蜜色の光が降り注ぐ庭園を、せせらぎの音が満たしていた。
 煉瓦造りの噴水は鮮やかに水をほとばしらせ、その行方を四方の水路へと任せている。円を描くようにして庭の周囲を廻った水は、再び噴水の足元へと集い、空へと撒き上げられるのだ。とこしえの循環は、庭園を擁する学院の理想を体現していた。
 庭園の周囲に並べられた長椅子には、今も数名の学徒が腰を落ち着かせている。皆一様に革表紙の本を膝に、あるいは手の上に置き、彼らはそれぞれに憩いのひとときを送っていた。
 その間を、エツィラは早足で抜けていく。彼女は学院の制服である藍色の法衣を身にまとい、ひと抱えの本を胸に抱いていた。銀の髪を躍らせ、しかしどこへ向かうということもなく、小走りであちらこちらを駆けまわる。長引いた講義を終え、探し人を見つけるべく視線を廻らせているのだ。
 庭園の周囲には等間隔に木々が植え付けられている。その根元では、一人の少女が身を隠すようにして眠りについていた。やっとのことで彼女を見つけだし、エツィラは呆れ混じりの吐息を漏らす。
「ハルミヤ」
 同じ藍の法衣、銀の髪。目蓋に覆われた紺青の瞳も同じ色をしている。そればかりか、低い背丈や細身の骨格、整った顔立ちの全てを、二人の少女は同じように持ち合わせていた。眠る少女が髪を高い位置に束ねていなければ、鏡映しの二人を見分けることはかなわなかったことだろう。
「ねえ、起きて」
 頭上から声を降らせても、閉じられた目蓋のひとつも動かない。眠る片割れを見下ろして、エツィラはむうと唇の端を吊り下げた。
「ハルミヤ、ハル、起きて。起きてよ、……もう、ミィったら!」
「やめろ」
 幼い頃の呼び名を口にされたところで、少女――ハルミヤが目蓋を上げる。露わにされた瞳の奥には、暗い不機嫌が覗いていた。
「なんだ、起きているんじゃない。人が悪いな」
「庭を走り回られれば嫌でも耳につく」
 起こそうとする前からすでに意識があったということだ。エツィラが溜息をつく前で、ハルミヤは背にこびりついた木の破片を払い落していた。
 彼女の傍らには、やはり数冊の本が重ねられている。どれもが学位に関連する参考書だ。論文の原稿までは見当たらないが、そもそもハルミヤは外で書きものをする性質ではない。手慰みにページをめくっているうちに睡魔に襲われたのだろうが、積み上がった本の並びはいっそ嫌味なほど几帳面に揃えられていた。
 エツィラはその傍らにしゃがみ込んで、まったく、と首を傾ける。
「優等生さんは余裕でいいよね。優雅にお昼寝だなんて、さ」
「補講を食らうお前が悪いんだろう。今さら、一体どうしたら神学概論なんか落とせるんだ」
「そんなのこっちが訊きたいよ」
 ハルミヤが学院の首座を堅持し続ける傍ら、エツィラは毎日のように積み重なる補講に追われていた。ゆえに先の時間も本来であれば別の講義に出席するべき時間であったが、彼女たちがそこに籍を置いていなかったのには、正反対の理由がある。
 すなわち、すでに単位を取り終えたハルミヤと、出席の条件を満たせていないエツィラ。鬼才の集うディルカメネスの神学院においても、二人は異質な双子だった。
「同じ顔だっていうのに、どうしてこうも違うんだろうね」
「それはお前が……」
 言い返そうとしたハルミヤが突如、大きく咳き込む。背をさすろうとするエツィラの手を振り払い、なおも拒絶を示すように自分の身を小さく丸めた。耳を裂くような咳の音を数分響かせた後に、荒い呼吸をくり返しながら顔を上げる。呼吸が正常に戻る頃には、再び顔に不遜を貼り付けていた。
 エツィラはハルミヤの手のひらを一瞥する。喀血のないことを見て取って安堵の息を漏らしたが、顔色は次第に曇っていった。
「……最近、酷くなったね」
「さあな」
「昔は運動でもしなきゃ咳き込んだりしなかった。こんなに長引くこともなかったし」
「冬になったからだろう。空気が乾燥しているんだ」
「でもハルミヤ」
 黙れ、と、一喝の代わりに向けられた目に、エツィラは追い縋ろうとする言葉を呑みこんだ。
 ディルカメネスの王都は一年を通じて一定の気候が保たれている。本来ならば氷雪に閉ざされるばかりのその雪原地帯を人の住まう地へと変えたのは、命龍シルヴァスタの力だ。そのため古来より人は龍を神とあがめ、信仰を捧げている。神たる命龍、それにいと近き神子、そして神殿。ディルカメネスの根幹を構成する命龍信仰の主軸である。
 そんな王都に置かれた神学院にも、当然寒暖の差は及ばない。ゆえにエツィラが口にしかけた反論を、ハルミヤが悟っていないわけもないのだ。ハルミヤはうつむいたエツィラを一度だけ見やり、ややあって視線を外す。
「体が悪くなっていようと、そうでなかろうと、することは変わらない。学院を卒業して神官になる、それだけのことだ。お前も同じだろう」
「……それは、そうだけど」
 孤児である二人が学院に通うことを許されているのは、ひとえに学院長の資金援助があるためだ。彼は才気ある捨て子や孤児を拾っては私費で育てており、その後押しを受けて学院を卒業した者も少なからず存在している。しかしその一方で、一度彼の信用を失った子供たちの行方が知れないのも事実であった。
 国の柱を命龍信仰に置くディルカメネスにおいて、神殿組織はすなわち王家以上の権威を持つ。彼らの指導者たる神子は国内外の統治に対する発言権を持ち、神託と称した神子の助言で国家は回る。ゆえに神殿に仕える神官たちは、敬虔な信仰心に加え、学術を修めた文官であらねばならない。彼らを輩出する機関こそがディルカメネスの神学院である。
 各地の鬼才天才が集う門にして、国内最高峰の学問機関である神学院を卒業すること。それ以外に、神殿への道は開かれない。ゆえに学院を出た者たちの存在は、身許がどうあれ畏敬の対象とされる。それは生まれ持った身分の上下を覆し得る唯一の道筋であった。
「神官になれば実入りが良くなる。体を治すならそれからだな」
 法衣の乱れを正しながら、ハルミヤが立ち上がる。呆然と片割れを見上げて、あれ、とエツィラは目をしばたかせた。
「次、授業だったっけ」
「待ち合わせがある」
 待ち合わせ。くり返して、エツィラが眉を寄せる。
 およそ愛想というものを持たないハルミヤだ。交友関係は無いに等しい。自ら他人を繋ぎ留めようともしないのだから当然である。そんな彼女の口から飛び出した単語の不似合いさに戸惑い、しばらくエツィラの頭は思考を止めていた。ハルミヤが本を抱え上げた段階で、あっと声を上げる。
「バルク!」
「そういうことだ。私は行くからな」
「ずるいよ、いつもいつもハルミヤばっかり。私だって話がしたいのに」
「勉強してから出直せ」
「してるってば!」
 むきになる片割れをせせら笑って、ハルミヤは歩き去っていく。エツィラは彼女を探していた理由を忘れかけていたことに気付き、はっとして腰を上げた。遠ざかりゆくその背に呼びかける。
「今日、ちょっと帰りが遅れるから!」
 了解を示す返事はない。いつものことだ。ハルミヤの歩調が心なしか軽いことを悟って、エツィラは眉を下げる。
「……もう。バルクによろしくねー!」
 ひらひらと後ろ手に手を振った少女を、エツィラは苦笑で見送る。肩をすくめたのと鐘の音が鳴り響いたのが同時だった。ハルミヤにとっては長い空き時間の範疇であるが、エツィラにとっては新たな補講の始まりを告げる鐘だ。慌てて本を抱え直すと、元来た道を走り去っていった。