命龍の体の一部を加工した護符を媒介に、祈りの韻律の下、龍の力を顕現させる――法術と呼ばれる力を操る、神殿の固有兵力。それが護神兵である。神の権威と同義に語られる法術の存在は、ディルカメネスに強大な軍事力をもたらした。北国の小国が他国の侵略を受けぬまま存続する一因がそこにある。
 バルクの法術によって、ハルミヤの打撲痕は痣ひとつ残さずに消え去ってしまった。つるりとした肌を眺めながら、しかしハルミヤは渋い顔をする。
「この力が、体の中身も治してくれればいいんだが」
「……ハルミヤ」
 バルクの声が低くなる。余計なことを言った、とハルミヤは首を振った。
「もういい、……迷惑をかけた。離してくれ」
 腹筋に力を込めて、バルクの体を押しのける。ふらつきながら尻を持ち上げれば土埃が舞った。法衣が暗色であることが幸いして汚れは目立ちそうにないが、それでも一度後で洗う必要があるだろう。眉を寄せるエツィラの顔が思い浮かび、自然、ハルミヤの口からは溜息がこぼれた。
 顔を巡らせれば、片割れよりも先に憂慮を向けてくる者がいる。バルクはハルミヤの頭から足までを眺め、小さく唸り声を上げた。
「今度は誰だ。エツィラとの人違いか、恋人を奪われた女の腹いせか」
「残念ながらただのやっかみだ。もう慣れた」
 虫を払うように手を振る。
 一度一度に感傷を抱いていては、そうそう生活してもいられない。廊下を行けば皮肉や冷笑を受けることなど日常茶飯事だ。暴力を振るわれたことは想定外だったが、それも今回が初めてではなかった。骨が折れなかっただけ幸運だったと言っていい。
 しかし学院の外部にいるバルクにとって、ハルミヤの境遇は目に余るようだった。
「……もう少し穏やかに暮らせないのか」
「あっちに言ってくれ」
「お前にも原因はあるんじゃないか。ほら、もうちょっと人当たりを良くするとか、笑ってみるだけでも少しは違うだろうし」
「余計なお世話だ」
 バルクが唇を引き結ぶ。続く無言は、教え子に手を焼いた教師のそれに似ていた。
 彼と出会ってから数年、何度も苦言を呈されてきた。その度に同じ返事を吐かされることに辟易してはいたが、ハルミヤにはそれ以外に返す言葉を持っていない。
 膠着した日常、知識だけを蓄えるだけの生活。心境の変化など起こるはずもないというのに、バルクは諦めも知らずに呼びかけてくる。それをお節介だと切り捨てることもできないまま、ずるずると年月を重ねてしまった。
 学院に通い始めてはや五年。身に付けるべき単位はあとわずかだ。――卒業はもう、目の前に迫っている。
「そもそも、奴らを見返してやれと言ったのはお前だろう。私は言う通りにしているだけだ」
「いや、確かにそうは言ったけどな……」
「実際、お前の言った通りだよ。神官になれば誰に蔑まれることもない。この名も、生まれも」
 貴族と同等の舞台に立ちさえすれば、知識は身分差を埋めて余りある。幾度となく浴びせかけられたそしりも、天に唾を吐きかけるだけの行為に変わる。貧しい捨て子に与えられた唯一の機会を、みすみす逃すつもりはなかった。
「……心配なんだよ」
 バルクは肩を落として、ぼそりと呟いた。
「そうやって人から遠ざかって、いつかとんでもないことに巻き込まれたらどうする。お前は独りで、誰に頼ることもできない。……そのときに俺がいてやれればいいが、神殿の人間は学院のことには手出しもできないだろう」
「とんでもないこと?」大声で言い返して、ハルミヤは酷薄を笑みに宿す。「それならこうして産まれついたことが、十分とんでもない悲劇だよ。走ることもままならない体、罵られるだけの身分……お前には一生分からないだろうがな」
「ハルミヤ!」
 叱咤が耳朶を打った。奥歯を噛みしめて、ハルミヤは顔を逸らす。
 就職に神学院の卒業を条件とする神官とは異なり、護神兵はその経歴を問わない。ともなれば当然、神殿との結びつきを求める貴族たちにとっては格好の的となる。龍の力を背後に持つディルカメネスを襲う国が存在しない以上、護神兵は神殿にとり、儀礼的な身分でしかないためだ。
 ハルミヤを諭すバルクもまた、ディルカメネスの地方領主の第二子である。長子を後継ぎに、以降の子女を護神兵にと望むのは、この国にあっては珍しくなかった。
(優しいことが言えるのは、脅かされることが無いからだ)
 必死に足場に縋りついて、やっとのことで生きている自分とは違う。バルクの非難の視線を振り払うようにして首を振ると、ハルミヤは再び彼を見上げた。
「それよりバルク、こんなところにまで入ってきていいのか。学院の敷地は部外者立ち入り禁止だ。厳罰を食らうぞ」
「あのなあ。こっちはお前を心配して」
「私は私のせいでお前が減給でもされないか、心配でたまらないよ」
「……はいはい、どうも」
 口の減らない、と、バルクがひとりごちるのを耳にする。聞こえないふりをして返答を待てば、彼は頭を掻いた。
「今日は司祭様の付き添いだ。院長殿に用があるとかでな」
「クレマン司祭が? 何のために」
 神学院は神殿の下部組織にありながら、ほぼ完全に神殿から独立した地位を築いている。学院長であるテオドール・キュヴィエは神殿に仕える一神官である一方で、学院の全権を総括しているのだ。そのため、神殿が彼に無断で学徒たちに影響を及ぼすことは許されていない。無論逆もまた然りである。
 ゆえに、神殿からの訴えかけが起こされる季節は自然と限定されてくる。しかし今日はそのどの時期にもあたらないはずだ。バルクも詳しくは聞き及んでいないのか、「神殿の命だそうだ」とだけ返して肩をすくめた。
「お前を探していたのもそういうわけだ。司祭様と院長殿がお呼びだぞ」
「私を?」
 叱責や称賛を受けるような行動を起こした記憶はない。バルクに疑いの目を向けてから、彼もその理由を知らないことを思い出す。
「分かった。何を言われるにせよ、院長先生が呼んでいるなら行く以外にない。……まったく、何が私の心配だ。最初からそう言えばいいものを」
「そりゃあ悪うございましたね」
 ぶつくさと呟くのを、バルクには苦笑でかわされる。仕方なく地面にばらまかれた本を拾いあげても、俺が持っていくからと取り上げられた。そのまま先導する彼に続けば、道行く学徒たちには奇異の視線を向けられる。
 バルクはそれに気付かない。ハルミヤもまた、気付きながらそ知らぬふりをしていた。批判の目が好奇に色を変えたところで、身にまとわりつく不快感が消えるわけでもない。気を紛らわせるべく、バルクの背に声をかけた。
「司祭様の付き添いだと言ったな。転移陣でも使ったのか」
「いや、歩きだ。専任官がいなかった」
「お前でも誰でも、別の人間が起動すればいいだけだろう。そう難しい話じゃない」
 転移陣は既存の陣から陣への転送を行う設備だ。神殿や学院等の要所に置かれたそれらは、移動する者たちとは別に、ひとりの起動者を必要とする。組まれた法術は難解なものではないが、陣の作動と移動とを同じ人間が行うことは不可能であるためだ。
 そのため転移陣には専任の神官が置かれ、神殿からの許可の確認と陣の作動を担っている。法術の知識さえあれば誰にでも行える仕事であるためか、入れ替わりの激しい職としても有名だった。
「陣の周りが封鎖されていたんだ。何かしらの大事があったのか、それともこれから起こるのか……護神兵がたむろしていて、近付こうにも近付けなかった」
「それで馬車もなしに、司祭様ともども仲良くお散歩か。もちろん十分な護衛は組んだんだろうな」
「俺含め片手で足りる程度だ。あの方も呑気だからな……」
 ほっほっと笑う好々爺の姿が目に浮かぶ。クレマンについては遠くから見かけたことが数度あるのみだが、白髪交じりの頭といい、目元に刻まれた幾本ものしわといい、孫を抱えてほほ笑んでいるのが似合いの老爺だった。バルクが呆れる理由を想像するのも容易いことだ。
「いつか背後から刺されても文句は言えないぞ」
「そうされないように気を配ってはいるんだがな」
 バルクが頭を掻く。とはいえ、クレマンもまた学院の出身である。劣等生に厳しいこの神学院で、たゆむことなく知識と法術を身に付けたひとりだ。決して有事が起こらぬよう、護衛も選び抜かれているのだろう。
(私が口を出すことではないな)
 大志は持たない。用意された神官の地位を、自らの力でもぎ取るだけだ。神殿を改革する意志も、他者に口を出すようなお節介も持ち合わせてはいなかった。ハルミヤが望むのは平穏と安泰、貧者では持ち得なかったそれのみ。整えられた立場を横から奪い取ろうとする者がいるならば、容赦なく噛みついて食いちぎるだけのことだ。
 正門から学院に入り直し、点々と並ぶ高窓から差し込む光を遮り歩く。石造りの床は靴の音を高く響かせ、内部の空気は庭とは打って変わって冴えていた。昼どきゆえにランプの照明は落とされ、薄暗い廊下には人の気配が薄い。時折反響してくる声は、あちらこちらに設えられた講堂から漏れる講義の内容だろう。その頃にはハルミヤが先に立ち、バルクが彼女の後ろを歩いていた。
 図書室や管理室、教室の群れの前を通り過ぎ、いくつもの階段を上って、ようやく院長室にたどり着く。部屋の前で足を止め、ハルミヤは大扉を眺めやった。格調高い金の縁取りと扉に刻まれた文様は、学院が神殿の名のもとに学術を伝える機関であることを示していた。その向こうに佇む相手の顔を思い描いて、無言で唇を噛む。
(苦手だ)
 物心つく頃の記憶に、院長テオドールの存在は深く刻み込まれている。
 路傍に捨てられたという赤ん坊は、彼の意志によって拾われ、学院脚下の孤児院に受け入れられた。それからの数年間、時折目の前に現れては高尚でうすら寒い言葉を投げかけて去っていくテオドールを、ハルミヤは口に出さないながらも敬遠していた。
 初等部生の身分を得て学院の門をくぐり、院長と生徒として向き合うことで、いくらか距離を置いて彼を見られるようにこそなったが、抱き続けた警戒心は未だに抜けないままでそこにあった。善意で子供を拾い、善意で彼らを育てた――その善意の裏側を、探らずにはいられないのだから。
(優しいばかりの人間なんていない。……当然のこと)
 親代わり、ではなく、あくまでも院長として、神官のひとりとして彼を見る。そうして付き合うのが最善だ。ハルミヤは吸いこんだ息を腹に留めて、扉を叩いた。
「失礼致します、院長先生。ハルミヤ・ディルカです」
 声色は固く、曲がらず。穏やかな「お入り」という声を受けてなお、ハルミヤが息をつくことはなかった。
 押し開いた扉の向こうには、整頓された文机と書棚が待ち構えている。第一に目に入ったのは机に向かう初老の男の姿だ。その傍らにクレマン、そして理事長であるモーリスの姿を認めて、呼び出しの理由が並ならぬ事態であることを悟る。
 しかしふと視線を逸らした先に人影を見たところで、ハルミヤの緊張は一瞬にしてほころびかけた。
 銀の髪、青の瞳、藍色の法衣には微かなほつれ。張り詰めた空気に唇を引き結んでいた少女は、ハルミヤと同じ形をした顔にわずかながら安心を浮かべる。
 エツィラ。
 呼びかけるのをすんでのところで堪え、佇む三者を振り仰ぐ。その背後で、無音のまま扉が閉められた。