うつろいゆくものだと思った。汲みあげた水は光を湛えてたゆたい、指の先をひたせば総毛立つほどに冷たい。映りこんだソニアの顔は、水面をさらった枯れた風のためにさざ波と消えた。寒さに震える手の上では桶の水が不規則に揺れて静まろうとしない。
 井戸のふちに桶を置いて、両手で水をすくいとる。かじかむ手のひらの痛みに耐えながら顔に叩きつけた。ぴしゃりと音がして、大粒の滴がしたたる。吹きつけた風がこれでもかとばかりに濡れた顔を冷やしていった。かたかたと震えだした歯をかみしめて、ソニアは水面に映った自分をにらみつける。腑抜けた顔をしていてはいけないことなど分かりきっていた。それだから心配を受けるのだ。
(……ちょっと、アーシャラフトを離れるだけだ)
 故郷に比べれば、クェリアなど遠方という言葉のうちにも入らない。メリアンツよりも近いぐらいだ。そもそも国の外にすら出ていないのだから、怯える必要などないはずだ。それなのにこんなにも不安になるのはどうしてだろう。
 離れたくないと思うのは、場所だろうか、それとも人だろうか。人だとするならば誰のことだ。懸命に思い浮かべようとしても、水面に映った自分のように揺らめいては消えていく。悪いことをしている気持ちになるのは、自分が花嫁なのだという自覚があるからだ。
 すきだと言って。花嫁として迎えられて。午睡のあとのまどろみに、冷水を浴びせかけられたようだった。
(こんなの、知らない)
 遠くにいてもいいと言った。彼がいなくなることがあまりにも怖かったからだ。
 けれどその隣に並べた瞬間に、その言葉すら裏切ろうとしている。どんどん欲深くなっていく。それが嫌で、嫌で、たまらなかった。そのくせ自分の気持ちすら疑わしくて、揺らぐ水面がひとりを映しだすことはない。
「……はあ」
「ずいぶん大きいため息だな」
 背に声をかけられた。驚いた拍子に、体が桶のふちにぶつかってしまう。傾いで落ちそうになったそれをぎりぎりのところで両手に収めたが、中身のほとんどがこぼれていった。盛大な水音が耳に入って、ソニアはいたたまれない気持ちになりながらふり返る。
 手ぶらのカミルが目をしばたかせていた。普段の修道服の上には、見慣れない暗い色の外套を羽織っている。彼は悪びれた様子も無く近づいてきて、気取らせもせずにソニアの隣に立った。
「花嫁が水汲みか。世も末だな」
「わたしがやらせてって言ったの。……あなたはどうして?」
「散歩」
「その格好で?」
 ソニアは眉をひそめたが、カミルは知らないふりで、その手の桶をひったくるようにして取り上げた。慣れた手つきでポンプを押して水を汲み直すと、今度は地面に桶を置く。空のままだったもう一方の桶にも同様に水を溜め、隣に並べた。
 手伝われたのだと思い至ったのは彼が自分をふたたび瞳に移したときで、はっと礼を言う。カミルが肩をすくめ、いいええと肩をすくめた。その大げさな動作に笑ってしまうと、彼もまた頬をゆるめた。
「うまくいってるみたいだな、あんた」
「え?」
「最初に会ったときはこーんな顔して」と目の端を指でぐいと引き下げて見せる。「つらそうにしてたからさ。でもここ最近はだいぶましになった気がする。あ、結婚式見たよ。幸せそうにしやがって」
 にやにやとする様子はからかっているようでもあるが、カミルなりに祝ってくれているのだろう。照れくさくなってまたありがとうを伝えた。いったいどうすれば彼のように人の心が見えるのだろうと思う。それとも自分は顔に出やすい性質なのだろうか。
 ソニアの内心などつゆ知らず、彼は複雑そうな表情で桶を見おろした。
「それにしても、こういうの……水汲みとかはさ、しないほうがいいと思うぞ。あんたは花嫁なんだし、頼むほうだって気が気じゃないだろうから」
「そうかな」
 カミルが深くうなずく。
「あんたがどんな生活を送ってきていたって、そいつらは知らないんだから」
 勢いよく跳ねあげた瞳がカミルのそれとぶつかり、彼が目を細めたのに気付いてしまう。思わず半歩、身を引いた。
(今の、は)
 かまをかけられたのだろうか。単にミセラの家庭のことを指して言ったのか、それともソニアの身の上まで見透かされたのか、動かない表情から読み取ることはできそうになかった。動揺を見せてしまったからには疑問に思われてもおかしくない。浅い一呼吸を置いて、大きく鼓動する心臓をなんとか抑えようとする。
「……あなたは誰なの? ラクスと知り合いみたいだし、あの事件のときも……まるで、刺客がいることを知っていたみたいだった。なにか」
「おかしい?」
 言いあてられて、視線を揺らした。疑っている自分のほうが責められているようだ。カミルは眉間にしわを寄せて笑う。
「固くなんなって。ずっと気になってたんだな、それ」
 彼が息を吐いた。ソニアのことを咎めようとする気色はない。なんとか話をそらすことはできたらしいとひとまずほっとする。
「ラクスからは?」
 首を振るだけで答える。だろうな、とカミルがうなずいた。
「聞いてたら俺となんか話さないだろうし。……そうだな、言うなら俺は、アーシャ反対派ってとこか」
「反対派……」
「そのままだよ。この教会にアーシャは要らない。女神様と総大司教がいれば十分だ、いつまでも輝かしい昔話に頼るつもりはないってこと」
 ラクスが、嫌いなのではなくて。
 彼は、アーシャが、嫌いなのだ。
 その動向にラクスが気付いていたのなら、カミルへの挙動に警戒がにじみ出るのもおかしいことではない。彼の名を知っていた理由もおそらくその延長線上にあるのだ。派閥を名乗るぐらいなのだから、いくらか加担する者もいるのだろう。
 ならば婚儀の前の襲撃事件と結び付けないわけにはいかない。教会に潜りこんだ刺客もまた、教徒と同じ白い修道服をまとっていたのだ。
「あなたは、わたしを狙ったひとの仲間なの」
「あんたを狙った、ね」
「答えて!」
 思ってもいなかった大声が出た。あの場に自分がいなければという思いがあるからだ。
 アーシャが刺され、刺客は自ら命を絶った。教会じゅうに衝撃を走らせた事件は、ラクスを狙っての襲撃だと伝えられ、調査されている。だがナイフを向けられたそのとき、ラクスは完全にソニアの陰にいる形で立っていた。彼がソニアを突き飛ばさない限りは刃の届かない位置だ。
 髪をかすめるほど間近に白刃の閃きを見た。自分を狙っていたのだと確信が持てる。ならば、ラクスは負うはずのなかった怪我を負ったのだ。刺客を放った者の目的は、単にラクスの継承を阻止することではない。
(カミルがそれを知っているなら)
 聞きださねば、と強く自分に言い聞かせたが、彼は軽く首をかしげた。
「俺は知らないよ。関係ないとも思いたいけど、どうだかな。肯定派も、反対派も、考えがひとつだとは言いきれない。まあ」浅く唇を噛んだソニアを見やって、カミルは肩をすくめる。「信じられないならそれでもいいけど」
「わたしは」
 言葉を止めたソニアにほほ笑みが向けられる。こつんと頭を叩かれた。
「信じるなんて簡単に言っちゃ駄目だ。痛い目を見るのは信じたほうなんだから」
 肩をすくめ、切なげに笑う。
 まるで“痛い目”を見たことのあるかのような言い草と、わずかに曇った彼の顔。はっきりとそれを目にしてしまい、胸をえぐられるような痛みを覚えた。――いま、自分は、彼を傷つけたのだ。ぬぐい去ろうと思ってもすぐには弁解の言葉が出てこない。沈黙ばかりが流れ、ソニアの口をより固く閉ざしてゆく。
 うつむいた頭に、ぽつり、としずくが落ちた。つられて頭上を向いた顔にもう一度。厚い雲に覆われた空から雨粒が落ちて、枯れた大地に黒い染みを作りだす。それらが勢いを増すまでにそう時間はかからなかった。顔をしかめたカミルが、ふたつの桶をつかみあげた。
「これ、調理場だな!」
「あ、うん」
 しどろもどろに返事をすると、ほら行くぞと急かされる。一足先に駆けだした彼のあとに続いた。もっと軽やかに駆けていけるだろうその足が躊躇するように走るのは、水の入った桶を運んでいるから。そうであれと願う心がどこかにあった。