので、おいそれと一個人に向けられるものではない。ハルミヤが「神託」とくり返せば、鷹揚にうなずきを返される。
「ハルミヤ・ディルカ、エツィラ・ディルカ。まずは誓いなさい。ここで耳にしたことは、決して他言しないこと。きみたちの胸の中に留めておくことを」
二人の少女は一度視線を交わし、ばらばらに誓いの言葉を述べる。よろしい、と認めるテオドールの声はこころなしか張り詰めていた。
「では、司祭殿」
「ええ。この場を整えてくださったこと、神殿に代わり感謝いたしますよ」
クレマンが一歩一歩を踏みしめるように歩み、二人の前に立つ。老いているとはいえ長身である彼を見上げ、ハルミヤはその顔に、いつになく厳しい表情を認めた。長い時間を置いて、乾いた唇が開かれる。
「神子が、亡くなりました」
――きん、と、刺すような耳鳴り。
突きつけられた言葉を、ハルミヤは受け入れることができなかった。
「……司祭様、何を」
「これは神殿に留められ、未だ秘された事実です。龍の声を聞く神子は、先日、逝去なされたと」
「何を言っておられるのですか、」
「神子の死は神殿の綻び。ゆえに我らは、早急に新たな神子を見つけださねばならない」
「っ、司祭殿!」
声を張り上げたところで、ハルミヤ、とたしなめられる。咎めるように眉を寄せたテオドールを一瞥し、早口に謝罪の言葉を述べはしたものの、それで心が収まるわけではなかった。
神子は命龍と盟約を交わした存在だ。もの言わぬ龍は神殿に眠り、盟約で繋がれた神子にのみ意志を伝える。それこそが神託であり、神たる龍から国へと告げられた助言である。
盟約の下に命龍の力を共有する神子には揺るぎなき命が与えられ、定められた人の生よりも長くの時を生きてゆく。先代、先々代の神子もまた、二百を優に超える年月を健やかに生きたと伝えられていた。しかし今代の神子は、龍との約を交わして未だ短い。人としての生を併せても、今年でちょうど齢三十。いくら歴史書をさかのぼったところで、それほど短命な神子は存在しない。
「今代の神子はまだお若いはずでしょう。命龍の加護を得ながら何故……!」
「龍の力に耐えきれなかった。神殿の意志はそう考えております」
並び立つ高位神官たちが構成する、神殿議会。神子を中心に集った彼らが神殿の行く先を定め、王家を媒介として国民や他国へ影響を及ぼしている。議会の決定は絶対にして厳格、ゆえに王権を以てしても抗うことは認められていなかった。
神殿が正といえば正、邪といえばまた邪である。クレマンの言葉を受け、ハルミヤは喉奥に出かかった抗議を呑み込む他になかった。
「……司祭様。それでは何故、私たちが呼ばれたのでしょうか」
エツィラがたどたどしく問いかける。クレマンは頷いて、懐から二つの首飾りを取り上げた。
素っ気ない銀の鎖に装飾は無い。点々と取りつけられた玉も高価なものではないだろう。しかし中心に備えられた濁った白色は、磨かれた牙の形をしていた。それを眼前に見つめながら、ハルミヤは首飾りが命龍の護符であることに思い至る。
「これをあなた方に。今から肌身離さず傍に置くように」
「司祭様、まだ答えを頂いておりません。何故私たちはここに呼ばれ、この護符を与えられているのですか」
エツィラに代わり、ハルミヤは再び問いを発する。
話が長いのを好く性質ではない。まわりくどい言い方も、あえて真意を隠そうとするかのような段取りもだ。隣ではエツィラが手を胸に置いていたが、ハルミヤの言葉には同意しているのだろう、引き止めることはしなかった。
クレマンは瞳を鋭く光らせ、一歩を後ずさる。そのまま居ずまいを正し、二人を交互に見つめたあとに目蓋を下ろす。再び言葉が紡ぎ出されるまでには長い間があった。
「神託を与えましょう」
一言。静聴を強要する響きに、背筋が伸びる。
「――ハルミヤ・ディルカ、エツィラ・ディルカ。神たる命龍はあなた方を神子の候補と定め、一月の後、新たなる神子を選定する」
見開いた目を、動かすことができなかった。
(……神子、の、候補?)
心中でくり返し、それでも受け入れられずに戸惑いを返す。視界の端ではエツィラが、やはり口を開いたままで動きを止めていた。
神子の選定の方法は知られていない。神託を受けた者が神殿に召され、命龍との盟約を交わす――公に知られているのはそこまでだ。若者が選ばれることが多いとはいえ、基準が明らかにされている訳ではない。龍の言葉が民間に知れ渡るようなことは起こり得ないため、神子の代替わりは、神殿からの事後発表をもってディルカメネスに伝えられる。
ゆえに、考えもしなかった。神殿に仕えることを行く末に定めながら、神子は自らとはかけ離れた世界の存在であると見做していた。ハルミヤは頭を動かすこともできずに瞳を揺らす。衝撃から立ち直るのは、エツィラのほうが早かった。
「納得、できません。……神子の選定なんて、候補だなんて、聞いたことがない。神託が神子を選ぶなら、なぜ最初から一人を定めようとなさらないのですか」
「これは神託であり、神殿の意志であるのですよ、エツィラ」
「そんな理由、受け入れられるわけが」
「あなたは神のご意思を疑うと?」
エツィラが言葉に詰まる。片割れが唇を噛みしめる傍ら、ハルミヤは無言で視線を下げた。双子であるがため、などと、虚言を吐かれるならば追及するつもりでいた。しかしクレマンにはもとから説明を行うつもりがないのだ。
神殿という集団を相手にすれば、小娘一人の反抗が刃を帯びるはずもない。ふたりが黙りこんだのを見下ろして、クレマンは目を細めた。
「先代は龍の力に耐えられなかった。ゆえにハルミヤ、エツィラ、あなた方には期待が寄せられています。今はその護符を身に付け、学業に励みなさい。やがて神託が下るでしょう」
汚れなど知らないといった口ぶりで、司祭は謳う。そこには背後の思惑を無視する響きがあった。彼を前にエツィラは口を上下させ、なおも反抗の糸口を探る。押しとどめたのはハルミヤだった。
「……ご神託、謹んで頂戴致します」
「ちょっと、ハル、」
黙っていろ、と視線で訴える。エツィラの当惑を黙殺して、ハルミヤは再びクレマンに頭を下げた。エツィラは渋々それに倣い、同じ言葉を口にする。同時に顔を上げれば、司祭と理事長はほっと息をついていた。
「用事は以上です。さあ、お戻りなさい」
クレマンの勧めに頷きを返して、ハルミヤは三人に背を向ける。心残りを抱えた様子のエツィラを叩いて扉に手をかけた。失礼しました、とそれぞれに一礼したところで、それまで静観していたテオドールがおもむろに口を開く。
「忘れてはならない」
心臓に触れるかのような声色。
つられてふり返った二人の少女に、院長は湖面のような瞳を見せた。
「たとえ宿命が分かつとも、たとえ運命が逸れるとも。世界が誰を選び、誰を残すとも。ハルミヤ、エツィラ、憶えておきなさい――きみたちは双子なのだよ」
その声は助言にも、予言にも似ていた。クレマンに与えられたものよりもよほど神託じみた言葉に、しかし意味を取れぬまま、ハルミヤは小さく頭を下げる。部屋を退出し、扉を閉め直す寸前、深い溜息を聞いた気がした。
取っ手から腕を下ろすと、肩から力が抜ける。知らぬ間に気を張っていたのだ。さて、と背後に顔を向ければ、案の定膨れ面が待ち構えていた。
「ハルミヤ、どういうつもり。きみだっておかしいと思っているんでしょう」
断定する口調に否定を返すつもりはなかった。鼻を鳴らして、ハルミヤは顔にかかった横髪を払う。
「だから何ができるわけでもないだろう。相手は神殿だぞ。私たちは与えられるのみ、受け入れるのみだ。問うことも許されないなら、粛々と従う他に何がある」
「それは、そうかも、しれないけどさあ」
なりゆき任せを旨とする片割れが、こうまで執着するのも珍しいことだった。ハルミヤは揶揄するように眉を上下させるも、やはり彼女を咎めるつもりはない。すぐに懸念を追い払った。
「それに、ああだこうだと悩む必要もないからな。私とお前が候補に選ばれた、ならばそもそも宣託を待つまでもない。神子になるのは私だ」
エツィラが目を瞠る。ぱちぱちとしばたかれる目蓋を見ても、ハルミヤに撤回をする気は湧かなかった。
自信には確かな裏打ちがある。学院の外、他の者たちと比べるならまだしも、相手がエツィラであれば敗北する理由が見当たらないのだ。身に付けた知識や法術の扱いも、まず遅れを取ることはない。命龍との盟約により健やかな命が手に入るなら、産まれ持った体も引け目にはなり得ないだろう。
「お前にはやらないよ、エツィラ。これは私のものだ」
「……なあにそれ」
ややあって、エツィラが破顔する。憑き物が落ちれば、あとに残るのは普段通りの困り顔だった。
「あーあ、なんだか安心しちゃった。ハルミヤも変わらないよね」
「どういう意味だ」
「言葉通り。いつまでもきみは、私の暴君だよ」
ハルミヤの前に手を振って、エツィラはくすくすと笑う。自分では決して浮かべない表情を形作る同じ顔に、ハルミヤは眉を寄せた。“暴君”の不機嫌を見て取ってか、エツィラは踊るように廊下を踏んで距離を離した。
「そろそろ行かなきゃ。補講抜けてきてたんだ。ハルミヤはどうせ空き時間だろうけど」
終業の鐘にはまだ遠い。時間を潰す方法を考えるものの、最初に頭が向いたのはバルクに取り上げられたままの本の行方だった。手持無沙汰になった彼ならば、おそらく図書室へ運ぼうと考えることだろう。現にここには青年の姿形もないのだ。
(まだ使う本だというのに)
書きあげなければならない論文が残っている。そのための書物を、今図書室に戻されるわけにはいかない。足を向ける先は決まったが、気鬱さに深い溜息が出た。ハルミヤの内心を見透かして、エツィラが唇の端を吊り上げる。
「図書室に行くんでしょう」
「ああ」
「いつもそういう顔してる。本は好きなのにね」
「好きでも嫌いでもない。必要だから読むだけだ」
そう、本は嫌いではないのだ。――嫌いなのは、むしろ。
重い足取りで廊下を行けば、背中からは控えめなエツィラの声援が飛んだ。