廊下の左右を油断なく確認して、彩香は早足で部屋を出た。指定されていた時間を十数分ほど残して授業は切り上げられている。その時間だけが、彩香に残された猶予だった。
 桐と鉢合わせれば、問答無用で部屋に連れ戻されてしまうだろう。彼の控える部屋からの道程を頭に思い描き、それを避けるようにして彩香は廊下を抜けていく。裏へ裏へと向かう足は、自然と騒ぎの起こっている屋敷の表から離れるように進んでいた。
 ひときわ立派な扉の前に足を止めて深く呼吸をする。失礼しますと声をかけ、返事を待たずに押し開いた。
 部屋の主の視線が厳しく刺す。彼――朝妻知治は、椅子に坐したまま「彩香」と名を呼んだ。
「私はお前を呼んだ覚えはないが」
「私には、お父様に用事があります」
 それで十分だろうと意志を込めて視線を跳ねかえす。よもや反抗を受けるとは思わなかったのだろう、知治はぴくりと眉を跳ねあげた。
 絨毯を踏んで彼の前に歩み出る。かつて獣の檻の置かれた位置に足を止めると、彩香は姿勢を正した。
「そろそろ教えていただけませんか。……私が何故、ここに連れ戻されたのか」
「お前は私の娘だろう、ならば」
「要らないと仰ったことをお忘れですか?」
 手のひらを返すような一言で、彩香は命を捨てられた。槍は確かに彩香を狙い、貫き、その命を散らさんとしていたのだ。かの記憶が生々しいからこそ、父と娘のあいだには今も赤の他人であるかのようなよそよそしさが漂っている。
 彩香が納得しないことを察してか、知治は観念したように嘆息した。手元の書類を揃えて机の端に寄せる。
「縁談がまとまった。お前が屋敷を離れても、長くお待ちくださった相手だ。今月のうちに式を行う話となっている。……異論はないな?」
 問いかけではなく、確認の形を取った。諦念にも似た気持ちでその言葉を受け取る。
 自分はもはや知治の愛娘ではない。朝妻の跡取りとしてしか、存在を許されていないのだ。梅の紋を受け継ぎ、やがては次代へと受け渡していくための女。槍を向けられたそのときから抱えてきたわだかまりが解けて、彩香は胸の奥に冷えたものが通り抜けるのを感じる。
 そういう人だ、と理解すれば、執着する理由は消えた。
「私をその方と結婚させるのは、その方のお母上が、お母様に似ているからでしょう」
 低い声で問う。知治が微かに顔を歪めた。
「庭に李の木を植えたのは、消えないものがあると信じたいから。獣や器を集めるのは、お母様のいなくなった空白を埋めたいから。……お父様はそれで、本当に満たされたというの?」
 自分の問いに首を振る。虚ろなままの胸の内を、別のもので埋められるはずがない。それでもなお求め続けるのは、風穴の空いたそこが冷えて軋むからだ。
 ものを手放すことを嫌う人、いつまでも手元に留め置きたいとする人だった。永遠を求めてやまず、それでも自らに逆らうならば切り捨てることをいとわない人でもあった。二十年を共に過ごした彩香は、病的なまでのその執着を見つめ続けてきた。
「その方のお母様は、お父様の奥方ではないわ。私が結婚しても、いいえ、万が一お父様がその方と再婚するようなことがあったとしても、決してお母様……華澄かすみお母様は戻ってこない。もうあの方はどこにもいない、代わりは誰にも務まらない、だから泣いて、苦しんだのでしょう。帰ってこないことを知っているから!」
「……黙りなさい、彩香」
「いいえ黙らない! このままではお父様は、いつまでもお母様の影を落としたまま生きなければならないことになる!」
 立ち止まったままでも時間は過ぎる。取り残されていくだけだ。
 どうか気付いて。掠れた声で懇願する。
「――散らない花はないのよ、お父様」
 途端、机を殴りつけて知治は立ち上がる。瞳にぎらぎらと炎を燃やし、音を立てるほどに奥歯を噛みしめていた。激昂のままに息を吸った彼は、しかしそこで一拍の間を置いて、「もういい」と首を振る。
「お前に言うことを聞く気がないのは分かった。……彩香、梅の紋の証を出しなさい。偽物ではない、本物の証を」
「……っ」
 思わず黙り込んだ。
 部屋の抽斗に仕舞っておいた贋作にも気付かれているのだろう。屋敷の外の者や使用人ならともかく、知治ならば一目見て偽物と見抜けない訳がない。ならば娘を連れ戻したのも本物の証の所在を吐かせるためだ。彩香は納得して、やり場のない怒りに身を震わせる。
「……無いわ」
「なんだと?」
「ずっと前から、薬入れは無かったの。偽物を私に下さったのはお母様、失くしたのは私」
 知治が言葉を失う。たちまちに顔を赤くすると、今度こそ机から身を離した。早足で彩香に歩み寄ると、その頬を殴りつける。ぱあん、と高い音が鳴り響き、彩香の目の前に火花が飛んだ。歯を食いしばって堪えても目元には涙が滲む。
 獣の躾をするのは飼い主の役目だ、と知治は言った。ならば今の彼の姿は、そのまま獣に向けたものであるのだろう。娘の頬を張ったままで手を止めた知治は、彩香の目から反抗的な光が消えないのを見て再びその手を振り上げる。
 彩香は思わず目を閉じた。手のひらが空を切る音が耳に届く。――しかし二度目は、訪れない。
 鼻をくすぐったのは、汗と、草と、土の香り。
 彩香は恐る恐る目蓋を上げる。怒りに震える知治の手首を受け止めて、彼女の傍らには青年が立っていた。
「――ラ、ウ?」
 どうして。
 絶句した彩香を一瞥し、ラウは後ずさろうとする知治の手を離した。じりじりと距離を取った知治が憎々しげに彼を睨む。その表情に浮かんだ驚愕は、開け放たれたままの扉を視界に入れた瞬間により大きなものへと変わっていった。
 つられてそちらへ目を向けた彩香は息を飲む。屋敷を去ったはずの苑が、薄い笑みを浮かべてそこに佇んでいるのだ。
「……苑、老師。これはどういうことか」
「なに、帰路に就こうとしたところで、屋敷に入れろと訴える彼らに会いましてな」
 彩香は戸惑いのままにラウを見上げる。彼はそれに気付くと肩をすくめてみせ、そのまま苑に目を向けた。
 彼ら、と言うからには、屋敷には彼の他にも複数の天虎たちが押しかけていたのだろう。武術に長けた彼らが相手ともなれば、平和に慣れた朝妻の私兵がいつまでも門を守りきることは不可能だ。
 先ほどまでひっきりなしに耳に入っていた怒声も騒音も、気付けば嘘のように静まり返っている。怒れる天虎と朝妻の兵の間に入る形で、苑が交渉を持ちかけたのだろう。それを裏付けるかのように、苑は穏やかな表情で言葉を継いだ。
「たいそう揉めていた様子だったので、彼ひとりを中に入れる約束でことを治めていただいたのですよ」
「勝手なことをしないでいただきたい。ここは梅の紋を抱く朝妻の屋敷だ」
 ぴしゃりと叱りつけると、苑は老獪な笑声を上げる。それが知治の怒りを煽ったのか、彼は苛立たしげに足を踏み鳴らした。
「朝妻の当主殿」ラウは空いた手で懐を探り手のひらほどの大きさのものを取りだすと、彼に声をかける。「あなたの探しているものはこれか」
 顔を上げた知治にそれが放られる。ぞんざいに扱われた小物は、見間違いようもない、梅の紋が描かれた本物の薬入れだ。父子が目を剥くのを意にも介さず、ラウは大きく息を吸って声を張る。
「それはあなたにお返しよう。代わりにあなたの娘を頂きたい」
「ら、ラウ!?」
 驚きのあまり声を裏返した彩香を視線だけで黙らせ、ラウは続ける。
「当主殿、あなたは彼女が不要だと言った。ならば俺が貰い受ける。あなたの娘でなくなった彼女を俺の妻にする。どこにも問題は無いはずだ」
「……けるな」
「ん?」
「ふざけるなと言ったんだ!!」
 大音声が耳朶を叩く。知治のこめかみには青筋が浮かび、怒気をはらんだ体はわなわなと震えていた。身を竦ませた彩香を背にかばうと、ラウは眉を寄せて彼に対峙する。知治は目を血走らせ口を開いた。
「それは朝妻の娘だ、梅の紋の後継ぎだ。婚約も決まっている、誰が蛮族なぞに――」
「ああ、少し、よろしいですかな」
 遮るように手を上げた苑に、知治は食ってかかろうとする。しかし彼の手で目の前に突きつけられた文に勢いを呑まれたのか、奪い取るようにしてそれを受け取った。無言で文面に目を走らせた彼は、末尾へと読み進めるにつれてその怒りを削ぎ落とされていく。
 読み終えるのを見はからったようにして、苑は道化さながらに口を開いた。
「先ほど文を預かったことを忘れておりました。年寄りのお節介で少し中を覗かせていただきましたが、知治殿、間違いなくあなたに向けたものでしょう」
「……これは、どういう、ことだ」
 魂を抜かれたように首を振る知治に、老いた師は呵々と笑う。
「婚約の解消。どうやら桃の紋に、より良いお相手を見つけたようですなあ」
「……え?」
 唐突な文面に虚を突かれたのは彩香も同じだった。呆けたように口を開けて父親と師とを見比べる。
 彼女の視線が何度目かの往復を終えたとき、文を読み返した知治はわめき声と共にそれを千々に破り捨てた。舞い散る紙吹雪を見ても彼の激情は留まるところを知らず、ついにはそれまで握っていた薬入れを床に叩きつける。怒りに任せて下ろされた足が何度もそれを踏みつけ、しまいには梅の印に薄いひびが刻まれた。
「くそ、ふざけるな、誰が、誰がこんな……っ!!」
 ぱきん、と的外れな軽い音と共に、薬入れが二つに割れる。なおもそれを踏みにじろうとする彼を止めたのもまた苑であった。
「――知治よ」
 清水のような、声。しんと静まった部屋の中で、喋ることを許されたのは苑のみだった。
「それは八華の一、梅の紋を預かる証に違いあるまい」
「それが何だ、老師」唸るように言い、知治は苑を睨みつける。「あなたは先ほどから、恐れを知らないように見える。まさか私の怒りを買いたいとでも仰るのか、家庭教師に過ぎないあなたが?」
 例えるならば蛇に睨まれた蛙。梅の紋を預かる男と知を授けるのみの老人とでは、置かれた立場の差は歴然としている。解雇で済めば安いもの、知治がその気になれば二度と日の目の見られない場所へと追いやることすら厭わないだろう。
 しかし苑はその脅しに口の端一つも動かさない。夜霧に似た冷やかな目で、頭一つは上にある男の顔を見据えていた。
「証の破損。それは八華連邦への冒涜も同じ」
「……何が言いたい?」
「名を、伝えておらなんだかのう。朝妻の坊よ」
 訝しむ知治に、苑は告げる。
「わしの名は楊苑ようえん。桃の紋を預かる楊家の現当主……今は八華連邦議会の議長なんてものもしておる老いぼれだよ」