神学院は広大な王都の西部に位置している。都の中央部には神殿が、その東部に王宮が添えられ、三所は転移陣による行き来が可能となっていた。とはいえ陣の利用が許されているのは神官と王族、一部の貴族に限られているため、王都内での交通手段はもっぱら馬車に依拠している。
 そんな王都にあって、御者に払うべき運賃を持たない庶民の世界は、徒歩での移動が可能な数地区のみに狭められていた。中央地区への居住が許されるのは神官や高位貴族ばかりであり、貧民ともなれば都の辺境に肩を寄せ合って暮らすほかにない。
 いくら命龍の加護があるといえども、都の内外を隔てる石壁付近には凍てつくような冷気が押し寄せる。ともなれば、そこでの暮らし向きが穏やかであるはずもない。神の名が平等を約束するものでないことを、ハルミヤはよく心得ていた。
(地位を、得なければ)
 力無い者に、平穏な生は許されない。何度呟いたかも分からない言葉を再び自分に言い聞かせる。参考書と論文にかじりついてきたのも、その先に安泰が待ち受けていると確信できるが故だ。
 精神に落ち着きを取り戻し、一心に向かう先は学院の正門。そのために抜けていくのは、学院の横を通る脇道だった。校舎に入るよりは早いだろうと判断してのことである。
 王都同様に広大な敷地を有した学院は、主として学問の場となる学院地域と、遠方から王都へ移り住んだ学徒のための宿房地域に分かれている。千を越える学徒を擁する学院内は複雑に入り組んでおり、目的の場所に辿り着くために回り道を強いられることも多いのだ。――たとえ午下がりの太陽が、遊歩道へと暗い影を落としていようとも。
 ハルミヤの足音ばかりが響いていた学院裏に、他人のそれが混じり始める。眼前から向かってくる長身の青年からねぶるような視線を向けられるのを感じて、ハルミヤは危うく舌打ちをしかけた。すんでのところで抑えこんだのは、彼が一瞬、迷うような表情を見せたからだ。
「ん、……おい、お前」
 無視すべきか、否か。逡巡して、仕方なしに立ち止まった。高い位置にある頭を見上げ、何か、と言葉を返す。その素っ気なさに、彼は目の前の人間が“姉の側”であることを悟ったらしかった。
「こんな時間にどこへ行かれるんです? 主席のハルミヤ・ディルカ殿」
 嘲笑混じりに呼ばれた名に、ハルミヤの口元が引きつった。胸にわだかまった暗雲を無視して、平静を装う。
「正門へ向かう途中です。人を待たせていますので」
 一見したところ、青年は自分よりも年上であるようだった。しかし歳による学年付けを行わない学院において、年齢の別は学力の基準にはなりえない。求める者にのみ学術の扉は開け、貪欲な者にこそ叡智がもたらされる場所だ。
 そうした学院の仕組み上、ハルミヤは当然卒業の必須科目のみを取得するようになった。同じ授業を受けながら首座を譲らない年下の小娘を、面白く思わない者が多いのも当然のことである。彼も同じ輩だろうと結論付け、なるべく関わらないようにと、ハルミヤは急ぐ様子を見せた。
「時間が迫っていますので、失礼したいのですが」
 しかし青年はハルミヤを手放すつもりはないらしい。陰険な笑みを口元に張り付けたまま、大げさな動きで肩をすくめた。
「授業時間に逢い引きですか! はは、優秀な生徒は違う」
「……何か、仰りたいことでも?」
 じりじりと、苛立ちが募っていくのを無視できなかった。ハルミヤは大地を踏む足に力を込めて、内面が表に出ようとするのを堪える。そんなハルミヤの努力を知ってか知らずか、青年は「ええもちろん」と首を上下に降り、嘲るように鼻で笑った。
「今度ご教授いただきたいものだ、一体どうやって」ぐい、と、顔が寄せられる。「先生方をたぶらかすのか。そのお綺麗な顔はさぞかし便利なことでしょうねえ?」
(耐えろ)
 爪を手のひらに食い込ませ、ハルミヤは無言で余所を向いた。ここで言い返せば面倒事になる。今まで何度もそうして失敗してきたのだ。
 青年からすれば、ハルミヤから反発が向けられないのは面白くないのだろう。漂った不穏な空気を裂くようにして、再度唇から侮蔑を紡ぎ出す。
「宝石も泥の中から生まれるというし、美しい顔を手に入れたいなら、まずは掃き溜めから生まれねばならないらしい。それなら僕には無理だ、はは、美人はディルカに限られるというわけか!」
 指先が跳ねる。それが断ち切ったのは、長らく張り詰め続けた堪忍だったのだろう。
 かっと頭に熱が昇った直後、思考は急激に落ち着いていく。ゆるやかに顔を上げたハルミヤを見返して、青年は眉を動かした。瞳に無機質めいた底冷えを宿し、ハルミヤは重い唇を開く。
「勿体ないお言葉をいただき、恐悦の至りです。ありがたいことに、それが可能な顔を持ち合わせておりますもので」
「……な」
 青年が期待していたのは激昂であったのだろう。すらりと並べたてられた言葉の羅列に、表情を凍らせた。対するハルミヤは一度、時間をかけてまばたきをする。
「ご提案を下さったところ恐縮ですが、それを用いるつもりは一切ございません。仰る通り、優秀ですので。……あなたとは違って」
 一言一言に力を込めた刃だった。受けた青年の顔が歪むのを見やり、これ以上留まるのは得策ではないと判断する。失礼、と言い残して足を動かした。わなわなと肩を震わせる青年から視線を外し、自らの足取りに専念する。
「……ん、の……!」
 わき腹に衝撃を受けるまで、彼が足を振り上げたことに気付かなかった。
 軽々と地に叩きつけられ、体を打つ痛みに苦悶の表情を浮かべる。すぐに慣れ親しんだ発作が襲ってきた。息苦しさに、たまらず咳をくり返す。打撲の痕は遅れて存在を主張し、内外からの苦痛に涙が滲んだ。
 土を踏む、耳障りな足音。目の前に迫った靴の先は、迷わずハルミヤの腹を蹴り抜いた。
「……ぐ、」
 足先は執拗に同じ場所をいたぶり続ける。避けようとしても、体は思うように動かない。えぐるような打撃が止むのを、声を堪えて待ち続けることしかできなかった。
 はあ、と、先に息をついたのは青年のほうだ。肩で息をしながら、熱に浮かされたように笑い声を上げる。
「は、はは、ああ、そうだよなあ、そうやって病弱なふりをすれば、先生方はこぞって心配してくれるもんなあ!」
 呼吸は掠れた声を伴った。うまく酸素を取り入れることができず、再び咳を招く。青年はむせ続けるハルミヤに勢いを呑まれた様子を見せたが、すぐにかぶりを振った。
「ディルカ、ただのディルカ! いいざまだ、今度は誰に何を強請るんだ? 先生方もディルカなんぞに随分とご執心だ、その様子じゃ学院長のお手付きって噂も本当らしいな!」
(……うる、さい)
 哄笑が耳障りだ。しかし当のハルミヤにはもはや、言い返す気力など残ってはいなかった。彼女が荒い息をくり返す、その間も青年は、ディルカの名を嘲りの意で口にする。
 ――ディルカ。ただのディルカ。それはディルカメネスの子を示す名、拾い子に与えられる名だった。親の顔を知らず育った子供たちは、その名を抱えて生きることを定められる。貧富の差がはっきりと区別される以上、ディルカ姓は身分のない人間を端的に示すものでもあった。
(だからこそ、私は、神官に)
 誰もが振り仰ぐ、その座に立たねばならない。何故なら学術は決して裏切らない。名よりも資産よりも雄弁に、栄光を語ってくれる。
 脈打つ心臓を抑えつけながら、ハルミヤは顎を震わせた。そうしてきつく、青年を睨みつける。
 足元から向けられた反感に、彼はいたく嗜虐心を煽られたようだった。大きな舌打ちの音にハルミヤの悲鳴が重なる。
「お前みたいな、お前みたいながきは害悪なんだ、貧民は貧民らしく地べたを這いずりまわっていればいいのに、こんなところまで上ってきやがって……!」
 ねじ込むように腹を踏みつけられ、徐々に体重が乗せられる。骨の軋む感覚がハルミヤの眉間にしわを増やした。薄れかけた意識のさなか、ハルミヤは胸中に思いつく限りの悪態を叫ぶ。しかし実際に口をつくのは、反射で漏れる苦痛の声のみだ。
 青年はすでにハルミヤを意識から外している。血走った目からは躊躇が失われていた。許しを乞おうともしない少女を、青年はさらに力を込めて蹴り付けようとする。脇道に声が響いたのはその時だった。
「――誰かいるのか!」
 霧を払うような一喝。ハルミヤの鼻先に向けられた足がぴたりと動きを止めた。
「……ちっ、先生か」
 最後に腹をひと蹴りして、青年は小走りで立ち去っていく。
 名も知らない相手の暴力を密告することは不可能だ。首尾よく逃げた相手を呼び止めることも敵わず、ハルミヤは頭上を見上げていた。視界が薄ぼんやりと滲むのは、拭うこともできなかった涙のせいだろう。大小の粒の集まりに映った空を、しばらくして影が覆い隠す。
「ハルミヤ」
 相手を特定するには、その声で十分だった。
 ハルミヤは微かに口を動かすも、返事は声にならない。相手はそれで事態を察したのだろう。地面に張り付いていたハルミヤの背に腕が回され、ためらいがちに引き上げられた。間近にある彼の胸元には、菱形にかたどられた護符が揺れている。
「悪い、めくるぞ」
 腰紐で留められていた法衣が、少しずつはだけられていく。肌着を胸のすぐ下までめくりあげた段階で、彼の動揺が伝わってきた。わずかな躊躇の気配の後に、硬い手のひらが腹に添えられる。
「大いなる龍の御霊に、温情願い奉る。脆き命に光あれ」
 祈りの文言に反応し、護符が淡い光を放つ。やがて、彼の手が触れた部分からは痒みに似た刺激が沸き起こった。じわりと沁みる温もりが、徐々に痣のまだらを消していく。
 それがやんだとき、ハルミヤはようやく体から力を抜いた。自由になった腕で目元を拭い、自分を覗きこむ青年を見つめ返す。護神兵の制服である濃紺の着衣を身に纏い、首元には命龍の護符を吊り下げた彼こそ、ハルミヤの待ち人。
「……バルク」
 呼べば、ほうと息をつかれる。薄青の瞳には、色濃い心配が塗りこめられていた。