寝つきが悪かった。
 ここ数年というもの、快く眠れたためしがない。意識を闇に溶かそうとすれば、ふいの発作に揺り起こされるからだ。
 十分な睡眠が取れなければ病状が悪化する。悪循環だと分かっていてもどうしようもなかった。加え、寸前に交わされた会話は、今も頭の中に居座りハルミヤを蝕もうとする。
(何が。何が、待っている、だ)
 エツィラが浮かべたのは、驕りの表情ではなかった。あれは自らの行く先を確信し、受け入れたが故の諦めの色だ。
 無理にでも引き止めて、話を聞けば、その内心が伺い知れただろうか。そう考えている自分に気付いて、ハルミヤは胸に悪態をついた。能天気な片割れの胸中を覗いて何になる、あればただ不安をちらつかせているだけに過ぎないだろうに――ならば、それは何故。思考は元の場所へと舞い戻り、苦い思いで唾を飲み込む。途端、前触れもなく襲った不快感に押されて咳き込んだ。
 寝台の上で体を丸め、敷布を握って、衝動が収まるのを待つ。一度発作に襲われれば、ハルミヤには耐えることしか許されなかった。やがて胸の異物感は波のように引いていき、あとにはひりつく喉の痛みと混濁した意識だけが残る。
 上半身を起こせば、枕元には血の痕が残っていた。ぬめりを帯びたそれに指を這わせ、続いて濡れた口元を拭う。頭が冴えるのを待ち、息をついて寝台から抜け出した。
 顔にかかった髪を背に流す。ランプの光は艶やかに銀糸を伝い、ハルミヤの目をやわく焼いていた。
(日は跨いだ、か)
 月が中天を越えているにもかかわらず、部屋にエツィラの気配はない。泊まりがけかと自分を納得させて、ハルミヤは空のグラスに水を満たした。口の中に流し込み、喉を冷やしてから嚥下する。中身を空にすれども寝室に戻る気にはなれず、結局居間の椅子に体を落ち着けた。宿房の廊下がにわかに騒々しくなったのはそのときだ。
「……なんだ」
 一人ごちて、視線を扉へ向けた。
 宿房には門限が定められている。それを破る者がいないわけではないが、真夜中に大騒ぎを起こすような輩が即時追い出されるだけの規律は整っている。すぐに止むだろうと目を逸らしたハルミヤの考えは、しかし、軽々と裏切られる。
 理由のひとつは、漏れ聞こえる声が切羽詰まった響きを帯びていたこと。そしてもうひとつ、騒ぎは静まるどころか、意識を傾けずとも耳を突くほどに大きくなっていることだった。
 何かが起こっている。歓迎のできない何かが。ハルミヤは束の間呼吸を止めて、寝室へと踵を返した。本棚の上に無造作に置かれた首飾りを、片手で掴みあげる。嵌めこまれた宝玉が青く煌めいた。
(蒼玉、か)
 脳裏をよぎったのは、うそぶく青年の声だった。奥歯に物がつかえたような違和感の正体が見極められないでいる。ぼんやりと動きを止めている間に扉が叩かれ、弾かれたように顔を上げた。
「ハルミヤ! おい、起きろ!」
「もう起きている!」
 叫び返し、急ぎ扉を開けば、すでに見慣れた護神兵の制服が目に入った。その片手に抜き身の剣が握られているのを見て、ハルミヤはぎょっとする。
「何があった」
「よかった、まだ無事だな」
「何があったのかと訊いているんだ」
 声量を上げてくり返すと、バルクは背後に視線を走らせてから部屋に入り込んだ。彼の手によって鍵が掛け直されるのを、ハルミヤは呼吸を詰めて見守る。遠くでは怒声に混じり、確かに剣戟の音が響いていた。
「……宿房が、襲われているのか」
 意を決して問いかければ、バルクが視線を揺らす。正しくは、と彼は前置きをして、ハルミヤを見据えた。
「狙われているのはお前だ。奴らは、ここを探している」
 奴ら。頭で咀嚼して、襲撃者が複数人であることを知る。
 とはいえ、学院は神殿の傘下にある組織だ。ほうぼうから集った未来の神官たちを、そうやすやすと無法者の手に晒すことはあり得ない。昼夜問わず門の前には監視の者が付き、事が起これば護神兵が駆けつける警備体制が整っている。襲撃者の人数が揃っていたところで、彼らの前には無力だ。すぐに捕縛され、意図を吐かされた上で厳罰が下されるだろう。
 不安を抱く理由はないはずだった。しかしバルクの表情は厳しい。
「警備の人数が少なすぎる。護神兵の数もだ。俺だって、院長殿に呼ばれなければここには来なかった」
「院長先生が、お前を? いや、その前に」頭を抱える。混乱しているのだと自覚して、息を深く吐いた。「標的は、本当に私なのか」
 無言のあとに、ゆっくりと頷かれる。
 何故、と、問いかけを発するまでもない。ハルミヤの首に下がった神子候補の証が最たる理由だ。一人の学徒に過ぎないハルミヤには、その他に襲撃するだけの価値などないのだから。無意識に胸元へと手をやったハルミヤに向かい、バルクは「最初から話す」と首を振った。
「俺は院長殿からの伝令を受けてここに来た。お前が……神子候補のひとりであるハルミヤが、狙われると聞いてな。お前を神子にと望まない人間が、宿房に刺客を放ったらしい」
「……狙われ、る? 院長先生はこのことを」
「ああ。おそらくは事前に見越していたんだろう」
 ならば、早々から警備が組まれてしかるべきだ。騒ぎが大きくなるほどに後手に回るようなことは起こり得ない。バルクは表情の険を濃くする。
「おかしいのはそれだけじゃない。院長殿ともあろう方が、どうして俺個人に伝令を送る必要がある? 何故神殿に直接知らせなかった?」
 積み上がる疑問の山が、一つの答えを暗示する。目を向けまいとしていたそれに、バルクが標を立てた。
「刺客の中に、見知った顔があった。……あれは護神兵だ」
「……っ」
 全身の力が抜けていく。視界からは全くの色彩が失われるのを感じた。傾いだ体をすんでのところで押しとどめたのは最後に残った矜持だ。
 神殿は、もとから、エツィラを神子にと定めていた。
 事実の理解は同時にいくつもの疑問を生み落とし、ハルミヤの混乱を駆り立てる。――ならばなぜ、自分が狙われねばならないのか。そもそも、エツィラを神子にと望むのであれば、なぜ彼女一人を選び出さなかったのか。
 ハルミヤが視線を落とした先には、神子候補にと与えられた首飾りが揺れている。研磨された牙にゆっくりと焦点を合わせたとき、あちこちへ投げ出されたままの糸が結ばれるのを感じた。かきむしるように首から剥ぎ取り、吐息を震わせる。
「まさ、か」
 ――繋がる。神殿があえて二人の候補者を立てた理由、二つの首飾りと、神託の降りたその日に狙われた宿房。訝しむバルクの顔を見上げて、ハルミヤは震える唇を開いた。
「候補を作ったのは。私を、学院から、切り離すためだ」
「切り、離す?」
「学院は独立した権限を持っている。院長先生の許可なくして、神殿が生徒の一人を特定することはできない。だからあえて私を候補として祀り上げ、この首飾りを与えることで、居場所を暴きだした」
 足音が近付く。迷いなく、まっすぐに、この部屋を目指して。
 龍の鱗、牙から作り出される護符は、その性質ゆえに、固有の匂いを持つという。気配、力、とも言い替えられるそれは、本来人間には嗅ぎ取ることのできないものだ。しかし法術を用いれば、護符の存在する場所を探り出すことは不可能ではない。
 視点を変えろ、と、声がした。揶揄が初めて真実味を帯びる。
 赤々と主張する的をつけ、身を隠そうとすることもなく。あれでは狙えと叫んで歩いていたようなものだ。首飾りを床に叩きつけて、ハルミヤは奥歯を噛みしめる。
「襲撃は、エツィラを神子にするための手段じゃない。私を殺すこと自体が、神殿の目的のひとつなんだ……!」
 足音が間近に響いた。間もなく乱暴に扉が叩かれる。部屋の主を呼ぶ大声すら、猟犬の叫び声に聞こえてきた。知らずぶるりと震えた体を、ハルミヤは両腕で抑えつける。
(殺される)
 明確な殺意が空気を裂く。微かに届く金属音は、剣の刃が地を擦ったためだ。扉が蹴破られれば、その切っ先は一直線に自分の胸を貫くだろう。
 言葉は通じない。逼迫した怒声がその証拠だった。
「……ハルミヤ」
 低い声が降って、床に落ちた護符の残骸が拾いあげられる。牙のかけらをハルミヤの目の前に差し出して、バルクは深く息をついた。
「逃げろ」
「……な、」
「逃げるんだ。俺がどうにかする、すぐにここを出て、奴らの手の届かないところへ」
「何を、馬鹿なことを……!」
 かっと目を見開く。喉元にせり上がったのは行き場のない怒りだった。
「一体どこへ逃げろって言うんだ! ここも神殿も逃げ道じゃないなら、どこへ!? どうせ門は封鎖されている、王都だってそうだ! 外へ逃げ切ったとしても私の体が耐えきれるはずがない、一人で這いつくばって死ぬだけじゃないか――!」
「それでも逃げるんだよ!」
 空いた手に牙が握らされる。痛いほどに存在を主張するそれを、ハルミヤは歯を食いしばって見下ろした。
 護神兵の持つ護符と遜色ない大きさの媒介を用いれば、確かに追撃を防ぐことは可能だろう。だがそれも相手がひとりであった場合のみだ。持つ者が人である限り、背後からの襲撃に気を配り続けることなどできはしない。
 しかしバルクは、ハルミヤの絶望を土足で踏みにじる。大きな掌が薄い両肩を握り、強い瞳は光を宿してハルミヤのそれを射抜いていた。
「お願いだ、ハルミヤ。お願いだから……生きてくれ」
 目を逸らすこともできない少女に、バルクは絞り出すようにして言った。
(……卑怯、だ)
 まさしく、彼のために。彼の心のためだけに、ハルミヤは死ぬことを許されない。
 開きかけた口が、ゆっくりと閉じていく。唇の裏側を血が滲むほどに噛みしめて、ハルミヤは再び息を吸った。
「転移陣だ。行き先を別の場所に指定して、跳ぶしかない」
 瞠目したバルクを睨み据える。顧みないぞ、と前置きをして、机上に放られたままの紐で髪を結い上げた。
「犠牲にしてでも、逃げ伸びる。……けしかけたのはお前だからな」