ソニアが運び込まれていたのは、アーシャラフトの神官たちが寝所や生活の場として利用している宮殿のひと部屋だという。ナヴィア宮殿と呼ばれるそこは大聖堂と同様に白い石造りの建物で、四方を鉄の柵に囲まれていた。無論その柵にも細かな装飾が施されている。外観のみならず内部にも手の込んだ彫刻や絵画が見受けられ、アーシャラフト教会と女神の権威を明確に示す。
天にも届かんばかりのドームを持つ大聖堂とは対照的に、ナヴィア宮殿は広大な敷地を持つ、背の低い建造物だ。神官のひとりひとりに大小の差はあれど私室が与えられ、かつ敷地内にはふたつの中庭を擁しているという。ひとつは石畳に覆われ噴水の設けられた開放的な庭、もうひとつはアーシャのみが立ち入ることを許された花園だ。
女神の絵画が飾られた廊下を抜けるうちに幾人かの修道僧とすれ違った。張り付けられるような視線にソニアは背を丸めそうになり、そのたびにエリーゼは姿勢を正すよう注意した。アーシャの客人としてここにいる以上、なにも後ろ暗いことはないのだからと。
エリーゼのうしろをついて歩く姿はさながら親鳥を追うひよこのようで、周りからはさぞ挙動不審に映ることだろう。それでも部屋を出る前に整った服を着せてもらえたことには少なからずほっとしていた。身に着けていた服は風を通すほどにすりきれていて、汚れの見当たらない宮殿の中では望まずとも人目を引いてしまっていただろうから。
もっとも、周りと同じ服を着たところで、溶け込むことなどできはしないのだけれど。
「……あれが?」
「ええ、そうみたい」
うしろから小声で放たれた言葉が、自分に向けられた気がしてならない。すぐさまふり返りたい衝動をこらえて、ソニアはエリーゼの背に視線を固定した。一本の糸に吊られているように伸びた背すじは、じっと見つめていても寸分もぶれることがない。
そうして生みだされる一定の足音にソニアが慣れてきたころ、エリーゼはちらと彼女をうかがった。
「おそらく、アーシャはまだ宮殿に残っていると思います。来客があると言っておられましたから」
「邪魔をしたら悪いんじゃありませんか?」
内心の不安がそのまま言葉に出た。なにかしらの理由をつけて、アーシャの少年との対面を引き延ばそうとしている本心に気がついてしまう。
そうですねとエリーゼはつかの間考えるそぶりを見せて、肩をすくめた。
「それでも、あなた以上の大事ではないかと。これはアーシャの花嫁に関わる問題ですから」
「花嫁、って……アーシャも聖職者のはずですよね」
「ええ。けれどアーシャとその血筋に産まれた者は妻帯を許されています。そうしなければ血を受け継ぐことはできないでしょう?」
アーシャは血によって継承される。それを思い出して、そういえばと黙った。けれど、聖職者であるからには清い身であるべきではと一度考えてしまうと、いまいち腑に落ちない。エリーゼもさすがに説明が足りないと思ったのだろう。
「花嫁について語るのであれば、まず、アーシャラフトのなりたちを説明する必要がありますね」
思い出そうとするような間があって、言葉が続いた。
「受け継がれているアーシャという名は、もとはアーシャラフトを建国した英雄のものです。……かつて、女神であるノーディスを敬う教徒たちが住まうこの地で、異民族の侵入による争いがおこりました。長く続いたその争いを平定した青年の名がアーシャ――彼はもともとノーディスの信徒ではありませんでした。戦火の中でノーディスの神託を受け、剣を取って戦いを始めたといいます。彼を支えた女性を妻として異民族を鎮圧し、この地にアーシャラフトを建国したと」
アーシャラフトの民であれば誰もが聞かされる昔語りなのだろう。よどみなく紡がれる物語のうちに、エリーゼの声には懐かしむような優しさが混じる。
「平定のその日、異民族の最後の抵抗によってアーシャの花嫁は命を失いました。そのとき、この地に降るはずのない雪が降ったことから、彼女の魂は死してノーディスとの融合を果たしたのだといわれています」
「アーシャラフトに雪……本当に?」
「さあ、ずっと昔の話ですから」
それは当然のことだけれど、釈然としない。ソニアは唇を尖らせた。
「……ともかく。アーシャと花嫁の伝説にのっとって、花嫁を迎える儀とアーシャの継承は同時に行われることになりました。アーシャが女性であっても、その花嫁が男性であっても同じことですね。今代のアーシャ――ラクスは、ですから、正確にはまだその権限を持っていないことになります」
花嫁を迎えていないアーシャは、教会にとり、いち神官にすぎないということだろう。十七歳となれば、世間では一人前として認められる年頃だ。継承を果たすための婚儀も近かったに違いない。
(その相手が、ミセラというひとだったんだわ)
彼女はそのために、両親である公爵夫妻のみならず、アーシャラフトの教会からも身を案じられているのだ。死んだと思われている、という話が出されても、その言い分は彼女の死体を確認したことと同義ではない。ソニアは一縷の望みをかけられたのだろう。
銀薔薇のペンダントをソニアのもとに置いていった“誰か”がそのミセラだったのか、また別の人間だったのかまでは判断がつかない。どんな理由があって、彼女が姿を消さねばならなかったのかも。だがそこにアーシャの継承がかかわるともなれば、教会が躍起になるのも当然だろう。
聞かされたことをソニアが整理しているうちに、エリーゼの足は止まった。
金の手すりがついた扉とソニアとを見比べ、呼吸を整えてから、それを指のふしで四度叩く。なにか、と苛立ったような年若い男の声が返ってきた。
「失礼いたします。今朝発見された女性が目を覚まされましたので、ご報告をと」
彼がラクスという少年だろうと見当をつけて、その声に耳をすます。来客の様子をうかがっているのか、扉の向こうで何ごとか言葉が交わされたすえに、「入れ」という簡潔な指示が出された。
エリーゼが自分の様子をうかがっているのに気がついて、ソニアは小さくうなずいてみせた。彼女自身にも緊張があるのだろう、一呼吸おいて扉を押しひらく。失礼いたしますと繰り返した声が硬かった。
「あら」
最初に耳に入ったのは、老婦人があげた声だった。
ここは客人と対話をするための応接室なのだろう。部屋の中央には背の低いテーブルが据えられ、その両横に二人が優に腰かけられる大きさのソファがしつらえてある。部屋の四方の壁には目が痛くならない程度の柄で花が描かれていて、頭上のシャンデリアに灯るろうそくの明かりがそれを照らしていた。テーブルには一枚の絹のハンカチと、その上に銀の薔薇をかたどったモチーフのついた首飾りが置かれている。
部屋にいたのはふたり。ソファから腰を浮かせた少年と、ティーカップを口元に寄せた老婦人だ。そのふたりがそろって自分を見つめているので、居心地の悪さを感じてソニアは顔をそらす。
「彼女が?」
少年のほうが尋ねる。ソニアをねめつけて、それから彼より背の高いエリーゼを仰ぐ。
「はい。ミセラ様と思われましたが、ご本人は人違いであるとおっしゃっています」
「だろうな」
アーシャの少年がソニアに視線を戻す。険のある表情に、身を引きたくなるのを必死で耐えた。
「足音でわかる。別人だ」
「おと」
思わず小声でつぶやくと、少年はあざけるように笑った。
「声だって違うじゃないか」
説明をするつもりはないらしく、少年はそのままソファに腰をおろした。それから向かいの老婦人へ銀薔薇の首飾りを差しだす。精巧に作られた銀の薔薇は、さほど装飾品に詳しくないソニアをもってしても高値がつくだろうと思わせる逸品だ。それを繋ぐ細い鎖のひとつひとつにも微細な線が刻まれている。
老婦人はその首飾りを手にとると、いとおしむように両手で包みこむ。
「コルネリア夫人にお返しいたします。彼女がミセラ嬢ではない以上、それは貴女のもとに戻るべきだ」
「そうねえ。……ねえ、あなた」
数秒のあいだ、コルネリアの呼びかけが自分に向けられていたことに気付かなかった。遅れて「はい」と返すと、彼女はやわらかくほほ笑んだ。しかしその目は全くと言っていいほど笑っておらず、品定めをするようにソニアを見つめている。
「あなたと少し、お話がしたいのだけれど。よろしいかしら?」
「わたし、ですか?」
「ええ、あなたに。……アーシャ、そちらの方も。ふたりきりにしていただけると嬉しいわ」
「夫人」
少年が声を低くする。なにを危惧しているのかといえば、まず間違いなくソニアが暴挙を起こすことだろう。コルネリアの容貌、たたずまい、口調。どれを取っても、彼女の身分を想像させるには十分だ。
「彼女はなにも持っていないのだし、危ないことはないのではなくて?」
「ですが、夫人。万が一ということも」
「万が一」コルネリアはくり返し、「危険なことがあれば、すぐに駆けつけてくださるでしょう? アーシャの耳を持ってすれば容易いことのはず」と首をかしげた。
苦虫をかみつぶしたような表情で少年は何ごとか言いかけたが、口を開閉させるにとどまった。わかりましたと力なく言って、去り際にソニアへきつい視線を投げかける。彼女が体を震わせたのを意にも介さず、エリーゼを伴って颯爽と部屋を出ていった。
アーシャである彼の怒りをかったような気がして、ソニアは気が気でなかった。この部屋に入った瞬間から、彼が自分を睨みつけるように見ていたことを思う。エリーゼは人違いだと述べ、自分にはミセラの名を騙る気もなかった。少年が機嫌を損ねる理由に心当たりがない。
閉められた扉から目を離すと、コルネリアが視界に映った。
見知らぬ相手とふたり、応接室に取り残されている。そのうえエリーゼのように友好的に、ともいかないらしい。
「お座りになってちょうだいな」
言葉は優しいが、そこには強制する力があった。ためらいながらも向かいのソファに座る。今まで触れたこともない上等なそれに身を固くした。
「わたくしはコルネリア。話は聞いているかしら、アーシャの花嫁として選ばれていたミセラの母です」
銀薔薇の首飾りが、彼女の手の中で光を照り返す。
ミセラの母親。エリーゼが名を出した、ファルツ公爵夫人とは彼女のことだ。
「あなたの名前は?」
「ソニア、といいます」
「ソニア? 家名は」
返答に困って、迷ったあとに首を振った。
「ありません。生まれが貧しいので」
そう、と気にした風もなくうなずかれる。しんと部屋が静まって、責められているわけでもないのにソニアは身を縮めてしまう。彼女の意図――自分と会話の場所を設けた意図がつかめない。意識を取り戻してからこちら、わからないことばかりで目が回りそうだ。
ふと顔を上げれば、コルネリアがなにを言うでもなくこちらを注視しているのに気がついた。漂う沈黙に耐えきれず、とうとうソニアは口をひらく。
「ミセラさんは、亡くなったわけではないんでしょうか」
「ええ、生きているでしょうね。どこで何をしているかまではわからないけれど」
それを待っていたとばかりに、質問が終わると同時にコルネリアは返した。
(生きている、って)
ファルツ夫妻はミセラを死んだものと思っている、と、エリーゼは言った。彼女が嘘をついたようには思えない。そうすると必然的に、コルネリアらが意図して教会を惑わしたことになる。勘違いで済まされることではない。現に彼女は見つかっていないのだ。
コルネリアは、銀薔薇の首飾りをハンカチの上に戻して背筋を伸ばした。
「わかることはただひとつ。……あの子は、逃げだしたのよ。身分と運命から、この薔薇と名前を捨てて」
ため息交じりにこぼした言葉は凛として、寂しさが覗くことはなかった。