「騒がしいな」
 調理場と外とを隔てる扉に手をかけたカミルがぼそりと呟いた。なにがと返す間もなく扉は開かれ、なかの喧騒に首をかしげることになる。促されるままに先に調理場に上がりこめば、泥に汚れた靴は床に足跡を残した。誰かが飛んできて掃除を始めてもおかしくないところだが、少女たちの注意はみな一点に集められているらしい。
 遠巻きに調理場の中心を眺める彼女らのあいだをくぐり抜ける。床に倒れてその視線にさらされているのは、他でもない、赤い三つ編みの少女だ。気付くや否や駆けよってそばにかがみこんだ。同様に傍らに膝をついていたエッダとイレーネが目を瞬かせる。
「花嫁さま、外に出ていらしたんですか」
「ビアンカ、どうしたの!」
 彼女らを仰ぐ。すぐに立ち直ったイレーネがビアンカの額に触れ、顔をしかめた。
「高熱が出ています。ここのところ働きづめでしたから、過労のせいかと」
「イルマさんは……」
「それが、少し前に来客があったとかで出ていってしまって。ビアンカが倒れたのもついさっきで」
 指揮する者がいなかったためにおおわらわになってしまったのだろう。
 彼女の浅い呼吸が少女らを不安にさせるのか、うろたえている者が大半だ。その様子を見まわし、ごくりとつばを飲んで、エッダが立ちあがった。合唱を取りまとめるかのように二度高らかに手を叩き、いっせいに静まった皆の目を見るようにして視線を動かす。
「料理に戻ってちょうだい! ビアンカはこっちでなんとかするわ、これ以上遅れたらイルマさんの喝が飛ぶわよ!」
 あがりかけた不安の声を、自信に満ちた笑顔でかき消してみせる。互いに顔を見合わせた彼女らが一人また一人と食事の準備に戻っていくのにうなずいて、ぐるりとソニアたちを見下ろした。
「その子をどうしましょう。いつまでもここに置いておくわけにもいきませんし」
「ビアンカの部屋はわかる?」
 エッダは小さく首を振ったが、イレーネは無言でビアンカの背に腕をまわした。自分の肩に彼女の腕をかけさせ、ふらつきながら立ち上がる。イレーネ、と名を呼んだソニアをふり向いて、連れていきますからと足を踏み出そうとした。だが、いくらビアンカが小柄であるとはいえ、力の抜けた体を支えるのは難しい。歩くとなればなおさらのことだ。すぐにぐらついたイレーネの反対側に回りこんで、ソニアはもう片方の腕を肩に乗せる。
「手伝うわ。案内して」
 目も見ずに言う。遅れてイレーネのうなずく気配があった。彼女に合わせようと努めつつ歩を進めると、エッダが素早く調理場の扉を開け放つ。その扉を抜けようとしたとき、視界の端にカミルの顔が映った。
(ごめんなさい)
 彼に謝るのは何度目だろう。胸の奥でつぶやいて、それもすぐに頭から追いやった。
 長い回廊を、いくつもの扉の前を通り過ぎながら抜けてゆく。ビアンカの体は熱く、肌には薄く汗がにじんでいた。冷えた調理場などにさらしておけばすぐに体温が奪われてしまうだろう。ここですと短く伝えたイレーネの指示に従い、たどり着いた彼女の自室になだれ込むようにして足を踏み入れた。
 すぐにベッドに寝かせ、毛布で体を覆う。ビアンカの呼吸はなおも荒く、ときおり苦しそうに顔をゆがめてはか細いうめき声を上げる。倒れた直後よりも症状が悪化しているらしい。
「なにか。なにか、熱を下げるものは」
「花嫁さま、水持ってきました!」
 開かれたままの扉から顔を出したのは、水がなみなみと注がれた桶を提げたエッダだった。そのなかに浸された布をきつく絞って、ビアンカの額に乗せる。まばゆいものを見たかのようににわかに眉を寄せた彼女だが、やはり一向に呼吸は楽にならない。
「……花嫁様、あとは私たちが引き受けます。アーシャのもとへお戻りになってください」
 ややあって、イレーネが低い声で申し出た。
「でも、こんな状態のビアンカを放っておけないわ。お仕事を任されているわけじゃないし、まだここに」
「邪魔だ、と言っているんです。お分かりになりませんか」
「イレーネ!」
「エッダは黙っていてください。私は花嫁様と話をしているんです」
 そっけない返答のもとに切り捨て、イレーネはソニアを正面から見据える。
 怖いと思ったのは、彼女の瞳に少しのぶれもないから。そしてその言葉が、迷いなく正鵠を射ているからだ。立ちつくすソニアに、イレーネは追い打ちをかける。
「イルマさんも、エッダも、何も言わなかったでしょう? だからあなたはわからないままだったし、見向きもしなかった」
 ひとつ、呼吸をおく。
「ならば私が申し上げます。……あなたは邪魔です。邪魔なんです、花嫁様」
 放たれた言葉が頭を揺さぶった。
「愛でられるだけのご身分は幸せですか。意志も無く、流されるままに笑って、何をするわけでもなく他人に寄りそって。それではただの人形と変わらない。……いいえ、人形のほうがまだましです。何もできないなら何もなさらないでください、目障りです」
「イレーネ、そんな言い方」
「黙っていろと言ったでしょう!」
 エッダの肩がびくりと震えた。その顔に一瞬、怯えの色が浮かんだのを、彼女をちらと窺ったソニアは目にすることになる。
(ごめんなさい)
 わたしのために。……わたしのせいで。
 ソニアはただ小さな両手を握る。言い返すことのできない自分がひたすらに惨めだった。イレーネが口にしたのは紛れもない事実で、些細な意味の違いすらあれ、人形であるソニアの身分を思い知らせる言葉だったからだ。
 人形は。――人であることすら、許されない。
(……そんなの、わかってる)
 結局は、変わらないのだ。埃をかぶった家のなかは人の住む場所ではなかった。あの場所に住んでいたのは神に捨てられた母子で、あれは生きていたのではなく死から逃げ続けていただけだった。
(なら)
 人形は、夢見ることすら、許されない?
 ソニアは弾けるようにおもてを上げ、息を吸った。鋭さを得た瞳は自分を守るための剣だった。他人のために生きられる自分のこころを、信じるための礎だった。
「医者を探すわ。ビアンカに薬を持ってくる。……エッダ、アーシャラフトの町医者はどこにいる?」
「は、ええと……中央通りを、南へ下ったところに、ひとり」
「エッダ!」
 イレーネが咎めるための声を上げる。板ばさみになったエッダはソニアとイレーネを交互に見返したが、彼女がさらなる叱責を受ける前にソニアは部屋の扉を開け放った。
「花嫁様、何をなさるつもりですか!」
 背に受けた問いに、ふり返ることはしない。片手に挟んだ木の板をきつく握りしめた。
「わたしは、誰かのために生きられるわたしでいたいの」
 たとえば、ある少年のそばにいるために。たとえば、苦しみにあえぐ少女を楽にしてあげるために。些末なこの身を投げだすことが救いになるならば。
「ビアンカをお願い」
 長い廊下を、雨の街を、誰かのために走ることができたなら、それは自分の生きる理由になるだろうか。


     *


 すれ違いざまにぶつかった体は、見覚えのある少女のものだった。彼女を捜して宮殿の廊下を小走りでまわっていたのだから当然だ。おい、と声をかけたが、聞く耳を持たずに走り去っていってしまう。
 よほど急ぎの用事があったのかと考えを巡らせていたとき、やや離れた部屋から修道女がひとり顔を出した。短く切りそろえられた茶髪と緑石の瞳が溌剌とした印象を与える。今しがた通り過ぎていった少女と知人であったはずだ。
 何気ない様子を装って近づき、「どうしたんだ?」と声をかける。
 顔を曇らせたのは、なにか理由があるからだろうか。問い方を間違えたなと頭を掻き、カミルは尋ね直す。
「だいぶ急いだ様子だったけど。どこに行ったんだろうな」
「おそらく、街へ」
「街?」
「修道女のひとりが倒れたんです。花嫁さまはきっと、正面通り沿いの町医者を捜しに」
 不審げな彼女をよそに、カミルはなるほどと息をつく。調理場の騒動はそういうわけだ。修道女たちが輪になって見つめていたのは、熱を出して倒れた同僚だったのだろう。
 納得はしたが、引っ掛かりを覚えた。町医者を捜すといっても外は大雨だ。見たところ着ていたのは普段と同じ修道着が一着のみ、土砂降りのなかに飛び出していけるような服装ではない。これこそが使命なのだと言わんばかりの形相で駆け抜けていったが、あれは。
「……くそっ、あの馬鹿!」
 踵を返す。ぽかんとした表情で自分を見つめる彼女に体を拭う布の用意を頼み、カミルはもと来た道へ足を動かした。