「……う、ん」
 まぶた越しの光がまぶしくて、反射で眉を寄せる。どうして光に包まれているのかと目をひらいた。飛びこんできた景色に、数度まばたきを繰り返す。簡素なベッドとクローゼットが置かれたのみの小さな部屋。宿の一室のようなその部屋の中で、布団に包まれて眠っていたらしかった。
 首を動かしてもほかに誰かがいる気配はない。気付けば窓の外からは美しい歌声が聞こえてきていて、言葉の意味はわからないながらも賛美歌だと直感した。体を起こして外をのぞくと、眼下には白い石畳の並ぶ広場が広がっている。その中心では十数人の修道女たちがやわらかな表情で両手を組み合わせていた。
 場所の見当をつけようと遠くに目を凝らしても、見覚えのある建物はない。そもそも、アーシャラフトの生まれではないソニアに土地勘はないのだった。誰かに拾われてここに連れてこられたことに違いはないのだけれど。
(どうして、こんなところに)
 アーシャラフトに知人はいない。それどころか、ソニアは母以外には誰も知らない。その母に捨てられどこにも行くあてがなかった彼女は、最後の最後で神の御許を目指したのだった。女神ノーディスであれば、この魂を救いあげてくれるだろうと。
 闇に呑まれたはずだった。あのまま目を覚ますことはないつもりだった。硬い石畳の上で冷気にあおられ、誰に知られることもなく一生を終えるものだと思っていた。
 考えても見当がつかず、かといってベッドを抜け出すこともなく。ぼんやりと考えを巡らせていたとき、だった。
「よろしいですか?」
 部屋の扉を叩く音があって、奥から凛とした女性の声で呼びかけられる。
「は……はい」
 しぼりだした声はみっともなくかすれた。
 扉をひらいた女性は、梳けば散ってしまいそうな灰の髪をしていた。銀にしてはくすんだ、けれど燃えかすと呼ばうにはたおやかな。反して肌は白く、手首まで覆い隠すような男物の装束を身にまとっているのが惜しい。女であるソニアにすらそう思わせるような洗練された容姿を持っていた。
「お体の具合はいかがですか? 見たところ、怪我はないようでしたが」
「大丈夫です」
 おののきながら返すと、そうですかと女性は笑って、片手に提げていた籠をソニアに差しだした。大麦を混ぜ込んだパンにシンプルなバタール、形の整ったクロワッサンと小型のブリオッシュ。ふうわりとやわらかそうに焼きあがったパンが数種類、香ばしい匂いを放っていた。
 腹の虫が鳴って、ソニアは慌ててそこをおさえた。生まれてこのかた、こんな食事に出会ったことはない。ある程度の生活を営むことのできる家庭ならまだしも、その日を暮らすのがやっとの貧しい人間では。
 どうぞ、と。軽やかに笑った女性がパンの籠をソニアの傍らに置いた。バターの香りが鼻孔をくすぐってソニアはごくりとつばを飲む。しかしすぐに、縋るようにして女性を見あげた。
「あの、でも、わたし、お金がなくて」
「お金を取ることなどいたしません、どうぞお好きなように召しあがってください」
「でも」
「ちぎって差しあげたほうが?」
 茶目っ気とともに言われてはぶんぶんと首を振るしかない。取りだすものに迷って、結局、最初に目についたパンを拾いあげた。濃く焼き目のついたそれに、ひかえめにかぶりつく。ぴたりと動きが止まった。
 気付いた女性がいぶかしげに首をかしげる。
「……いかがなさいました?」
 答える余裕もなく、咀嚼して、飲みこんだ。もう一口、もう一口と、がむしゃらにパンに食らいつく。手のひとつがなくなれば、すぐに籠から同じ形のものをつかみだして口に運んだ。胃の中に流し込むように、食欲に従うままに食べ続ける。
 おいしい、ではない。空腹を満たすことだけを目的とする食事に味などない。
 ほとんど間をおかずに嚥下していたせいか、突如胸が押さえつけられるように痛んで激しくせきこむ。そこではたとして女性を見あげると、彼女は薄い唇をかんで痛ましそうにソニアを見つめていた。なおも口元に寄せようとしていたパンを握りしめていた手から、少しずつ力が抜けていく。
 ――こんな食事は、ひとのするものではない。
「ご、めんな、さ」
 震える声で謝ると、女性はすぐに首を横に振った。
「さぞかしお辛い生活をなさっていたとお見受けします、……ミセラ様」
 聞き慣れない名前。ソニアはぴくりと眉を動かした。けれどその言葉は自分に向けられたものに違いない。そんなソニアの様子に気がつく風もなく、女性は悲痛な面持ちで続ける。
「ファルツ公爵、公爵夫人。おふたりとも、あなたが亡くなったとお思いです。アーシャもひどく嘆かれておいででした」
 たたみかけるように並べたてられた名前のどれにも聞き覚えがなかった。公爵というからにはある程度の身分を持つ人間なのだろうと想像するも、そんな相手に面識があるはずもない。ソニアは呆然と彼女の話を聞いていたが、慌てて口をはさんだ。
「ミセラ、って。ファルツ公爵って、どなたですか?」
 沈黙がおりた。
 突然のそれに、おかしなことを言っただろうかとソニアが不安に目をしばたかせる。
 女性はそれまでのいたわりに満ちた視線を真剣なものに変え、ややあって、正面からソニアを見つめて問うた。
「憶えておられませんか。アーシャのことも、花嫁のことも?」
「憶えて、って」
「衰弱で記憶が飛んでおられるのかもしれません。お母上のことも思い出せませんか?」
 ソニアの口元がひくりと引きつる。母という単語を出されたゆえのその反応を、しかし、女性は違う意味に取ったようだった。数秒考えこんだあと、ひとつ息をつく。
「大聖堂の前で倒れているあなたを、今朝、神官のひとりが発見しました。銀薔薇の首飾りがそばに落ちていたためにわたしたちが呼ばれ、ミセラ様――あなたを、この宮殿までお連れしました」
「銀薔薇の、首飾り?」
「ええ、ファルツ家に伝わる家宝です。今はアーシャがお持ちになっていますが……アーシャのことは」
 つと目をそらすと、憶えていませんか、と返される。
 その言葉に首を振った。
「記憶を失ったわけでも、ないです。ほんとうになにも知らなくて」
「混乱なさっているのでは、と」
「違います!」
 思わず声を荒げると、女性はきょとんとする。申し訳ない気持ちになって顔を伏せた。腹の奥をしめつけられるような沈黙のあと、小さく首を振った。
「わたしはソニアです。ミセラという名前は、聞いたこともありません」
 まして、銀薔薇の首飾りなど所持していたはずもない。
 銀製品は少量でも高い価値を持っている。細工が精密になれば、耳飾りのような小型の装飾品ひとつでも数年は暮らしていけるような代物になるだろう。そんなものが手元にあればそもそも行き倒れたりなどしていない。
「人違いです。わたしはアーシャラフトの生まれではないし、倒れる前のことも、よく憶えているから」
 暗く曇った女性の顔を見て、期待を裏切ってしまったのだと悟った。ミセラという女性は、彼女たちにとってそれほどの価値のある人間だったのだろう。どんな顔なのか、生きているのかさえ不明瞭な女性であっても、身元の確認すらなしに手厚い看病を受けられるような。
 高貴な身分に生まれ、そして多くの人に愛される人間だ。自分とは違う。
「ごめんなさい。食事も、看病も。――わたしはなにも返せません」
 今食べたものの代金を支払うために、どれだけ身を粉にして働けば足りるだろう。諦めに近い気持ちで女性を見やる。
 彼女の長いまつげが、淡い青の瞳を覆った。
「……ミセラ様がお帰りになったという話は、今やアーシャラフトじゅうに広まっています。それをなかったことにすることは、難しいかと思います」
「それでも、わたしはその方とは」
「ですから」
 語気を強めて、女性がソニアの声をさえぎる。
 鋭い光を宿した目がソニアを射抜くように細められていた。ほんとうの彼女はこちらなのだ、と、頭の端で思う。灰の髪はやはり、銀なのだ。そのまばゆさをうちに隠した剣の色。
「まずは、アーシャにお会いになってはいただけませんか」
 アーシャ。
 その単語をおうむ返しにつぶやくと、女性はうなずいた。
「この地でお眠りになる女神ノーディスはご存知ですね。その守護者の血を引く人間が、代々アーシャと呼ばれる立場を引き継いでいます。先代のアーシャが急死されたのが一年と半年ほど前でした」
 アーシャの住まう地。アーシャラフトという名は、そんな意味を持っているのだと母から聞いたことがある。アーシャという名の意味を知らなかった当時は話半分に聞き流していたけれど、今になってそれがよみがえろうとは思いもよらなかった。
「今のアーシャは十七歳、名はラクス。我が主です」
「あなたの……?」
 ええ、と彼女は首肯する。そして、女性にしては皮膚の硬くなった手を胸の前にあてた。そのまま深くこうべを垂れる。一連の動作には迷いがなく、美しさすら感じさせた。
「エリーザベト・チェルハと申します。アーシャのもとへお連れするまで、あなたに付き添わせていただきます」
「顔……っ、顔をあげてください!」
 思わず彼女の肩においた手から、かすかに振動が伝わってくる。少し遅れて、彼女が喉を震わせて笑っているのだと気付いた。
 ぽかんとしたソニアに、笑みを浮かべる彼女の白皙が向けられた。眉根を下げて、困ったような顔でくすくすと声をこぼしている。口元に手をあてる所作は嫌味さのない気品を彼女にまとわせていた。
「申しわけありません……あなたが、ふふ、あまりに慌てているので」
「え、エリーザベトさん、が、頭を下げるからです!」
「ええ、そうですね」
 彼女は笑みを含んだまま返して、続ける。
「けれど当然のことです。たとえあなたがミセラ様ではいらっしゃらないにしろ、アーシャへのお客人はみな、敬意を払うべき相手――私たちは神殿騎士ですから」
「神殿、騎士」
 騎士などという肩書きは、彼女のような女性には不釣り合いなものだ。それが手の硬さにも表れるのだろうか、と、ソニアの声が自身でも気付かないうちに暗くなる。
 それがまたおかしかったのか、彼女の口元に手が寄った。
「エリーゼ、とお呼びください。ソニア様」
 手のかかる娘をあやすような口調に、ソニアは困惑しながらもうなずいた。